【日本海軍艦艇列伝3】駆逐艦雪風

2019.6.14 駆逐艦
 近年、ゲームなどの影響もあり、第二次世界大戦期の日本海軍の艦艇への注目が高まっている。そのなかでも、昔から絶大な人気を誇っていたのが駆逐艦「雪風」である。太平洋での主要な戦いに名を連ね、数々の激戦を闘い抜きながら、ついに沈没しなかったため、戦中より「幸運艦」と呼ばれた艦である。

 果たして、雪風はどのような軍艦だったのだろうか。そして、その奇跡の戦歴とは?

◆幸運は奇跡でも僥倖(ぎょうこう)でもない


「雪風」は日本海軍の主力駆逐艦(陽炎〈かげろう〉型8番艦)として佐世保工廠(させぼこうしょう)で建造された。竣工は、昭和15年(1940)1月のことである。

 そして、翌昭和16年(1941)12月の開戦直後に初陣を飾るのだが、以降、致命的な敵の爆弾・魚雷が命中することはなかった。スラバヤ沖、ミッドウェー、南太平洋、第3次ソロモン、マリアナなど、その生涯において、第二次世界大戦での連合艦隊の代表的な作戦の多くに参加しているにもかかわらず、である。

 しかし果たして、雪風の武勲を「幸運」の一言で片づけていいものだろうか。爆弾や魚雷については、命中するか否かは乗組員の力量による部分が大きい。その点、「雪風」の乗組員は次々と激戦地での経験を積んでいったことにより、必然的に他の駆逐艦の乗組員よりも練度が高かったといえる。とりわけ、戦時中の日本には有効な対潜水艦ソナーがなかったが、「雪風」は見張り員の練度が高かったため、一度も敵潜水艦の魚雷が命中することはなかった。

 また、名艦長の存在も見逃すことはできない。最たる例が、昭和18年(1943)12月より艦長を務めた寺内正道中佐である。

 寺内は「爆弾魚雷回避の達人」と呼ばれ、就任時には「雪風は沈まぬ、なぜなら俺が艦長を務めているからだ」と語ったと伝わる。乗員の練度の高さと、果断な判断をできる艦長。双方がそろえばこそ、「雪風」は幸運をもたらすことができたのだ。

 さらにいえば、「雪風」自体も優秀な駆逐艦だった。呉工廠での改装により最先端の電探(レーダー)が装備されるなど、戦時中より幸運艦と謳(うた)われた「雪風」には、多くの期待がかけられたために次第に最新の装備がなされていったのだ。

「いいフネでした。当時の駆逐艦としては最大型で、馬力はあり、操縦兵器は最新、魚雷は特に優れていた」。「雪風」の初代艦長を務めた田口正一はこう述懐している。

 そんな「雪風」の生涯における特筆事の一つが、昭和20年(1945)、戦艦「大和」の特攻である。このとき、「雪風」は寺内艦長のもとで「至近弾は数知れず、敵の航空魚雷と競争する場面もあった」というが、奇跡的に生還を果たした。

 これも幸運の一言で片づけられがちだが、乗組員の誰もが「任務完遂の執念」「見敵必戦の闘魂」を有していたことを忘れてはならない。実際、「その幸運は、決して奇跡でも僥倖(ぎょうこう)でもなかったと思う。艦長の優れた指揮統率のもと、乗員一同の磨き抜かれた術力と一致協力によって戦いとった幸運なのである」との乗組員の証言が残っている。

◆危険を顧みずに敵味方の救助にあたって……


 なお、「雪風」といえば、その数々の武勲が語られるが、その一方で危険を省みずに友軍や敵軍の救助にあたったのも1度や2度ではなかった。

「助けてやれ!」。昭和17年(1942)2月のスラバヤ沖海戦後、そう乗組員に命じたのは当時の飛田健次郎艦長である。

 このとき、「雪風」のまわりの海面には、多くの敵将兵が浮かび叫び声をあげていた。水雷長は「艦を停止すれば敵潜水艦の攻撃を受ける恐れがあります」と意見具申したが、飛田艦長は聞き入れずに救助を決断。オランダ巡洋艦「デロイテル」に座乗していた英海軍中尉1名と蘭士官数名、同下士官十数名を助けて、全員に新品の防暑服を与えたうえ、居住区の一部を用意したのだ。彼らは水を支給されると、笑顔を浮かべながら「ウォター」「ウォター」と拝んだという。

 その後、昭和18年(1943)3月、「雪風」は「八十一号作戦」に参加している。ラバウルからニューギニアへの部隊・物資の増援・増強を目的とした作戦であり、「雪風」の任務は輸送船の護衛である。

 同月2日、輸送船団の前にアメリカの爆撃機B-17が現れた。左列先頭の輸送船「旭盛丸」が標的とされ、水平爆撃を仕掛けられる。旭盛丸は被弾し、約1時間後に沈没するが、このときに駆逐艦「朝雲」とともに乗組員の救助にあたったのが雪風であった。

 翌朝、信号兵が「敵機、数えきれない」と報告するほどの敵航空機が輸送船団に襲いかかった。このとき、駆逐艦8隻のうち4隻が沈没する大損害を受けるが、難を逃れた雪風は、いったん戦場を離れた後に引き返して救助活動にあたった。文献によれば170名を助けたといい、水雷長は「人々を救助したときの嬉しさは格別でした」と述懐している。

 前述の「大和」沖縄特攻においても、「雪風」は大和乗組員などの生存者救助にあたっており、計300名ほどを救い上げた。昭和18年4月から同20年9月まで雪風に乗艦していた豊田義雄は、「常に相手の立場に立っての救助こそ、忘れてはならない船乗りの常識中の常識である」と語る。

 そんな想いを乗組員一人ひとりが抱いていた雪風だからこそ、危険を省みずに数々の救助活動にあたり、多くの命を救ったのではないだろうか。(池島友就)