靖国神社の遊就館(ゆうしゅうかん)1階には、約15メートルの巨大な魚雷が展示されています。人間魚雷ともいわれた特攻兵器「回天」です。昭和19年(1944)に採用された「回天」は、1.55トンもの爆薬を積んでいました。命中すれば3万トンの空母(航空母艦)も撃沈できる兵器です。3万トン級の空母は、飛行機を80機、人も3000人乗せることができた当時の主力艦のひとつです。
「特攻作戦は軍の偉い人が発案して、命令で行かせた」といわれますが、その陰には弱冠22歳の若者、黒木博司海軍少佐の強い信念がありました。
黒木博司(くろき・ひろし)少佐は、人間魚雷・回天の生みの親として知られます。黒木少佐は、大正10年(1921)に現在の岐阜県下呂市で生まれました。昭和13年(1938)に海軍機関学校(51期)に入学。昭和17年(1942)12月に特殊潜航艇の講習員となり、ここで人間が魚雷を操縦して敵艦に体当たりする人間魚雷を発案したのでした。
実は、昭和19年(1944)当時は、特攻作戦は表だっては「禁止」されていました。帝国海軍で尊敬されている英雄、東郷平八郎元帥がこんな言葉を遺していたからです。
「決死隊を出すのはよいが、必死隊を出すのはいけない」
つまり、決意や意気込みとして死を覚悟して戦う「決死」はよいが、必ず死ぬ「必死」作戦は駄目だったのです。この頃の黒木少佐は中尉で、潜水艦の乗組員の1人に過ぎませんが、海軍に伝わる価値観を180度ひっくり返しました。
黒木少佐も、好き好んで特攻作戦を発案したのではありません。母親に宛てた手紙に「死が矢張(やはり)、既に生命を捧げた軍人でありながら怖しく惜いのです」という素直な気持ちを吐露しています。「尊皇の情熱」によってその恐怖を乗り越えようと自分を鼓舞してもいます。
特攻作戦を主張したのは、もはや戦局の挽回が不可能に近い状況だったからです。敵の執拗(しつよう)な爆雷攻撃に、打つ手空しく海の藻屑(もくず)として散っていく我が軍の潜水艦等。無駄死にとなる戦友たち。作戦を変えなければ、自分たちも戦果なく死んでしまう状況です。若き中尉は、一死多殺の体当たり作戦で、戦友の無念を晴らしたかったのでしょう。
そこまで日本が追い詰められてしまったのは、帝国陸軍・帝国海軍の仲が悪く、情報共有もせず、見栄(みえ)を張り合って無駄な作戦を展開していたからです。また、敵国に暗号を読まれるなどの不手際がありました。戦略が足りない軍の上層部に対して、黒木少佐は大変憤っていました。
黒木少佐は世界情勢もよく理解していました。昭和18年(1943)2月には、このような和歌を詠んでいます。
「伊はそむき獨は敗れんものなけん 葉月長月近きを如何せん」(イタリアは裏切り、ドイツは敗れ、物資欠乏して重大な難局を迎えるだろう。陰暦8月9月に危機が迫っている)
実際に、この年の陰暦8月にあたる7月、イタリアではムッソリーニが失脚しています。その後のバドリオ政権は、連合国側と秘密裏の休戦交渉を開始しました。ドイツの降伏はもっと後になりますが、黒木少佐は同盟を頼りにできないことを言い当てています。
さらに、「もし、戦争で負けたらどうなるか」も、わかっていました。映画などで「戦争が終わったら、平和な時代が来るよ」など、のん気な発言がなされることがあります。しかし、負けてしまったら、護りたい人を護れなくなるのです。戦後、満州や南樺太ではソ連軍に、GHQ占領下の日本では米兵に、多くの女性が強姦されています。そのような犠牲を出したくなかったから、日本の将兵は命懸けで戦ったのです。
「回天」という名称には、天を回(めぐ)らす、つまり運勢を挽回する、戦況を逆転させるという祈りが込められています。しかし彼は、この回天だけで戦況を逆転できるとは思っていませんでした。黒木少佐の狙いは、回天の実現によって、飛行機も特攻に踏み切ってくれることです。海と空、両方の特攻によって、日本の滅亡を防ごうとしていました。
しかし、軍の作戦を決めるのは当然、上層部です。年齢も立場も階級も高くない若者がどうやって説得できたのでしょうか。
黒木少佐は、「信念」の塊のような人でした。ご母堂の口癖の影響です。「博司さん、100人の人に笑われても、1人の正しい人に褒められるように生きなさい」。幼い頃から、どんなにまわりの人と意見が違っても、自分が正しいと信じた信念を大事にして生きましょうと聴かされていたのです。
多くの人がいうことだからといって、それが正しいとは限りません。黒木少佐は、日本の歴史上の偉人を大変尊敬し、日本も、家族も、大好きでした。彼にとって正しい信念とは、日本の滅亡を防いで、家族を護ることでした。
黒木少佐は回天を実現させるために、血書嘆願を繰り返します。海軍大臣にも直訴します。さらに、腹を切って説得しようともしました。熱い信念に心動かされた東京帝国大学教授の平泉澄氏の計らいにより、黒木少佐の血書は、高松宮殿下や大西瀧治郎中将をはじめ、海軍上層部の目にするところとなります。1人の若者の信念が軍上層部の人たちの心を動かしました。回天はついに採用されます。
昭和19年9月7日、回天の訓練3日目の明け方。黒木少佐は訓練中の事故により殉死します。遺書には特攻に徹しなければ、しかも飛行機において早急に徹しなければ、日本の滅亡は免れないと書いてありました。黒木少佐の願ったとおり、その後、神風特攻隊も回天隊も出撃を始めます。この空と海の両方の特攻によって、米軍は恐怖に怯えます。本土決戦での膨大な被害を予測した米軍は、本土決戦を避けました。いまも「日本人を本気で怒らせたら、捨て身で攻撃される」というのが世界の軍事専門家の常識だそうです。現代の私たちも、特攻隊員の方々に護られているのです。
最後に黒木少佐が仲間たちに贈った和歌をご紹介します。
「忘れめや君斃れ(たおれ)なば我が継ぎ 我斃れなば君継ぎくるるを」(忘れるだろうか。いや、決して忘れはしない。約束だよ。君が死んだら君の信念は私が継ぐ。私が死んだら、私の信念は君が継いでくれ)
この歌は、黒木少佐が尊敬した明治維新の志士、高杉晋作が遺した次の和歌への返歌でもあります。
「後れてもまた後れても君たちに 誓ひしことを我忘れめや」(ともに命懸けで戦った君たちが先に倒れ、自分が死に後れることが何度あっても、君たちに誓ったことを、私は忘れるだろうか。いや、決して忘れないよ)
黒木少佐は先人の「日本を護る」という信念を受け継いだ方でした。その黒木少佐の信念を、いま私たちは、いかに受け継ぐべきなのでしょうか。(平井仁子)
参考・引用文献:
『ああ黒木博司少佐』吉岡勲、教育出版文化協会、1979年
『回天 菊水の流れを慕う若者たち』片山利子、展転社、2012年
「特攻作戦は軍の偉い人が発案して、命令で行かせた」といわれますが、その陰には弱冠22歳の若者、黒木博司海軍少佐の強い信念がありました。
●実は「特攻禁止」だった
黒木博司(くろき・ひろし)少佐は、人間魚雷・回天の生みの親として知られます。黒木少佐は、大正10年(1921)に現在の岐阜県下呂市で生まれました。昭和13年(1938)に海軍機関学校(51期)に入学。昭和17年(1942)12月に特殊潜航艇の講習員となり、ここで人間が魚雷を操縦して敵艦に体当たりする人間魚雷を発案したのでした。
実は、昭和19年(1944)当時は、特攻作戦は表だっては「禁止」されていました。帝国海軍で尊敬されている英雄、東郷平八郎元帥がこんな言葉を遺していたからです。
「決死隊を出すのはよいが、必死隊を出すのはいけない」
つまり、決意や意気込みとして死を覚悟して戦う「決死」はよいが、必ず死ぬ「必死」作戦は駄目だったのです。この頃の黒木少佐は中尉で、潜水艦の乗組員の1人に過ぎませんが、海軍に伝わる価値観を180度ひっくり返しました。
黒木少佐も、好き好んで特攻作戦を発案したのではありません。母親に宛てた手紙に「死が矢張(やはり)、既に生命を捧げた軍人でありながら怖しく惜いのです」という素直な気持ちを吐露しています。「尊皇の情熱」によってその恐怖を乗り越えようと自分を鼓舞してもいます。
特攻作戦を主張したのは、もはや戦局の挽回が不可能に近い状況だったからです。敵の執拗(しつよう)な爆雷攻撃に、打つ手空しく海の藻屑(もくず)として散っていく我が軍の潜水艦等。無駄死にとなる戦友たち。作戦を変えなければ、自分たちも戦果なく死んでしまう状況です。若き中尉は、一死多殺の体当たり作戦で、戦友の無念を晴らしたかったのでしょう。
そこまで日本が追い詰められてしまったのは、帝国陸軍・帝国海軍の仲が悪く、情報共有もせず、見栄(みえ)を張り合って無駄な作戦を展開していたからです。また、敵国に暗号を読まれるなどの不手際がありました。戦略が足りない軍の上層部に対して、黒木少佐は大変憤っていました。
●黒木少佐の和歌に遺された情勢認識
黒木少佐は世界情勢もよく理解していました。昭和18年(1943)2月には、このような和歌を詠んでいます。
「伊はそむき獨は敗れんものなけん 葉月長月近きを如何せん」(イタリアは裏切り、ドイツは敗れ、物資欠乏して重大な難局を迎えるだろう。陰暦8月9月に危機が迫っている)
実際に、この年の陰暦8月にあたる7月、イタリアではムッソリーニが失脚しています。その後のバドリオ政権は、連合国側と秘密裏の休戦交渉を開始しました。ドイツの降伏はもっと後になりますが、黒木少佐は同盟を頼りにできないことを言い当てています。
さらに、「もし、戦争で負けたらどうなるか」も、わかっていました。映画などで「戦争が終わったら、平和な時代が来るよ」など、のん気な発言がなされることがあります。しかし、負けてしまったら、護りたい人を護れなくなるのです。戦後、満州や南樺太ではソ連軍に、GHQ占領下の日本では米兵に、多くの女性が強姦されています。そのような犠牲を出したくなかったから、日本の将兵は命懸けで戦ったのです。
「回天」という名称には、天を回(めぐ)らす、つまり運勢を挽回する、戦況を逆転させるという祈りが込められています。しかし彼は、この回天だけで戦況を逆転できるとは思っていませんでした。黒木少佐の狙いは、回天の実現によって、飛行機も特攻に踏み切ってくれることです。海と空、両方の特攻によって、日本の滅亡を防ごうとしていました。
しかし、軍の作戦を決めるのは当然、上層部です。年齢も立場も階級も高くない若者がどうやって説得できたのでしょうか。
●「100人に笑われても、1人の正しい人に褒められるように生きなさい」
黒木少佐は、「信念」の塊のような人でした。ご母堂の口癖の影響です。「博司さん、100人の人に笑われても、1人の正しい人に褒められるように生きなさい」。幼い頃から、どんなにまわりの人と意見が違っても、自分が正しいと信じた信念を大事にして生きましょうと聴かされていたのです。
多くの人がいうことだからといって、それが正しいとは限りません。黒木少佐は、日本の歴史上の偉人を大変尊敬し、日本も、家族も、大好きでした。彼にとって正しい信念とは、日本の滅亡を防いで、家族を護ることでした。
黒木少佐は回天を実現させるために、血書嘆願を繰り返します。海軍大臣にも直訴します。さらに、腹を切って説得しようともしました。熱い信念に心動かされた東京帝国大学教授の平泉澄氏の計らいにより、黒木少佐の血書は、高松宮殿下や大西瀧治郎中将をはじめ、海軍上層部の目にするところとなります。1人の若者の信念が軍上層部の人たちの心を動かしました。回天はついに採用されます。
昭和19年9月7日、回天の訓練3日目の明け方。黒木少佐は訓練中の事故により殉死します。遺書には特攻に徹しなければ、しかも飛行機において早急に徹しなければ、日本の滅亡は免れないと書いてありました。黒木少佐の願ったとおり、その後、神風特攻隊も回天隊も出撃を始めます。この空と海の両方の特攻によって、米軍は恐怖に怯えます。本土決戦での膨大な被害を予測した米軍は、本土決戦を避けました。いまも「日本人を本気で怒らせたら、捨て身で攻撃される」というのが世界の軍事専門家の常識だそうです。現代の私たちも、特攻隊員の方々に護られているのです。
最後に黒木少佐が仲間たちに贈った和歌をご紹介します。
「忘れめや君斃れ(たおれ)なば我が継ぎ 我斃れなば君継ぎくるるを」(忘れるだろうか。いや、決して忘れはしない。約束だよ。君が死んだら君の信念は私が継ぐ。私が死んだら、私の信念は君が継いでくれ)
この歌は、黒木少佐が尊敬した明治維新の志士、高杉晋作が遺した次の和歌への返歌でもあります。
「後れてもまた後れても君たちに 誓ひしことを我忘れめや」(ともに命懸けで戦った君たちが先に倒れ、自分が死に後れることが何度あっても、君たちに誓ったことを、私は忘れるだろうか。いや、決して忘れないよ)
黒木少佐は先人の「日本を護る」という信念を受け継いだ方でした。その黒木少佐の信念を、いま私たちは、いかに受け継ぐべきなのでしょうか。(平井仁子)
参考・引用文献:
『ああ黒木博司少佐』吉岡勲、教育出版文化協会、1979年
『回天 菊水の流れを慕う若者たち』片山利子、展転社、2012年