2019.6.16
中世、日本が海外から攻められた出来事といえば、まず思い浮かぶのが元寇(げんこう)ではないだろうか。鎌倉時代中期、当時、中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)とその属国・高麗が2度にわたり、対馬を攻めてきた。従来、「神風」が吹いたので日本が勝ったのだといわれてきたが、近年では、日本側の頑強な抵抗の様子も明らかになり、日本の勝因についても、様々な分析がなされるようになってきている。
だが、元寇のあとにも、外敵の侵略はあった。今回は、室町時代の1419年(応永26年)、4代将軍・足利義持(3代将軍・義満の息子)の時代に起きた「応永の外寇」について見てみよう。李氏朝鮮が、1万7000人以上の軍勢で対馬を侵略したのだが、果たして、どのような事件だったのだろうか。
応永26年(1419)6月20日、対馬の尾崎浦に10艘ほどの軍船が現われた。島民たちは当初、仲間が帰ってきたと勘違いして、酒や魚を用意するなどもてなしの準備をした。しかし、次第に様子がおかしいことに気が付く。というのも、最初の10艘につづいて何隻もの軍船が沖合に出現したからだ。
対馬の海岸に姿をみせた船。それは、李氏朝鮮の侵攻軍であった。史料によれば、総勢227隻、1万7285人ほどの大軍勢である。身の危険を察知した島民は山に逃げ込んだ。これより、対馬は瞬く間に戦場と化す。
それにしても、李氏朝鮮はなぜ対馬を攻めたのか――。諸説あるが、当時の対馬は倭寇(わこう)の一大拠点とみられており、その勢いを削ぐためであったのは間違いないとされる。
15世紀初頭、倭寇は室町幕府や朝鮮王朝による禁圧策、また朝鮮王朝による懐柔策により、沈静化していた。しかし、応永25年(1418)、そんな状況に変化が訪れる。それまで倭寇の禁圧に力を入れていた対馬守護・宗貞茂がこの世を去ったためだ。跡を継いだその子の宗貞盛(幼名=都都熊丸:つつくままる)はまだ若く、李氏朝鮮前国王である太宗はこれを受けて、ふたたび倭寇の活動が盛んになることを恐れた。
事実、応永26年5月には約50艘の倭船が朝鮮半島近海に現われ、朝鮮の船を焼くという事件が起きている(ちなみに、この50艘はもともと明をめざしており、やがて明軍と戦い全滅している)。そうした事情があり、太宗は交通の要衝(ようしょう)である対馬に攻め入ろうと考えたのだ。
太宗は出兵の前に「対馬為島、隷於慶尚道之鶏林。本是我国之地」(対馬の島たる、慶尚道の鶏林に隷う。本これ我が国の地)と述べたという。しかし、対馬の人びとからすれば、まさに「言いがかり」であり「とばっちり」であった。
対馬に上陸した李氏朝鮮軍は対馬守護・宗貞盛に書を送ったが、返答はなかった。すると島内の捜索を開始。その過程で船を焼き払い、1939戸の家を焼き、114人を殺め(あやめ)、田んぼの穀物を刈っていった。このとき、対馬を守る武士の数は600人程度であり、李氏朝鮮軍のわずか30分の1にすぎない。どう考えても多勢に無勢であり、勝てるはずのない戦いであった。
しかし、李氏朝鮮軍は思わぬ苦戦を強いられる。6月29日、3軍を構成して進攻していったが、そのうちの2軍は宗資茂率いる対馬勢に阻まれた。対馬勢はまともに挑んでは勝てないと判断して、李氏朝鮮軍を内陸部に引き込んで急襲しようと考えたのだ。
この作戦が、見事にはまった。対馬勢の放つ矢は面白いように命中し、また地の利をいかして散々に奇襲攻撃を行ない、李氏朝鮮軍に大打撃を与える。日本側の史料によれば李氏朝鮮軍は2,500もの損害を出したという。戦力差を考えれば、考えられない戦果である(糠岳〈奴加岳〉の戦い)。
これを受けて、李氏朝鮮軍は一時撤退。こうして膠着(こうちゃく)状態に陥ると、宗貞盛は「7月に入ると暴風が吹くため、大軍が長期間留まるのはよくない」との文書を送り、修好と撤退を呼びかけた。簡単に攻め落とせないとわかった李氏朝鮮軍もこれを容れる。結果、7月3日に対馬から朝鮮へ撤収することになった。
いまのように情報伝達手段が発達していない室町時代、この一連の流れは幕府に正確に伝わっていなかった。当時、足利義持が明の使いを追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では「明が襲撃してきた。大唐蜂起(元寇)の再来だ」などと誤解していたのである。
さらに驚くべきは、李氏朝鮮軍が侵攻する前の5月22日の時点で、「大唐・南蛮・高麗等が日本に攻め来たる」という情報が京都に広まっていた点だ。情報の出所は「高麗」といわれていたというが、これを耳にした足利義持は仰天しつつも、「神国ゆえ何事あるか」と口にしたといわれている。
足利義持は石清水八幡宮に足を運び、無事を祈った。このとき、伝説によれば、風もないのに八幡宮の鳥居が倒れたという。ともあれ、最終的には李氏朝鮮とのさらなる戦いは行なわれず、義持が恐れたような「大唐蜂起」の規模の争いには発展しなかった。李氏朝鮮内では戦果がなかったために再征を主張する勢力もいたが、結局は中止になった。
朝鮮側の記録には、この戦いののち、対馬側が使者を送って朝鮮への帰属を願ったという記述もあるともいう。しかし、対馬側に帰属の意志があったとは考えにくい。むしろ応永の外寇は、李氏朝鮮の太宗の「対馬の島たる、本これ我国の地」という言葉を、名実ともに否定する歴史的事件となったのであった。(池島友就)
だが、元寇のあとにも、外敵の侵略はあった。今回は、室町時代の1419年(応永26年)、4代将軍・足利義持(3代将軍・義満の息子)の時代に起きた「応永の外寇」について見てみよう。李氏朝鮮が、1万7000人以上の軍勢で対馬を侵略したのだが、果たして、どのような事件だったのだろうか。
◆なぜ李氏朝鮮は対馬を侵略したのか
応永26年(1419)6月20日、対馬の尾崎浦に10艘ほどの軍船が現われた。島民たちは当初、仲間が帰ってきたと勘違いして、酒や魚を用意するなどもてなしの準備をした。しかし、次第に様子がおかしいことに気が付く。というのも、最初の10艘につづいて何隻もの軍船が沖合に出現したからだ。
対馬の海岸に姿をみせた船。それは、李氏朝鮮の侵攻軍であった。史料によれば、総勢227隻、1万7285人ほどの大軍勢である。身の危険を察知した島民は山に逃げ込んだ。これより、対馬は瞬く間に戦場と化す。
それにしても、李氏朝鮮はなぜ対馬を攻めたのか――。諸説あるが、当時の対馬は倭寇(わこう)の一大拠点とみられており、その勢いを削ぐためであったのは間違いないとされる。
15世紀初頭、倭寇は室町幕府や朝鮮王朝による禁圧策、また朝鮮王朝による懐柔策により、沈静化していた。しかし、応永25年(1418)、そんな状況に変化が訪れる。それまで倭寇の禁圧に力を入れていた対馬守護・宗貞茂がこの世を去ったためだ。跡を継いだその子の宗貞盛(幼名=都都熊丸:つつくままる)はまだ若く、李氏朝鮮前国王である太宗はこれを受けて、ふたたび倭寇の活動が盛んになることを恐れた。
事実、応永26年5月には約50艘の倭船が朝鮮半島近海に現われ、朝鮮の船を焼くという事件が起きている(ちなみに、この50艘はもともと明をめざしており、やがて明軍と戦い全滅している)。そうした事情があり、太宗は交通の要衝(ようしょう)である対馬に攻め入ろうと考えたのだ。
太宗は出兵の前に「対馬為島、隷於慶尚道之鶏林。本是我国之地」(対馬の島たる、慶尚道の鶏林に隷う。本これ我が国の地)と述べたという。しかし、対馬の人びとからすれば、まさに「言いがかり」であり「とばっちり」であった。
◆600人で1万7000人を打ち破る
対馬に上陸した李氏朝鮮軍は対馬守護・宗貞盛に書を送ったが、返答はなかった。すると島内の捜索を開始。その過程で船を焼き払い、1939戸の家を焼き、114人を殺め(あやめ)、田んぼの穀物を刈っていった。このとき、対馬を守る武士の数は600人程度であり、李氏朝鮮軍のわずか30分の1にすぎない。どう考えても多勢に無勢であり、勝てるはずのない戦いであった。
しかし、李氏朝鮮軍は思わぬ苦戦を強いられる。6月29日、3軍を構成して進攻していったが、そのうちの2軍は宗資茂率いる対馬勢に阻まれた。対馬勢はまともに挑んでは勝てないと判断して、李氏朝鮮軍を内陸部に引き込んで急襲しようと考えたのだ。
この作戦が、見事にはまった。対馬勢の放つ矢は面白いように命中し、また地の利をいかして散々に奇襲攻撃を行ない、李氏朝鮮軍に大打撃を与える。日本側の史料によれば李氏朝鮮軍は2,500もの損害を出したという。戦力差を考えれば、考えられない戦果である(糠岳〈奴加岳〉の戦い)。
これを受けて、李氏朝鮮軍は一時撤退。こうして膠着(こうちゃく)状態に陥ると、宗貞盛は「7月に入ると暴風が吹くため、大軍が長期間留まるのはよくない」との文書を送り、修好と撤退を呼びかけた。簡単に攻め落とせないとわかった李氏朝鮮軍もこれを容れる。結果、7月3日に対馬から朝鮮へ撤収することになった。
いまのように情報伝達手段が発達していない室町時代、この一連の流れは幕府に正確に伝わっていなかった。当時、足利義持が明の使いを追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では「明が襲撃してきた。大唐蜂起(元寇)の再来だ」などと誤解していたのである。
さらに驚くべきは、李氏朝鮮軍が侵攻する前の5月22日の時点で、「大唐・南蛮・高麗等が日本に攻め来たる」という情報が京都に広まっていた点だ。情報の出所は「高麗」といわれていたというが、これを耳にした足利義持は仰天しつつも、「神国ゆえ何事あるか」と口にしたといわれている。
足利義持は石清水八幡宮に足を運び、無事を祈った。このとき、伝説によれば、風もないのに八幡宮の鳥居が倒れたという。ともあれ、最終的には李氏朝鮮とのさらなる戦いは行なわれず、義持が恐れたような「大唐蜂起」の規模の争いには発展しなかった。李氏朝鮮内では戦果がなかったために再征を主張する勢力もいたが、結局は中止になった。
朝鮮側の記録には、この戦いののち、対馬側が使者を送って朝鮮への帰属を願ったという記述もあるともいう。しかし、対馬側に帰属の意志があったとは考えにくい。むしろ応永の外寇は、李氏朝鮮の太宗の「対馬の島たる、本これ我国の地」という言葉を、名実ともに否定する歴史的事件となったのであった。(池島友就)