2019.8.15 陸軍
先の大戦に関しては、さまざまなかたちで語り継がれているが、そのなかで毀誉褒貶(きよほうへん)激しく論じられている人物は少なくない。終戦時に陸軍大臣を務めていた阿南惟幾(あなみ・これちか)も、その例外ではないだろう。
昭和20年(1945)8月。当時の鈴木貫太郎内閣において、最後までアメリカへの「徹底抗戦」を主張したのが阿南であった。8月9日午前10時30分、御前での最高戦争指導会議に臨んだ阿南は、その態度を崩すことはなかった。
その姿から、戦後は「頑迷な軍国主義者」と見られた阿南。しかし、彼は本気で徹底抗戦、さらに具体的にいえば本土決戦を考えていたのだろうか。
8月6日の広島への原爆投下、8月9日未明のソ連の対日参戦、さらに同9日の長崎への原爆投下と、いよいよ状況が切羽詰まっていくなか、8月10日午前零時過ぎに始まった御前会議は、ポツダム宣言受諾の可否について結論を出せぬまま、時が過ぎていった。陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ・これちか)は、なおも徹底抗戦を主張する。ここに至り、鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)首相は天皇に「御聖断」を仰ぎ、ポツダム宣言受諾が決せられた。
このときに、「約束が違う!」と鈴木貫太郎首相に詰め寄ったのは吉積正雄(よしづみ・まさお)軍務局長であったが、阿南はそれを「もういいではないか」とたしなめている。このときの阿南の心中は、いかばかりだったか。いまとなっては推し量るしかないが、少なくとも武人として「御聖断」に従う心構えだったことはうかがえる。そして、さらにいえば、是が非でも徹底抗戦に導こうとは考えていなかったのではないか。
阿南は大佐時代の昭和4年(1929)、侍従武官として天皇に奉仕している。そのときに侍従長を務めていたのが、終戦時の首相・鈴木貫太郎であった。2人は4年間、宮中勤務を通して天皇に直に接し、またお互いの信頼を深めた。事実、阿南は御前会議の10日前に「本土決戦はやらんよ、第一、陛下がお許しにならん」と語っている。
陸軍内部でも絶大な人望を集めた阿南は、先を見通すことができる数少ない人物であった。そんな阿南からすれば、自らが「徹底抗戦」を叫ぶことにより、陸軍内部を押さえておき、その間に昭和天皇と鈴木首相が終戦に導いてくれるという考えがあったのかもしれない。言葉を選ばなければ阿南の「腹芸」だが、その言葉に付きまとうダーティーなイメージは、部下たちに「徳義は戦力なり」と薫陶(くんとう)していた阿南には似合わない。
阿南は、結果として「徹底抗戦」の主張が通らずとも、陸軍大臣を辞さなかった。実はこのとき、陸軍の一部では中堅将校のクーデター計画が進んでいた。すると阿南は、「諸君らの意向は閣議で了解されつつある」として慰撫(いぶ)し、そして終戦の御聖断が下ると陸軍省に戻り、「陸軍はあくまで、聖断に従って行動す」と伝達した。その上で、「陛下はこの阿南に対し、お前の気持はよく分かる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された」と話し、なおも本土決戦を主張する将校らに「ならば、阿南を斬れ!」と一喝して押しとどめた。もしもこのとき、クーデターが本格化していれば、大袈裟(おおげさ)ではなく日本の歴史は変わっていただろう。
8月14日午後11時過ぎ、阿南は鈴木首相のもとを訪ねて、次のように頭を下げた。
「終戦の議が起こって以来、自分は陸軍の意思を代表してずいぶん強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりがかえって種々意見の対立を招き、閣僚としてはなはだ至らなかったことを、深く陳謝いたします」
鈴木首相はこれに、「そのことはよく分かっておりました」と応えた。そして阿南が辞去したのち、「阿南は暇乞い(いとまごい)に来たんだよ」と、迫水久常(さこみず・ひさつね)書記官長にしみじみと語ったと伝わる。阿南と鈴木、そして昭和天皇の3人は、やはり心の底で通じ合っていたのだろう。
そして迎えた、8月15日。いまを生きる私たちが「終戦記念日」と呼ぶこの日の明け方に、阿南は陸軍大臣官邸で自刃した。侍従時代に下賜されたYシャツを身につけ、「一死以て大罪を謝し奉る」と遺書をしたためた後だったという。また、「大君の深き恵みに浴みし身は言い遺すべき片言もなし」とは、すでに侍従武官時代に詠まれていた、阿南の辞世の句である。
この報せを受けて、会議などで幾度となく衝突した東郷茂徳(とうごう・しげのり)外相は、「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語ったという。
なお、阿南がまさしく割腹する間際、青年将校たちが宮城を武力占拠すべく決起し、近衛第一師団長の森赳(もり・たけし)中将を射殺している(宮城事件)。だが、阿南の割腹はクーデターの気運をも殺いだ。決起した者たちは鎮圧され、次々と自決、ないし逮捕された。
そして終戦――。陸軍は暴発するどころか、連合国側が敬意を表するほどの整然とした武装解除ぶりを見せた。阿南の「魂」は、たしかに陸軍に受け継がれていたのである。(池島友就)
昭和20年(1945)8月。当時の鈴木貫太郎内閣において、最後までアメリカへの「徹底抗戦」を主張したのが阿南であった。8月9日午前10時30分、御前での最高戦争指導会議に臨んだ阿南は、その態度を崩すことはなかった。
その姿から、戦後は「頑迷な軍国主義者」と見られた阿南。しかし、彼は本気で徹底抗戦、さらに具体的にいえば本土決戦を考えていたのだろうか。
●陸軍はあくまで聖断に従って行動す
8月6日の広島への原爆投下、8月9日未明のソ連の対日参戦、さらに同9日の長崎への原爆投下と、いよいよ状況が切羽詰まっていくなか、8月10日午前零時過ぎに始まった御前会議は、ポツダム宣言受諾の可否について結論を出せぬまま、時が過ぎていった。陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ・これちか)は、なおも徹底抗戦を主張する。ここに至り、鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)首相は天皇に「御聖断」を仰ぎ、ポツダム宣言受諾が決せられた。
このときに、「約束が違う!」と鈴木貫太郎首相に詰め寄ったのは吉積正雄(よしづみ・まさお)軍務局長であったが、阿南はそれを「もういいではないか」とたしなめている。このときの阿南の心中は、いかばかりだったか。いまとなっては推し量るしかないが、少なくとも武人として「御聖断」に従う心構えだったことはうかがえる。そして、さらにいえば、是が非でも徹底抗戦に導こうとは考えていなかったのではないか。
阿南は大佐時代の昭和4年(1929)、侍従武官として天皇に奉仕している。そのときに侍従長を務めていたのが、終戦時の首相・鈴木貫太郎であった。2人は4年間、宮中勤務を通して天皇に直に接し、またお互いの信頼を深めた。事実、阿南は御前会議の10日前に「本土決戦はやらんよ、第一、陛下がお許しにならん」と語っている。
陸軍内部でも絶大な人望を集めた阿南は、先を見通すことができる数少ない人物であった。そんな阿南からすれば、自らが「徹底抗戦」を叫ぶことにより、陸軍内部を押さえておき、その間に昭和天皇と鈴木首相が終戦に導いてくれるという考えがあったのかもしれない。言葉を選ばなければ阿南の「腹芸」だが、その言葉に付きまとうダーティーなイメージは、部下たちに「徳義は戦力なり」と薫陶(くんとう)していた阿南には似合わない。
阿南は、結果として「徹底抗戦」の主張が通らずとも、陸軍大臣を辞さなかった。実はこのとき、陸軍の一部では中堅将校のクーデター計画が進んでいた。すると阿南は、「諸君らの意向は閣議で了解されつつある」として慰撫(いぶ)し、そして終戦の御聖断が下ると陸軍省に戻り、「陸軍はあくまで、聖断に従って行動す」と伝達した。その上で、「陛下はこの阿南に対し、お前の気持はよく分かる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された」と話し、なおも本土決戦を主張する将校らに「ならば、阿南を斬れ!」と一喝して押しとどめた。もしもこのとき、クーデターが本格化していれば、大袈裟(おおげさ)ではなく日本の歴史は変わっていただろう。
●一死以て大罪を謝し奉る
8月14日午後11時過ぎ、阿南は鈴木首相のもとを訪ねて、次のように頭を下げた。
「終戦の議が起こって以来、自分は陸軍の意思を代表してずいぶん強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりがかえって種々意見の対立を招き、閣僚としてはなはだ至らなかったことを、深く陳謝いたします」
鈴木首相はこれに、「そのことはよく分かっておりました」と応えた。そして阿南が辞去したのち、「阿南は暇乞い(いとまごい)に来たんだよ」と、迫水久常(さこみず・ひさつね)書記官長にしみじみと語ったと伝わる。阿南と鈴木、そして昭和天皇の3人は、やはり心の底で通じ合っていたのだろう。
そして迎えた、8月15日。いまを生きる私たちが「終戦記念日」と呼ぶこの日の明け方に、阿南は陸軍大臣官邸で自刃した。侍従時代に下賜されたYシャツを身につけ、「一死以て大罪を謝し奉る」と遺書をしたためた後だったという。また、「大君の深き恵みに浴みし身は言い遺すべき片言もなし」とは、すでに侍従武官時代に詠まれていた、阿南の辞世の句である。
この報せを受けて、会議などで幾度となく衝突した東郷茂徳(とうごう・しげのり)外相は、「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語ったという。
なお、阿南がまさしく割腹する間際、青年将校たちが宮城を武力占拠すべく決起し、近衛第一師団長の森赳(もり・たけし)中将を射殺している(宮城事件)。だが、阿南の割腹はクーデターの気運をも殺いだ。決起した者たちは鎮圧され、次々と自決、ないし逮捕された。
そして終戦――。陸軍は暴発するどころか、連合国側が敬意を表するほどの整然とした武装解除ぶりを見せた。阿南の「魂」は、たしかに陸軍に受け継がれていたのである。(池島友就)