【遺跡発掘の周辺】謎の青銅器「銅鐸」はどこまでわかる?

2019.5.16
 歴史上の人物や出来事にまつわるニュースが、新聞やテレビなどをにぎわしています。その多くは、「遺跡の発見」や「遺物の出土」などの考古学的な発見のニュースです。近年、もっとも話題となったのは、「謎の青銅器」と呼ばれる銅鐸(どうたく)の大量発見にまつわるニュースでした。淡路島で発見された7個の銅鐸「松帆銅鐸(まつほどうたく)」は、いったい何を語りかけているのでしょうか。

◆銅鐸の何が「謎」なのか



 弥生時代から古墳時代にかけて使用された青銅器といえば、銅鏡(どうきょう)、銅矛(どうほこ)、銅剣(どうけん)などがよく知られている。なかでも何にしようされたのか、その用途さえ明らかになっていない「謎の青銅器」が、銅鐸(どうたく)だ。

 「鐸」とは、中国から伝わった鉄製の大きな鈴のこと。中身が空洞の筒状の金属器で、なかに「舌(ぜつ)」と呼ばれる棒がぶら下がり、鈴を振るとこの舌が鈴の内壁に当たって音がするという仕掛けだ。鉄でできた風鈴と考えて間違いはない。あるいは、手に持った棒でこの「鐸」を打ち、音を鳴らす楽器だったともいわれている。

 銅鐸は、この「鐸」に形状が似ていることから名づけられたのだが、実際のところ、これが鈴として使われていたという証拠はどこにもない。紀元前2世紀から紀元2世紀までの約400年間に製作されたと考えられているが、3世紀になると突如としてつくられなくなり、姿を消してしまう。

 7~8世紀の記録である『扶桑略記(ふそうりゃくき)』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、この銅鐸が土中から「発見」されたという記述がみられるが、その段階ですでに名称も使い方もわからなくなっていて、とりあえず「鐸」を意味する「さなき」と呼ばれたようだ。

 銅鐸は、墓の副葬品ではないので、その発見はほとんどが偶然だ。畑を耕していたら発見された、工事現場で土を掘り返していたら出てきたという事例がほとんどなのだ。それでも、俺までに発見された銅鐸は、約500個とされている。「されている」と曖昧(あいまい)な表現にせざるをえないのは、かつてどこかで出土し、伝来したという言い伝えや記録があるものの、現物は行方不明になっているものもあるからだ。

 古い時代の銅鐸は、十数センチの小さなものだったが、時代が下るにつれて大型化していった。最大のものとされる、滋賀県野洲市の大岩山で出土した銅鐸になると、144センチと、人の背丈ほどもある。重さも45キロに達する。もちろん、これほど大型になると、手に持って音を鳴らしたり、木にぶら下げて鳴らしたりするのも、とうてい無理だ。大型化した銅鐸は、もっぱら「祭器」、つまり神を祭ったりする際に不思議な力を発揮して、幸いをもたらしたり宗教的な道具として使われたと考えられている。

 銅鐸は、土器などと一緒に発見されることはないので、正確な製作時期や土中に埋められた時期も特定できない。複数でまとまって発見されることが多く、土中に埋めるという行為自体に宗教的な意味合いがあったのではないかと推測されている。島根県の加茂岩倉銅鐸は39個。前出の大岩山銅鐸は24個、そして兵庫県の桜ケ丘銅鐸は14個まとまって見つかっている。

◆初めて判明したことの数々



 2016年4月8日、兵庫県南あわじ市の砂置き場で、7個の銅鐸が発見され、周辺の地名をとって「松帆銅鐸(まつほどうたく)」と名づけられた。砂山を切り崩して工事用の土砂を運ぶ作業を行っていた業者が、偶然、埋もれていた銅鐸を土砂とともにトラックに積み込み、砂置き場に運び込んだものらしい。したがって、どこに埋まっていたのかは、まだ明らかになっていない。銅鐸の数は7個。銅鐸のなかでもかなり古い形式のもので、紀元前3世紀から2世紀ごろのものと推定されている。

 銅鐸は、その上部に穴の開いた「ヒレ」状の部分があり、この穴にひもを通して、ぶら下げたともいわれている。この部分を「紐(ちゅう)」と呼ぶのだが、時代によって紐の特徴が異なるため、製作時期を特定・分類する目安となっている。この紐の断面が菱形になっているのがもっとも古い形態で、「菱環紐(りょうかんちゅう)」と呼ばれている。これは極めてレアな銅鐸だ。この新発見の7個の銅鐸には、この「菱環紐式」の銅鐸も含まれていた。

 7個のうち6個は、大きな銅鐸になかに小さな銅鐸が収められている「入れ子」の状態で発見された。そして、CTスキャンで透視したところ、銅鐸のなかに前述の「舌」が複数本あることがわかったのだ。「舌」とされる棒はこれまでにも発見されていたが、銅鐸のなかに収められた状態で発見されたのは初めて。舌でもって音を鳴らしたという言い伝えが「事実」であることが判明したのだ。

 また、銅鐸の紐や、舌の先に開けられた穴に、植物繊維のひもや、ひもが巻き付いていた痕跡(こんせき)が発見された。これも全国で初の発見だった。これによって、銅鐸がひもで木の枝か何かにぶら下げて使用されていたこと。そして、下が銅鐸の内部にひもで吊り下げられていたことが明らかになったのだ。

 ひもの材質は植物繊維という有機物なので、放射性炭素年代測定が可能だと指摘されている。これは、有機物に含まれている放射性炭素が時間の経過とともに規則的に崩壊するという性質を利用して、土器や布などの製作年代を測定する方法だ。これによって、松帆銅鐸の製造年代もかなり正確に割り出せるのではないかと期待されている。

 この「松帆銅鐸」の発見によって、謎の青銅器呼ばれる銅鐸の「謎」がどれだけ明らかになるか。考古学会はいまも調査結果を注視している。(安田清人)