2020.7.3
現在のイギリスの王朝名はウィンザー朝です。第一次世界大戦中に改称されてウィンザーになるのですが、改称前の王朝名は何でしょうか。ハノーヴァー朝…と教科書に書いてあるので、そう思っている人が、わが国ではほとんどです。しかし、本当は違います。ザクセン=コーブルク=ゴータ朝です。
聞いたことがない? 実は、隠れた名家で、ヨーロッパ王室でこの家の血が入っていないところを探すのが難しいほど、各地の王族と婚姻関係を結んでいます。イギリスの王朝について、意外と知られていない一面をご紹介します。
イギリスの王様はなんだかんだいっても、さかのぼればウィリアム征服王(位1066~87)までつながっています。以来、まったく縁もゆかりもない人を王として迎えたことはありません。
では、王朝名がどういうときに変わるのか。国によって、時代によって異なりますが、これまでのイギリスでは女系でつながったときに変わっています。
例外はヨーク朝とランカスター朝。この2つはプランタジネット朝から男系でつながっているのですが、15世紀に嫡流が途絶えたときに傍流の2系統が「我こそは王である!」と王位争い(ばら戦争)をしたので、便宜上、分けて呼ばれます。
問題のハノーヴァー朝最後の王はヴィクトリア女王です。女王はドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバートと結婚しますので、息子のエドワード7世からはザクセン=コーブルク=ゴータ朝となります。しかし、その次のジョージ5世のときに第一次大戦が起こり、ウィンザーに改称されますので、「ザクセン=コーブルク=ゴータ朝」の王は1.5人です。
「敵国ドイツの地名を嫌って王宮所在地名に改称」という教科書の記述はその通り。ザクセンもコーブルクもゴータも、ハノーヴァー同様にドイツの地名です。
ところで、現在イギリス王位についているのはエリザベス「女王」です。次はまた王朝名が変わるのでしょうか。いいえ、今度は変わりません。それはそうでしょう。ドイツが嫌でウィンザーにしたのに、またドイツになってしまいますから。
女王の夫であるフィリップ殿下はドイツ貴族バッテンベルク家出身です。マウントバッテンと名乗っていますが、もともとドイツ語の「バッテン山(Battenberg)」をひっくりかえして「山バッテン」にし、英語風にしたもの(Mountbatten)です。英語読みにすればいいのなら、「ザクセン=コーブルク=ゴータ」も「サクス=コバーグ=ゴーサ」といっていたのですから、ウィンザーに改称しなくてもよかったじゃないかという話になります。
ただし、子孫が姓を必要とする場合にはマウントバッテン=ウィンザーを名乗るようです。王朝と姓は別物なのですね。(参照:英国王室公式サイト:https://www.royal.uk/royal-family-name)
フィリップ殿下は、もともとギリシャ王室の生まれで、デンマークとギリシャの皇位継承権を持っていました。もちろん、エリザベス女王と結婚する前に放棄しています。デンマークとギリシャというのが一見すると不思議ですが、ギリシャがデンマーク王室の人を王に迎えたので、こういうことになるのです。
ちなみに、フィリップ殿下はヴィクトリア女王の血も引いているので順位は低いですが、イギリス王室の王位継承権もあります。
「さっきの話だと、ドイツの貴族じゃなかった?」。はい。実は、バッテンベルク家はフィリップ殿下の母方の家です。
1922年、ギリシャで革命が起こります。王弟であった父アンドレアスが死刑宣告を受けると、一家は命からがら逃げ出します。そのときにイギリスが文字通り助け舟を出し、イギリスの船でフランスに向かいます。イギリスの船ならイギリスに行けばいいと思いますが、なぜかフランスです。
亡命先では両親の仲が悪く、父が愛人を作ったりするものですから、母は精神を病み、病院へ。フィリップは半ば孤児のようになります。そこで後ろ盾となったのが母方のバッテンベルク家でした。フィリップはドイツやイギリスの学校に通い、イギリス海軍に入り、エリザベス女王に見初められ、結婚します。そして、めでたくエディンバラ公フィリップ王配殿下となりました。
ところで、フィリップには4人の姉がいて、全員ドイツ貴族に嫁いでいます。ですから、第二次世界大戦中、姉の夫たちはナチスドイツ側で参戦しました(姉の1人は戦前に事故死)。そのため、姉妹はエリザベス女王とフィリップ殿下の結婚式には招待されませんでした。
母のアリスは第二次大戦中にはギリシャに戻っていました。娘はドイツ、息子はイギリスですから、大変に難しい立ち位置です。しかもドイツ軍がギリシャに進攻してきます。その際、ユダヤ人を匿う(かくまう)などしたので、戦後、イスラエルから顕彰されています。この母は息子フィリップの結婚式に参列しています。
ギリシャの王族フィリップが母の実家バッテンベルク家の人になり、イギリス王室の一員となるまでには、このようにさまざまな悲劇・困難があったのでした。
(徳岡知和子:ブログはこちらhttps://blogmagnolia.com/)
聞いたことがない? 実は、隠れた名家で、ヨーロッパ王室でこの家の血が入っていないところを探すのが難しいほど、各地の王族と婚姻関係を結んでいます。イギリスの王朝について、意外と知られていない一面をご紹介します。
◆「ザクセン=コーブルク=ゴータ朝」は1.5人
イギリスの王様はなんだかんだいっても、さかのぼればウィリアム征服王(位1066~87)までつながっています。以来、まったく縁もゆかりもない人を王として迎えたことはありません。
では、王朝名がどういうときに変わるのか。国によって、時代によって異なりますが、これまでのイギリスでは女系でつながったときに変わっています。
例外はヨーク朝とランカスター朝。この2つはプランタジネット朝から男系でつながっているのですが、15世紀に嫡流が途絶えたときに傍流の2系統が「我こそは王である!」と王位争い(ばら戦争)をしたので、便宜上、分けて呼ばれます。
問題のハノーヴァー朝最後の王はヴィクトリア女王です。女王はドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバートと結婚しますので、息子のエドワード7世からはザクセン=コーブルク=ゴータ朝となります。しかし、その次のジョージ5世のときに第一次大戦が起こり、ウィンザーに改称されますので、「ザクセン=コーブルク=ゴータ朝」の王は1.5人です。
「敵国ドイツの地名を嫌って王宮所在地名に改称」という教科書の記述はその通り。ザクセンもコーブルクもゴータも、ハノーヴァー同様にドイツの地名です。
◆フィリップ殿下とその「実家」の数奇な運命
ところで、現在イギリス王位についているのはエリザベス「女王」です。次はまた王朝名が変わるのでしょうか。いいえ、今度は変わりません。それはそうでしょう。ドイツが嫌でウィンザーにしたのに、またドイツになってしまいますから。
女王の夫であるフィリップ殿下はドイツ貴族バッテンベルク家出身です。マウントバッテンと名乗っていますが、もともとドイツ語の「バッテン山(Battenberg)」をひっくりかえして「山バッテン」にし、英語風にしたもの(Mountbatten)です。英語読みにすればいいのなら、「ザクセン=コーブルク=ゴータ」も「サクス=コバーグ=ゴーサ」といっていたのですから、ウィンザーに改称しなくてもよかったじゃないかという話になります。
ただし、子孫が姓を必要とする場合にはマウントバッテン=ウィンザーを名乗るようです。王朝と姓は別物なのですね。(参照:英国王室公式サイト:https://www.royal.uk/royal-family-name)
フィリップ殿下は、もともとギリシャ王室の生まれで、デンマークとギリシャの皇位継承権を持っていました。もちろん、エリザベス女王と結婚する前に放棄しています。デンマークとギリシャというのが一見すると不思議ですが、ギリシャがデンマーク王室の人を王に迎えたので、こういうことになるのです。
ちなみに、フィリップ殿下はヴィクトリア女王の血も引いているので順位は低いですが、イギリス王室の王位継承権もあります。
「さっきの話だと、ドイツの貴族じゃなかった?」。はい。実は、バッテンベルク家はフィリップ殿下の母方の家です。
1922年、ギリシャで革命が起こります。王弟であった父アンドレアスが死刑宣告を受けると、一家は命からがら逃げ出します。そのときにイギリスが文字通り助け舟を出し、イギリスの船でフランスに向かいます。イギリスの船ならイギリスに行けばいいと思いますが、なぜかフランスです。
亡命先では両親の仲が悪く、父が愛人を作ったりするものですから、母は精神を病み、病院へ。フィリップは半ば孤児のようになります。そこで後ろ盾となったのが母方のバッテンベルク家でした。フィリップはドイツやイギリスの学校に通い、イギリス海軍に入り、エリザベス女王に見初められ、結婚します。そして、めでたくエディンバラ公フィリップ王配殿下となりました。
ところで、フィリップには4人の姉がいて、全員ドイツ貴族に嫁いでいます。ですから、第二次世界大戦中、姉の夫たちはナチスドイツ側で参戦しました(姉の1人は戦前に事故死)。そのため、姉妹はエリザベス女王とフィリップ殿下の結婚式には招待されませんでした。
母のアリスは第二次大戦中にはギリシャに戻っていました。娘はドイツ、息子はイギリスですから、大変に難しい立ち位置です。しかもドイツ軍がギリシャに進攻してきます。その際、ユダヤ人を匿う(かくまう)などしたので、戦後、イスラエルから顕彰されています。この母は息子フィリップの結婚式に参列しています。
ギリシャの王族フィリップが母の実家バッテンベルク家の人になり、イギリス王室の一員となるまでには、このようにさまざまな悲劇・困難があったのでした。
(徳岡知和子:ブログはこちらhttps://blogmagnolia.com/)