不滅の法灯――受け継がれ、続いていることの偉大さ

2019.7.24
 「継続は力なり」。毎日の努力によって同じことを長く続けていくことは、社会人、学生にかかわらず、当たり前のようで難しいことです。

 日本の歴史は、世界でも類を見ない連続性を誇っています。何世代にもわたって大切に続いているもののひとつに、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の法灯(ほうとう)があります。延暦25年(806)の開基以来、消えることなく守られてきたので「不滅の法灯」とも呼ばれています。

 1000年以上ものあいだ、どのように現在まで守られてきたのでしょうか。

◆最澄が灯した法灯


 法灯(ほうとう・ほっとう)は仏教の言葉で、御仏の教えのことです。世俗の悩みや悲しい出来事に迷うことを「暗闇(くらやみ)」にたとえ、それを照らし導く知恵は「灯」にたとえられます。また、古典では優れた高僧のことを表わす単語としても使われます。

 お寺の本堂では、ご本尊に灯明(とうみょう)が供えられています。昼夜を問わず灯され(ともされ)続けるので、「常燈(じょうとう)」や「長明燈(じょうみょうとう)」と呼ばれ、御仏の教えが消えることなく続くことを意味しているといいます。

 比叡山延暦寺(ひえんざんえんりゃくじ)は、延暦7年(788)に創建された天台宗の総本山で、現在は世界文化遺産にもなっています。創建したのは日本天台宗の祖、最澄(さいちょう)です。

 最澄は8世紀半ばから9世紀前半の高僧です。12歳で近江国分寺に入り、14歳で得度(とくど=出家)し修行の道に進んだといわれています。この頃の日本は遣唐使を盛んに派遣していて、大陸から最先端の学問として多く経典が持ち帰られ、帰国した留学僧が都でも重んじられました。

 古代律令制では、朝廷の管理のもとでの出家と、私的な出家に明確な区分がありました。国分寺は官立のお寺で、僧侶の人数に定員もあります。基本的には終身制なので、お坊さんが亡くなると欠員が補充される仕組みです。国分寺の僧になるには、僧官任用試験を受けなければなりません。これは現代の国家試験のようなもので、最澄に発行された証明書も現代まで伝わっています。

 19歳になった最澄は奈良の都を離れ、山林修行に出ます。比叡山に入山したときの願文の前文には、世の無常と仏法の衰え、人間の転落に対する慨嘆(がいたん)が書かれていました。

 歴史学者の村山修一大阪女子大学名誉教授は、願文に残された最澄の心情には、世俗権力の動向と関係があったのではないかとしています。ちょうど光仁天皇(こうにんてんのう)の譲位にともない、桓武天皇(かんむてんのう)が践祚(せんそ)し、長岡京への遷都(せんと)をめぐる重臣暗殺や政変で落ち着かない時期でした。

 入山した最澄は、一刀三礼(いっとうさんらい)をもって本尊の薬師如来立像を刻み、法灯を捧げます。最澄が創建した、この最初の道場は「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)と呼ばれ、現在は国宝に指定されています。「不滅の法灯」は、このときに灯されて以来、1度も途切れることなく、1200年あまりの時を超えて現代に伝わっているのです。

◆延暦寺の法灯が「不滅」な理由


 南北朝時代の勅撰和歌集『新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)』には、このときに最澄が詠んだ「あきらけく 後の仏の みよまでも 光つたへよ のりのともし火」という歌が収録されています。『新拾遺和歌集』が編まれたのは貞治3年(1364)ですから、最澄が法灯を灯してから、576年後のことです。

 これだけでも十分長い歴史なのですが、延暦寺の法灯が有名なのは、1度消えてしまったことがあるからです。元亀2年(1571)、織田信長による延暦寺焼き討ちです。この頃、多正面での戦いを強いられていた信長は、敵対勢力に加担する延暦寺に再三の中立勧告と非戦闘員の退避勧告を出しています。延暦寺が抵抗し続けたため、信長による焼き討ちに至ったといいます。

 長年にわたり王城鎮護を担ってきた延暦寺が焼き払われたことは、当時の人々にとって大変な衝撃でした。根本中堂も焼け落ち、法灯も消え去ります。復興が始まったのは信長の死後です。再建には長い時間がかかりますが、最澄の灯した法灯はそのあいだも生き続けていました。各地にあるいくつかの天台宗の本山に分灯されていたからです。

 このうちのひとつ、山形県にある立石寺(りっしゃくじ)は、最澄の弟子で3代目天台座主となった慈覚大師円仁による開山とされる古刹(こさつ)です。江戸時代初期、ようやく比叡山の再興が成ると、立石寺から法灯が戻され、危機を乗り越えました。

◆個人の努力を超える営み


 皇室史学者の倉山満氏は『保守の心得』(扶桑社新書)で、こうした幾世代にもわたって受け継がれていることは、個人の努力をはるかに超えたことだといいます。不滅の法灯のほかにも、伊勢神宮で毎日行われている日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)を例に挙げて、続いていることの偉大さを指摘しています。日別朝夕大御饌祭は、伊勢神宮の外宮(げくう)のご鎮座以来、1500年以上にわたって毎日朝晩、神様にお食事を差し上げ、国と国民の安寧、感謝を祈る神事です。

 灯にしても、お供えとお祈りにしても、形があるようでないようなものです。毎日油をひと差ししてお世話をする、毎日朝晩のお供えを調えて(ととのえて)差し上げる――いくら明るくて長持ちしてもLED電球に変えようとか、いくら本物そっくりに精巧でも食品サンプルに変えようなどと誰も思わないことが、こうした営みによってのみ生まれる威厳なのです。

 まさに、その最たるものが天皇と皇室でしょう。どれほど科学技術や社会の仕組みが発達しても、日本が日本らしく、昨日も今日も明日も2000年前と変わらずに日本であることは、変転する歴史のなかで、常に天皇と皇室が続いているからです。

 仕事にしても勉強にしても、毎日続けることに何だか疲れてしまったとき、困難に突き当たって行き詰まってしまったとき、何世代にもわたって紡がれてきた日本の歴史を振り返って「続けることの価値」「続けることの偉大さ」を見直してみると、少し新鮮な気持ちになるかもしれませんね。(細野千春)

参考文献:
『保守の心得』倉山満(扶桑社、2014年)
『大間違いの織田信長』倉山満(KKベストセラーズ、2017年)
『比叡山史』村山修一(東京美術、1994年)