2020.7.28
映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』はその名のとおり海賊の物語。時代設定は18世紀とされています。また、マンガ『ONE PIECE』も(もちろん史実に準じた時代設定ではありませんが)「大海賊時代」の物語です。では、史実の「大海賊時代」の実態はどのようなものだったのでしょうか。リアルな「大海賊時代」について紐解いていきます。
◆「カリブの海賊」は、なぜカリブ海?
海賊について語るには、16世紀のヨーロッパまで時代を遡ります。1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、地中海の制海権を獲得し、地中海貿易に高い関税をかけるようになります。それもあって、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐して勢いに乗るスペイン、ポルトガルは、地中海以外の航路を開拓すべく世界に乗り出していきます。
競うように進出していった両国が衝突するようにもなったので、ローマ法王が「教皇子午線」と呼ばれる境界線を設定し、ポルトガルが主として喜望峰を回ってアジア・アフリカに(アメリカ大陸はブラジルのみ)、スペインがアメリカ大陸から太平洋方面に進出していくことになります。
スペインは新大陸アメリカに進出し、インカ帝国やアステカ王国を滅亡させ、苛烈に金銀を収奪していきますが、海賊のイメージの強い「カリブ海」も主にスペインの植民地でした。つまり、メキシコ・ペルー・ボリビアなどからヨーロッパへの金銀の輸送ルートを狙った男たちが海へ向かい、略奪を始めたのがカリブの海賊の起こりです。
ここでひとりの海賊を紹介します。ジョン・ホーキンス(1532~1595)。彼は奴隷商人かつ海賊でした。カリブ海でサトウキビを栽培したいスペインは黒人奴隷を求め、イングランドはスペインの植民地にアフリカ人奴隷を安値で売り込みました。その活動の中心となったのがホーキンスです。
海賊といえば、フランシス・ドレーク(1543~1596)という名前を聞いたことがある方も多いでしょう。彼ははジョン・ホーキンスの従兄弟です。ドレークは1577年から1580年に世界一周を果たします。その旅で総額60万ポンドを超える巨万の財宝や香辛料を獲得し、航海の出資者たちに配当金として支払いますが、出資者であったイングランド王室も当時の歳入よりも多い30万ポンド以上の富を手にしたといわれます。
またドレークは、海賊としては現ボリビアのポトシ銀山で採掘されスペインへ運搬される大量の銀を略奪したことが知られています。
それらの功績(?)が認められ、エリザベス1世からナイト(Knight)の称号を授かり、さらにドレークはイングランド海軍中将に任じられます。
ここまで読んで「海賊がイングランドの国益に貢献しすぎでは」と感じた方がいるかも知れません。その裏側にはエリザベス一世が海賊と国家権力を一体にしたこと、つまりホーキンスとドレークは”女王陛下の海賊”として海賊を海軍に取り込んだことがありました。
エリザベス一世の孫、ヘンリー七世が海洋事業を起こしますが、息子たちは興味が無かったため、エリザベス一世が引き継ぎ、特定の冒険商人(海賊)に貿易の許可を与え、王室に冨が配分されるシステムを確立したのです。
エリザベス一世はヘンリー八世とアン・ブーリン(愛人)の娘でしたが、母は2歳の時に処刑されてしまいます。
”処女王”と呼ばれる通り、未婚を貫きますが、愛人は多数いたようです。キャサリン・パー(ヘンリー八世の愛人)に救われ王族として教育をうけるのです……が、エリザベスはキャサリンの再婚者トマス・シーモアと恋に落ちてしまい、抱き合っているのをキャサリンに見られ追い出されてしまいます。
1557年に即位したエリザベス一世は即位直後、国王至上法を施行し権限を強化、また国教会の権威を強化します。1587年にスコットランド討伐。ドレークの世界一周の海賊マネー(30万ポンド)を懐にいれ、多くはこれまでの王室の借金返済にあてます。
エリザベス一世は裏で海賊シンジケート(組合)を結成させます。1929年に大英博物館で発見された海賊への出資リストによると、王族・貴族が多数出資していたことがわかっています。ドレークたちの任務はすべてエリザベス一世の命令であり、彼女は海賊シンジケートの配当金を400パーセント得ていました。海賊シンジケートは、後の「東インド会社」へと発展していきます。エリザベス一世は海賊であるドレークを英雄に仕立て上げ政治利用したのです。
海賊がイングランド海軍となった大きなきっかけの1つが、イングランド海軍がスペインの“無敵艦隊(アルマダ、Armada)“を撃破した1588年のアルマダの海戦です。
スペインは、イングランドの度重なる海賊行為やオランダ独立戦争への支援などに業を煮やし、イングランドに侵攻すべく130隻のスペイン無敵艦隊を出撃させます。これに対してイングランドでは臨時王室艦隊が結成され、王室海軍に海賊が合流します。
この戦いで「艦隊戦術」を生み出したのがドレークです。イングランド海軍の次席司令官はドレーク、三席司令官はホーキンスが務め、彼らが実質的な指揮を執ったのです。
作戦計画はドレークが一手に引き受けました。彼は前哨戦でスペイン海軍の戦法の弱点を的確に掴み、そこを執拗に攻め立てます。また、火薬を満載した船を突入させて、無敵艦隊を混乱に陥らせ陣形を崩して、決定的な勝利を収めるのです。アルマダの海戦を機に、スペインの海での覇権は失われ、イングランドが台頭します。
このようにエリザベス一世が、海賊を海軍に取り込んだことが、経済的にも軍事的にも、パクスブリタニカ(イギリスの繁栄による平和)の発端ともなったのでした。(八尋 滋)
参考文献:
『嘘だらけの日英近現代史』(倉山満、扶桑社新書、2016年)
『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ、ちくま新書、2011年)
『イングランド海軍の歴史』(小林幸雄、原書房、2016年)
『海賊の歴史』(フィリップ・ジャカン、創元社、2003年)
『海賊キャプテン・ドレーク』(杉浦昭典、講談社学術文庫、2010年)
◆「カリブの海賊」は、なぜカリブ海?
海賊について語るには、16世紀のヨーロッパまで時代を遡ります。1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、地中海の制海権を獲得し、地中海貿易に高い関税をかけるようになります。それもあって、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐して勢いに乗るスペイン、ポルトガルは、地中海以外の航路を開拓すべく世界に乗り出していきます。競うように進出していった両国が衝突するようにもなったので、ローマ法王が「教皇子午線」と呼ばれる境界線を設定し、ポルトガルが主として喜望峰を回ってアジア・アフリカに(アメリカ大陸はブラジルのみ)、スペインがアメリカ大陸から太平洋方面に進出していくことになります。
スペインは新大陸アメリカに進出し、インカ帝国やアステカ王国を滅亡させ、苛烈に金銀を収奪していきますが、海賊のイメージの強い「カリブ海」も主にスペインの植民地でした。つまり、メキシコ・ペルー・ボリビアなどからヨーロッパへの金銀の輸送ルートを狙った男たちが海へ向かい、略奪を始めたのがカリブの海賊の起こりです。
◆イングランドに巨万の富をもたらす
ここでひとりの海賊を紹介します。ジョン・ホーキンス(1532~1595)。彼は奴隷商人かつ海賊でした。カリブ海でサトウキビを栽培したいスペインは黒人奴隷を求め、イングランドはスペインの植民地にアフリカ人奴隷を安値で売り込みました。その活動の中心となったのがホーキンスです。
海賊といえば、フランシス・ドレーク(1543~1596)という名前を聞いたことがある方も多いでしょう。彼ははジョン・ホーキンスの従兄弟です。ドレークは1577年から1580年に世界一周を果たします。その旅で総額60万ポンドを超える巨万の財宝や香辛料を獲得し、航海の出資者たちに配当金として支払いますが、出資者であったイングランド王室も当時の歳入よりも多い30万ポンド以上の富を手にしたといわれます。
またドレークは、海賊としては現ボリビアのポトシ銀山で採掘されスペインへ運搬される大量の銀を略奪したことが知られています。
それらの功績(?)が認められ、エリザベス1世からナイト(Knight)の称号を授かり、さらにドレークはイングランド海軍中将に任じられます。
◆ぼろ儲けの海賊シンジケートが、やがて「東インド会社」に
ここまで読んで「海賊がイングランドの国益に貢献しすぎでは」と感じた方がいるかも知れません。その裏側にはエリザベス一世が海賊と国家権力を一体にしたこと、つまりホーキンスとドレークは”女王陛下の海賊”として海賊を海軍に取り込んだことがありました。
エリザベス一世の孫、ヘンリー七世が海洋事業を起こしますが、息子たちは興味が無かったため、エリザベス一世が引き継ぎ、特定の冒険商人(海賊)に貿易の許可を与え、王室に冨が配分されるシステムを確立したのです。
エリザベス一世はヘンリー八世とアン・ブーリン(愛人)の娘でしたが、母は2歳の時に処刑されてしまいます。
”処女王”と呼ばれる通り、未婚を貫きますが、愛人は多数いたようです。キャサリン・パー(ヘンリー八世の愛人)に救われ王族として教育をうけるのです……が、エリザベスはキャサリンの再婚者トマス・シーモアと恋に落ちてしまい、抱き合っているのをキャサリンに見られ追い出されてしまいます。
1557年に即位したエリザベス一世は即位直後、国王至上法を施行し権限を強化、また国教会の権威を強化します。1587年にスコットランド討伐。ドレークの世界一周の海賊マネー(30万ポンド)を懐にいれ、多くはこれまでの王室の借金返済にあてます。
エリザベス一世は裏で海賊シンジケート(組合)を結成させます。1929年に大英博物館で発見された海賊への出資リストによると、王族・貴族が多数出資していたことがわかっています。ドレークたちの任務はすべてエリザベス一世の命令であり、彼女は海賊シンジケートの配当金を400パーセント得ていました。海賊シンジケートは、後の「東インド会社」へと発展していきます。エリザベス一世は海賊であるドレークを英雄に仕立て上げ政治利用したのです。
◆スペイン無敵艦隊を翻弄し、撃滅す
海賊がイングランド海軍となった大きなきっかけの1つが、イングランド海軍がスペインの“無敵艦隊(アルマダ、Armada)“を撃破した1588年のアルマダの海戦です。
スペインは、イングランドの度重なる海賊行為やオランダ独立戦争への支援などに業を煮やし、イングランドに侵攻すべく130隻のスペイン無敵艦隊を出撃させます。これに対してイングランドでは臨時王室艦隊が結成され、王室海軍に海賊が合流します。
この戦いで「艦隊戦術」を生み出したのがドレークです。イングランド海軍の次席司令官はドレーク、三席司令官はホーキンスが務め、彼らが実質的な指揮を執ったのです。
作戦計画はドレークが一手に引き受けました。彼は前哨戦でスペイン海軍の戦法の弱点を的確に掴み、そこを執拗に攻め立てます。また、火薬を満載した船を突入させて、無敵艦隊を混乱に陥らせ陣形を崩して、決定的な勝利を収めるのです。アルマダの海戦を機に、スペインの海での覇権は失われ、イングランドが台頭します。
このようにエリザベス一世が、海賊を海軍に取り込んだことが、経済的にも軍事的にも、パクスブリタニカ(イギリスの繁栄による平和)の発端ともなったのでした。(八尋 滋)
参考文献:
『嘘だらけの日英近現代史』(倉山満、扶桑社新書、2016年)
『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ、ちくま新書、2011年)
『イングランド海軍の歴史』(小林幸雄、原書房、2016年)
『海賊の歴史』(フィリップ・ジャカン、創元社、2003年)
『海賊キャプテン・ドレーク』(杉浦昭典、講談社学術文庫、2010年)