【世界の君主列伝2】ヴィルヘルム2世~世界に厄災を振りまいた皇帝

 カイゼル髭(ひげ)。八の字の両先端が跳ね上がり、今にも「エッヘン」としわぶきが聞こえてきそうな口ひげです。カイザーことヴィルヘルム2世の髭のかたちからそう呼ばれるようになりました。カイゼルはドイツ語でカイザー(皇帝)を指すことばです。

 ヴィルヘルム2世(1859-1941)とは、第9代プロイセン国王、かつ、第3代にしてドイツ帝国最後の皇帝(在位:1888-1918)となった人です。ちなみに、のちにヒトラーがナチス・ドイツを「第三帝国」と呼んだのは、かつての神聖ローマ帝国を第一帝国、ヴィルヘルム2世の祖父から始まったドイツ帝国を第二帝国と考えていたからです。

 日露戦争で日本がロシアと戦う事態になったのも、もとはといえばこのカイザーが原因を作ったといっても過言ではありません。

 カイザーと呼ばれる、ヴィルヘルム2世とはどんな人だったのでしょうか。

●母親が「高慢、エゴイスティック、心が冷たい」と評した少年


 1859年、ヴィルヘルム2世は、プロイセン王子フリードリヒ(のちの、ドイツ帝国第2代皇帝フリードリヒ3世)と、英国の王女ヴィクトリアのあいだの長子として生まれました。母ヴィクトリアは、英国ヴィクトリア女王の長女です。ヴィルヘルム2世はヴィクトリア女王にとって初孫でした。

 ヴィルヘルム2世は生まれたときから左腕に不自由があったものの、長じて乗馬ができるくらいにまで克服していたといいますから、きっと負けん気が人一倍強かったのでしょう。

 両親の希望で、ヴィルヘルム2世は一般家庭の子供が通う、普通の小学校に通います。ヴィルヘルム2世の生まれた、王家ホーエンツォレルン家にとっては初めてのことでした。これには、祖父ヴィルヘルム一世と「鉄血宰相」の異名で知られるビスマルクが大反対したそうです。一方で、ヴィルヘルム2世は養育係から “超”がつくほどのスパルタ教育も受けています。

 そうした環境で形成されつつあった少年ヴィルヘルム2世を、実の母親は「高慢、エゴイスティック、心が冷たい」などと評しています。

 母親の、その観察は正確でした。ヴィルヘルム2世が29歳のとき、第2代ドイツ皇帝である父の訃報を受けます。その直後、ヴィルヘルム2世のドイツ皇帝としての最初の命令が、一時的とはいえ、母親の幽閉だったのですから。

 第3代ドイツ皇帝に即位したヴィルヘルム2世は、祖父ヴィルヘルム一世のときから仕えていたビスマルクと対立します。ビスマルクはドイツ統一の実質的な立役者でもあり、「ビスマルク外交」といわれた絶妙なバランス感覚による外交手腕によって、欧州につかの間の平和をもたらしていました。

 1890年、ヴィルヘルム2世はそのビスマルクを辞任に追いやり、親政を始めました。ところが、その親政がいけません。すぐさま危機を招いてしまいます。カイザーが独露再保障条約の更新を拒否したので、ロシアとフランスが接近します。ビスマルクがいちばん懸念していた事態です。ドイツが両国に挟み撃ちされる恐れが出てきたのです。

 さすがにカイザーでも、その事態はマズいと気づきます。そして、ロシアの目をドイツからそらすために行ったのが、日清戦争に勝利した日本への三国干渉でした。三国干渉の真の黒幕はカイザーだったのです。三国干渉を機に、日本とロシアの関係は緊張していき、日露戦争となったのはよく知られるところです。

 カイザーは日清戦争末期ころから出てきた、黄色人種の脅威を説く「黄禍論(こうかろん)」を煽る(あおる)のにも一役も二役も買いました。『黄禍の図』として知られる絵画の下絵を描いたのはカイザーだったのです。カイザーは画家に絵を描かせ、その複製を多数作り、ロシアの皇帝ニコライ2世をはじめ、ヨーロッパ王室やアメリカの大統領にも送りつけていたという念の入れようです。

●「余の外交官生活中ドイツのカイゼル・ウィルヘルム2世ぐらい嫌な人はなかった」


 カイザーのやることなすことが人を怒らせ、災厄のタネをバラまきます。

 ついに、祖母ヴィクトリア女王まで怒らせてしまいました。1896年、カイザーが今の南アフリカを舞台に起きた事件での英国の失態を喜び、英国の敵対方にエールを送るようなことをしでかしたからです。カイザーはヴィクトリア女王に叱責され、訪英拒否にあっています。まさに自業自得でした。

 しかし、そんなことに懲りる(こりる)カイザーではありません。反省するどころか、カイザーは英国に軍艦の建艦競争を挑み、警戒心を与えてしまいます。自分の軽率な行動から国際社会で孤立しても、本人は大国気取り。まったく、始末に負えません。

 カイザーがどれだけ人を怒らせることをしてきたか、数え切れないくらいです。この人がいなければ、第1次世界大戦も起きなかったかもしれません。少なくとも、世界史はもう少し違ったかたちになっていたのではないでしょうか。

 日本の名外交官といわれる石井菊次郎が「独逸廃帝(どいつはいてい)ウィルムヘルム二世」(『外交随想』所収)という一文のなかで「余の外交官生活中ドイツのカイゼル・ウィルヘルム2世ぐらい嫌な人はなかった」と記しているのが、何よりも雄弁にヴィルヘルム2世を物語っています。

 第1次世界大戦でドイツの敗戦が迫ると、ドイツ皇帝を退位することなく、ヴィルヘルム2世はさっさとオランダに亡命します。さすがに、その後のドイツ革命(1918年11月)でプロイセン王、ドイツ皇帝の両方からの退位を余儀なくされます。とはいえ、オランダで再婚もするなど、皇帝としての責任など微塵(みじん)も感じていなかったかのような振る舞いでした。

 1941年、ドイツに戻ることなく亡命先のオランダで、世界に災厄を振りまいたともいえる82年の生涯を閉じます。カイザーとはそんな人でした。(雨宮美佐)

参考文献:
『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』倉山満 PHP新書、2018年

関連記事