【世界の君主列伝】ロシア皇帝ニコライ2世の“血塗られた人生”

2019.7.20 日露戦争 皇帝
 “血塗られた人生”。ロシア帝国最後の皇帝・ロマノフ朝ニコライ2世には、そんな言葉が浮かびます。人生の最後は共産主義の犠牲になりました。

 共産主義は、突き詰めて乱暴にいってしまえば「政府は暴力で覆し、不当に富を搾取する君主や金持ちは打倒しよう。さすれば人類全てが幸せになれる」という思想です。どんなに甘い言葉でくるんだとしても、共産主義の正体は隠せません。

 1918年、ロシアでそんな思想が実行に移され、ときの皇帝ニコライ2世とその家族全員、従者、飼い犬に至るまでが惨殺されました。300年続いたロマノフ朝のロマノフ一族も次々と処刑され、生き残ったのは数名だったといいます。

 ニコライ2世の“血塗られた人生”とは、どのようなものだったのでしょうか。

◆祖父アレクサンドル2世、テロリストに爆殺される


 ニコライ2世は、日本の明治元年にあたる1868年に生まれました。父はロシア帝国皇太子アレクサンドル(のちの皇帝アレクサンドル3世)、母はデンマーク王クリスチャン9世の第2王女マリアです。

 ちなみに、ニコライ2世はのちの英国王ジョージ5世とはいとこ(母親どうしが姉妹)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とは義理のいとこ(伯母の連れ合いの甥)です。とりわけ、ニコライ2世とジョージ5世は、顔や姿がそっくりでした。第1次世界大戦(1914年勃発)が「いとこどうしの戦争」と呼ばれるのは、こうした背景があるからです。

 ニコライ2世が13歳になるときに血なまぐさい事件が起きます。祖父のロシア皇帝アレクサンドル2世が、ナロードニキと呼ばれる社会運動家たちによって爆殺されたのです。

 ティーンエイジャーになろうかというニコライ2世にとっては衝撃の事件でした。ニコライ2世が皇帝位に就いて後、社会運動を徹底的に弾圧したのはこうした体験があったからだとも指摘されています。

 ニコライ2世は皇太子時代の1890年に10カ月ほどかけて東方漫遊の旅に出かけます。翌年、日本にも立ち寄り、長崎、鹿児島、神戸、京都と周り、琵琶湖にも行きました。

 そのときです。今の滋賀県大津で、あろうことか、ニコライ2世を知っていた警官がニコライ2世に斬りかかったのです。ニコライ2世は命に別状はなかったものの、傷を負いました。

 大津事件と呼ばれる、警官によるロシア皇太子暗殺未遂事件は日本を揺るがしました。明治天皇がニコライ2世の乗る軍艦にまで赴き、謝罪しました。そのままロシアの軍艦で連れ去られる危険をも顧みず、明治天皇がなさったことでした。

 ニコライ2世の日記によれば、後年、襲われた5月11日がくるたびに大津事件を思い出していたようです。

 1894年、父帝アレクサンドル3世の死去に伴い、ニコライ2世は即位します。

 即位後、英国ヴィクトリア女王の孫娘アリックスと結婚しました。ニコライ2世はアリックスとの結婚を「夢」とまで思い描いていました。

 ところが、この結婚によって、ニコライ2世は「血」に関わる問題を抱えることになります。

 4人の娘を授かった後、待ち望んだ末の皇太子アレクセイは生まれながらに血友病を発症していました。アレクセイの母方の曾祖母ヴィクトリア女王が保因者だったのです。

 血友病はタンパク質をつくる遺伝子の異常が原因で、血が固まりにくい病気です。いったん出血すると血が固まるまでに時間を要し、最悪の場合は出血多量で死に至る危険もあります。発症の多くは男性に見られ、皇太子アレクセイもその1人でした。

 1895年、ロシアはフランスとドイツとともに、日本に「三国干渉」を行ないます。日清戦争で勝利した日本に対して、遼東半島を清に返還するように迫りました。これが、1904年の日露戦争につながり、ロシアが敗戦するのはもう少し先の話です。

◆戴冠式の祝賀行事でも2600人以上の死傷者


 ニコライ2世の戴冠式も血塗られたものになりました。1896年に行なわれた戴冠式の祝賀行事で惨劇が起きます。食べ物と記念品が配布されるというので、民衆が殺到し、押し合いになった民衆がパニックを起こして、2600人以上の死傷者を出してしまいます。ところが、それに続く夜の舞踏会は中止されもせず、予定通り行なわれました。

 日露戦争が戦われている最中の1905年1月に「血の日曜日」が起きました。王宮前で行なわれた民衆の大規模デモに兵士が発砲し、2000人以上の犠牲者が出た事件です。この事件をきっかけに、第1次ロシア革命が勃発します。

 同年5月にはロシアが頼みにしていたバルチック艦隊が東郷平八郎提督の指揮する日本海軍に撃破され、9月にロシアの敗戦で日露戦争は終結しました。

 ロシア国内は左傾化し、ニコライ2世は国会の開設を約束する「10月詔書」の発布を余儀なくされます。

 1913年には、ロマノフ朝300年記念祭が催されはしましたが、1917年には2月革命が起き、ロシアの帝政は廃止されます。ニコライ2世は退位させられ、一家全員が囚われの身となりました。そして翌年、裁判にかけられることなく、ボルシェヴィキによってニコライ2世一家は突然、処刑されたのです。ボルシェヴィキとはレーニンが指導する社会民主労働党の過激派を指し、のちにソビエト連邦共産党となっていった人たちです。

 暴力革命で政府を倒し、皇帝一族を皆殺しにして、全人類は幸せになれたでしょうか。そんな「理想」を目指したはずのソビエト連邦そのものが1991年12月に消滅したのは、まだ記憶に新しいところです。

 ニコライ2世たちの遺体が発見されたのも、惨劇が起きてから70年以上経った1991年のことでした。(雨宮美佐)

参考文献:
『嘘だらけの日露近現代史』倉山満、扶桑社新書、2015年
『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの19世紀』倉山満、PHP新書、2018年