2020.7.7 阿部正弘
幕末期の水戸藩といえば、尊王攘夷思想でよく知られています。江戸初期から学問が盛んで、「水戸の黄門様」で有名な第2代藩主、徳川光圀(とくがわ・みつくに)は儒教を土台に国学研究を深め、「水戸学」を確立します。幕末期には、学問的な歴史研究から一歩進み、内外の危機に対応するための思想的支柱へと発展します。第9代藩主、徳川斉昭(とくがわ・なりあき)の時代です。
その徳川斉昭は、既存の幕府という枠内から少しはみ出た立ち位置で、改革を推進しようとしました。どのような事跡を遺したのか、見てみましょう。
水戸藩は、尾張・紀伊と並んで「御三家」と称されます。御三家は、江戸幕府初代将軍、徳川家康の子供たちを藩祖とする宗家直系の家門です。水戸藩は、家康の末子、徳川頼房(とくがわ・よりふさ)が水戸25万石(後に3万石を加増)を与えられ、成立しました。
水戸藩は御三家のなかでは、もっとも小規模な藩です。石高で見ても、尾張62万石、紀伊55万5千石と比べて半分以下です。初代藩主の頼房は、戦国時代の気風が強かったといわれます。家康が頼房に水戸藩を与えたのは、江戸時代初期の徳川幕府の安定のため、天下をうかがう素質のあった頼房の力をつけ過ぎることなく、かといって遠ざけ過ぎることもなく、という処遇でした。
第3代将軍家光は、頼房とは城下で共にやんちゃをした仲で、「事があれば、お前が軍権を取って徳川を守れ」といったと伝わります。斉昭の時代からおよそ200年あまり前のことです。
斉昭が藩主を継いだのは文政12年(1829)、29歳のときでした。先代の藩主は、異母兄の徳川斉脩(とくがわ・なりのぶ)です。斉脩は将軍家との付き合いも上手かった政治家です。病がちで跡取りとなる子がありませんでしたが、時の将軍第11代徳川家斉の8女、峰姫を妻とし、この縁で幕府から財政的な優遇を得ています。藩政を仕切る重役からは、斉脩の跡継ぎには峰姫の弟、つまり将軍家から藩主を迎えようという案が出されていました。
これに強硬に反対したのが、水戸藩の中・下級の藩士たちです。町人から学問で身を立て、武士となった儒学者の藤田幽谷(ふじた・ゆうこく)と、その門下で学んだ藩士らは「ご先祖様の血脈を守るべきだ」と斉昭擁立運動を繰り広げます。
斉脩が33歳で早逝し、斉昭が藩主を継ぐと、このときに斉昭を支えた学者たちが藩政に登用されます。藤田幽谷は、斉昭擁立運動の成就を見ずに死去していますが、子の藤田東湖(ふじた・とうこ)や、幕末期の尊王攘夷の思想的柱を建てた会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)らを側近として、斉昭は藩政改革を掲げ、同時に幕政に関与していきます。
水戸藩では、斉昭の襲封前から異国船との遭遇が頻々と起こりました。斉昭は、海防の任にあたる人員を増やすため、藩内の教育を強化します。第2代光圀の頃に整備された郷校(きょうこう)を再整備し、下級藩士や富農層の教育施設を増やします。彼らは、幕末期の水戸藩の尊王攘夷運動の担い手となります。また、高等研究機関を兼ねた藩校弘道館(こうどうかん)を設立しました。現在、日本三名園の1つで梅の名所として知られる水戸偕楽園は、弘道館の付属施設として造られました。
斉昭は、農民を苦しめていた不合理な税制を改め、教育と軍事に莫大な投資を行う一方で、藩全体に生活全般にわたる厳しい倹約令を布きます。斉昭に登用された儒学者らが改革派として藩政を左右する一方で、元々藩政を仕切ってきた重役らは門閥派と呼ばれ、次第に対立を深めていきます。水戸藩は、御三家のなかで最も低い石高ながら御三家としての格式を守ろうとするあまり、江戸時代初期から慢性的な財政難でした。それゆえ、厳しい倹約をいいながら、改革と称して莫大な投資を行う斉昭の方針は、必ずしも藩重役らに理解されていなかったのです。
さらに、斉昭の改革には実体のない寺院を大々的に整理し、梵鐘を鋳つぶして大砲を造るなど、周囲からは行き過ぎに見えることもありました。改革派と門閥派の対立は、幕末期を通じて先鋭化していくことになります。
天保年間は、大規模な飢饉で世の中が不穏な状態です。天保7年(1836)には甲斐国(山梨県)と三河国(愛知県東部)で立て続けに大規模な打ちこわし・一揆が起こります。翌天保8年(1837)には大坂で元奉行所与力が叛乱を起こしました。大塩平八郎の乱です。
斉昭は内憂外患の時代にあって幕政改革を訴え、沿岸警備と異国船に対抗できる大型船の建造を説き続けます。
やがて、こうした提言を幕政に取り入れていったのが、老中の阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。弘化元年(1844)5月、斉昭は領国の兵力強化が武家諸法度に抵触するという理由で、幕府から隠居謹慎を命じられます。水戸藩は長男の徳川慶篤(とくがわ・よしあつ)が襲封し、斉昭は江戸藩邸に押し込められます。しかし、ちょうどこの時期に幕府内部での権力を固めた阿部正弘は、その年の11月に斉昭の謹慎を解きます。斉昭は阿部正弘に様々な提言を行い、嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航すると、阿部正弘は海防の相談役として斉昭を幕政参与に任じました。現在でいえば、外交・防衛問題の相談役です。
日米和親条約締結でもたらされたアメリカ大統領国書を翻訳して諸大名に回覧し意見を募ったのも、元はといえば、危機感を広く共有しようという斉昭のアイディアでした。
この頃、斉昭の七男、七郎麿(しちろうまろ)が一橋家の継嗣となったのも、阿部正弘から第12代将軍・徳川家慶(とくがわ・いえよし)への斡旋によります。七郎麿は、徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)です。斉昭は、慶喜の幼い頃から「天下名将」の器だと期待し、その資質は将軍家慶にも愛されました。幕政や藩政で、阿部も斉昭も、ともに改革への反発や抵抗にさらされ、トップダウンで物事を決めることのできる強いリーダーが必要だという認識が一致していたのでしょう。
斉昭の外交に対する意見は、一貫して「開国の前に軍備増強が必要」というものでした。強硬な攘夷論は、危機感共有のための建前だったといわれます。この考えと激しく対立したのが井伊直弼(いい・なおすけ)でした。直弼は弘化3年(1846)、彦根藩(滋賀県)の世子(せいし=世継ぎ)として江戸に入ります。ペリー艦隊の浦賀来航で、彦根藩は阿部正弘から相州(相模原)警備の命を受けますが、井伊直弼は、本来彦根藩は京都守護を自任する家柄なのにと、阿部正弘に反感を持っていました。
彦根藩主を継ぎ、幕政に参画した井伊直弼は、開国やむなしという意見です。攘夷を主張する斉昭に対して、今の段階で戦となり、負けようものならかえって国辱を蒙ることになるから、諸外国と条約を結び穏便に事を進めようという考えです。
安政4年(1857)に阿部正弘が若くして亡くなり、翌年には将軍家定が在職わずか5年で、跡継ぎなく死去します。通商条約締結に関する徳川斉昭と井伊直弼の対立に、将軍継嗣問題での対立が加わり、激突しました。
徳川斉昭は後継として息子の一橋慶喜を推し、井伊直弼は紀伊徳川家の徳川慶福(とくがわ・よしとみ)を推します。井伊の目には、薩摩藩など外様大名らが将軍宗家と血縁の遠い一橋慶喜擁立運動を繰り広げるのは、横紙破りにしか見えません。
この対立は、井伊直弼に軍配が上がりました。安政5年(1858)4月、幕府最高職の大老に就任した直弼は、独断で通商条約に調印し、紀伊徳川家からの将軍擁立を発表します。徳川慶福が、第14代将軍・徳川家茂(とくがわ・いえもち)となったのです。
斉昭は元から幕政の実権を持つ譜代大名らにとって煙たい存在です。加えて、「海防のため」蝦夷地を水戸藩の領地として獲得すべく、大奥を巻き込んだ賄賂工作を展開して嫌われました。また、斉昭の母と妻は京の公家出身です。条約締結に際しては、複数の大名から「天皇の勅許を得るべきだ」という意見が出され、政治問題化しています。条約勅許問題や一橋慶喜擁立運動で、斉昭が朝廷に対して積極的に反対工作を仕掛けたと見られます。斉昭は天下国家を見ていた政治家ですが、幕府内での政治的立ち位置には無頓着だったのです。
井伊は幕政の実権を握ると、通商条約締結反対派を一斉に処分します。安政の大獄です。斉昭は国許永蟄居、慶篤と慶喜は登城停止、水戸藩政は徳川御三家の分家筋の管理下に置かれます。安政の大獄の処分者は広範にわたり、攘夷を唱える開国反対の諸藩藩士から京都の公卿らまでが処罰対象となりました。怒り心頭の水戸藩士らは、江戸や京都に上り、熱心に運動します。ついに朝廷から、井伊の処分を批判し、水戸藩による幕政改革の主導権を支持する勅諚(ちょくじょう)を引き出しました。「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれます。
名分を重んじる水戸学の薫陶を受けた水戸藩士らにとって、尊王とともに自らの主君の出自である徳川宗家を頂点とした幕府のシステムも大事です。勅諚に対する幕府の拒否反応を受けて、水戸藩の藩論が分裂しました。以前から将軍家寄りの門閥派と、改革派の対立は続いていましたが、今度は改革派のなかでも「幕府を蔑ろにしては名分が立たない」とする鎮派と、「幕府が大事だから奸臣の井伊を排除する」という理屈の激派に分裂してしまいます。
三つ巴となった藩論は、激派や薩摩藩士らによる井伊直弼暗殺事件へと至ります。安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変です。この事件で、国許永蟄居で水戸城に謹慎していた斉昭が黒幕ではないかという噂も立ちました。しかし、事件から半年後、8月15日に斉昭は急死します。
斉昭の改革への評価は様々です。しかし、明治維新まで水戸藩の藩論は、1つにまとまることは、ありませんでした。斉昭亡き後、幕政改革は外様大藩の薩摩による強力な慶喜擁立へと移行していくのです。(細野千春)
参考文献:
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』(徳間書店、2018年)
小野寺龍太『幕末の魁 維新の殿《徳川斉昭の攘夷》』(弦書房、2012年)
長山靖生『天下の副将軍 水戸藩から見た江戸三百年』(新潮社、2008年)
大庭邦彦『父より慶喜殿へ 水戸斉昭一橋慶喜宛書簡集』(集英社、1997年)
その徳川斉昭は、既存の幕府という枠内から少しはみ出た立ち位置で、改革を推進しようとしました。どのような事跡を遺したのか、見てみましょう。
◆「御三家」水戸藩で盛り上がった斉昭擁立運動
水戸藩は、尾張・紀伊と並んで「御三家」と称されます。御三家は、江戸幕府初代将軍、徳川家康の子供たちを藩祖とする宗家直系の家門です。水戸藩は、家康の末子、徳川頼房(とくがわ・よりふさ)が水戸25万石(後に3万石を加増)を与えられ、成立しました。
水戸藩は御三家のなかでは、もっとも小規模な藩です。石高で見ても、尾張62万石、紀伊55万5千石と比べて半分以下です。初代藩主の頼房は、戦国時代の気風が強かったといわれます。家康が頼房に水戸藩を与えたのは、江戸時代初期の徳川幕府の安定のため、天下をうかがう素質のあった頼房の力をつけ過ぎることなく、かといって遠ざけ過ぎることもなく、という処遇でした。
第3代将軍家光は、頼房とは城下で共にやんちゃをした仲で、「事があれば、お前が軍権を取って徳川を守れ」といったと伝わります。斉昭の時代からおよそ200年あまり前のことです。
斉昭が藩主を継いだのは文政12年(1829)、29歳のときでした。先代の藩主は、異母兄の徳川斉脩(とくがわ・なりのぶ)です。斉脩は将軍家との付き合いも上手かった政治家です。病がちで跡取りとなる子がありませんでしたが、時の将軍第11代徳川家斉の8女、峰姫を妻とし、この縁で幕府から財政的な優遇を得ています。藩政を仕切る重役からは、斉脩の跡継ぎには峰姫の弟、つまり将軍家から藩主を迎えようという案が出されていました。
これに強硬に反対したのが、水戸藩の中・下級の藩士たちです。町人から学問で身を立て、武士となった儒学者の藤田幽谷(ふじた・ゆうこく)と、その門下で学んだ藩士らは「ご先祖様の血脈を守るべきだ」と斉昭擁立運動を繰り広げます。
斉脩が33歳で早逝し、斉昭が藩主を継ぐと、このときに斉昭を支えた学者たちが藩政に登用されます。藤田幽谷は、斉昭擁立運動の成就を見ずに死去していますが、子の藤田東湖(ふじた・とうこ)や、幕末期の尊王攘夷の思想的柱を建てた会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)らを側近として、斉昭は藩政改革を掲げ、同時に幕政に関与していきます。
◆「改革派」と「門閥派」対立の萌芽
水戸藩では、斉昭の襲封前から異国船との遭遇が頻々と起こりました。斉昭は、海防の任にあたる人員を増やすため、藩内の教育を強化します。第2代光圀の頃に整備された郷校(きょうこう)を再整備し、下級藩士や富農層の教育施設を増やします。彼らは、幕末期の水戸藩の尊王攘夷運動の担い手となります。また、高等研究機関を兼ねた藩校弘道館(こうどうかん)を設立しました。現在、日本三名園の1つで梅の名所として知られる水戸偕楽園は、弘道館の付属施設として造られました。
斉昭は、農民を苦しめていた不合理な税制を改め、教育と軍事に莫大な投資を行う一方で、藩全体に生活全般にわたる厳しい倹約令を布きます。斉昭に登用された儒学者らが改革派として藩政を左右する一方で、元々藩政を仕切ってきた重役らは門閥派と呼ばれ、次第に対立を深めていきます。水戸藩は、御三家のなかで最も低い石高ながら御三家としての格式を守ろうとするあまり、江戸時代初期から慢性的な財政難でした。それゆえ、厳しい倹約をいいながら、改革と称して莫大な投資を行う斉昭の方針は、必ずしも藩重役らに理解されていなかったのです。
さらに、斉昭の改革には実体のない寺院を大々的に整理し、梵鐘を鋳つぶして大砲を造るなど、周囲からは行き過ぎに見えることもありました。改革派と門閥派の対立は、幕末期を通じて先鋭化していくことになります。
◆斉昭を海防の幕政参与に任じた阿部正弘
天保年間は、大規模な飢饉で世の中が不穏な状態です。天保7年(1836)には甲斐国(山梨県)と三河国(愛知県東部)で立て続けに大規模な打ちこわし・一揆が起こります。翌天保8年(1837)には大坂で元奉行所与力が叛乱を起こしました。大塩平八郎の乱です。
斉昭は内憂外患の時代にあって幕政改革を訴え、沿岸警備と異国船に対抗できる大型船の建造を説き続けます。
やがて、こうした提言を幕政に取り入れていったのが、老中の阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。弘化元年(1844)5月、斉昭は領国の兵力強化が武家諸法度に抵触するという理由で、幕府から隠居謹慎を命じられます。水戸藩は長男の徳川慶篤(とくがわ・よしあつ)が襲封し、斉昭は江戸藩邸に押し込められます。しかし、ちょうどこの時期に幕府内部での権力を固めた阿部正弘は、その年の11月に斉昭の謹慎を解きます。斉昭は阿部正弘に様々な提言を行い、嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航すると、阿部正弘は海防の相談役として斉昭を幕政参与に任じました。現在でいえば、外交・防衛問題の相談役です。
日米和親条約締結でもたらされたアメリカ大統領国書を翻訳して諸大名に回覧し意見を募ったのも、元はといえば、危機感を広く共有しようという斉昭のアイディアでした。
この頃、斉昭の七男、七郎麿(しちろうまろ)が一橋家の継嗣となったのも、阿部正弘から第12代将軍・徳川家慶(とくがわ・いえよし)への斡旋によります。七郎麿は、徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)です。斉昭は、慶喜の幼い頃から「天下名将」の器だと期待し、その資質は将軍家慶にも愛されました。幕政や藩政で、阿部も斉昭も、ともに改革への反発や抵抗にさらされ、トップダウンで物事を決めることのできる強いリーダーが必要だという認識が一致していたのでしょう。
◆第14代将軍をめぐる抗争から桜田門外の変へ
斉昭の外交に対する意見は、一貫して「開国の前に軍備増強が必要」というものでした。強硬な攘夷論は、危機感共有のための建前だったといわれます。この考えと激しく対立したのが井伊直弼(いい・なおすけ)でした。直弼は弘化3年(1846)、彦根藩(滋賀県)の世子(せいし=世継ぎ)として江戸に入ります。ペリー艦隊の浦賀来航で、彦根藩は阿部正弘から相州(相模原)警備の命を受けますが、井伊直弼は、本来彦根藩は京都守護を自任する家柄なのにと、阿部正弘に反感を持っていました。
彦根藩主を継ぎ、幕政に参画した井伊直弼は、開国やむなしという意見です。攘夷を主張する斉昭に対して、今の段階で戦となり、負けようものならかえって国辱を蒙ることになるから、諸外国と条約を結び穏便に事を進めようという考えです。
安政4年(1857)に阿部正弘が若くして亡くなり、翌年には将軍家定が在職わずか5年で、跡継ぎなく死去します。通商条約締結に関する徳川斉昭と井伊直弼の対立に、将軍継嗣問題での対立が加わり、激突しました。
徳川斉昭は後継として息子の一橋慶喜を推し、井伊直弼は紀伊徳川家の徳川慶福(とくがわ・よしとみ)を推します。井伊の目には、薩摩藩など外様大名らが将軍宗家と血縁の遠い一橋慶喜擁立運動を繰り広げるのは、横紙破りにしか見えません。
この対立は、井伊直弼に軍配が上がりました。安政5年(1858)4月、幕府最高職の大老に就任した直弼は、独断で通商条約に調印し、紀伊徳川家からの将軍擁立を発表します。徳川慶福が、第14代将軍・徳川家茂(とくがわ・いえもち)となったのです。
斉昭は元から幕政の実権を持つ譜代大名らにとって煙たい存在です。加えて、「海防のため」蝦夷地を水戸藩の領地として獲得すべく、大奥を巻き込んだ賄賂工作を展開して嫌われました。また、斉昭の母と妻は京の公家出身です。条約締結に際しては、複数の大名から「天皇の勅許を得るべきだ」という意見が出され、政治問題化しています。条約勅許問題や一橋慶喜擁立運動で、斉昭が朝廷に対して積極的に反対工作を仕掛けたと見られます。斉昭は天下国家を見ていた政治家ですが、幕府内での政治的立ち位置には無頓着だったのです。
井伊は幕政の実権を握ると、通商条約締結反対派を一斉に処分します。安政の大獄です。斉昭は国許永蟄居、慶篤と慶喜は登城停止、水戸藩政は徳川御三家の分家筋の管理下に置かれます。安政の大獄の処分者は広範にわたり、攘夷を唱える開国反対の諸藩藩士から京都の公卿らまでが処罰対象となりました。怒り心頭の水戸藩士らは、江戸や京都に上り、熱心に運動します。ついに朝廷から、井伊の処分を批判し、水戸藩による幕政改革の主導権を支持する勅諚(ちょくじょう)を引き出しました。「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれます。
名分を重んじる水戸学の薫陶を受けた水戸藩士らにとって、尊王とともに自らの主君の出自である徳川宗家を頂点とした幕府のシステムも大事です。勅諚に対する幕府の拒否反応を受けて、水戸藩の藩論が分裂しました。以前から将軍家寄りの門閥派と、改革派の対立は続いていましたが、今度は改革派のなかでも「幕府を蔑ろにしては名分が立たない」とする鎮派と、「幕府が大事だから奸臣の井伊を排除する」という理屈の激派に分裂してしまいます。
三つ巴となった藩論は、激派や薩摩藩士らによる井伊直弼暗殺事件へと至ります。安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変です。この事件で、国許永蟄居で水戸城に謹慎していた斉昭が黒幕ではないかという噂も立ちました。しかし、事件から半年後、8月15日に斉昭は急死します。
斉昭の改革への評価は様々です。しかし、明治維新まで水戸藩の藩論は、1つにまとまることは、ありませんでした。斉昭亡き後、幕政改革は外様大藩の薩摩による強力な慶喜擁立へと移行していくのです。(細野千春)
参考文献:
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』(徳間書店、2018年)
小野寺龍太『幕末の魁 維新の殿《徳川斉昭の攘夷》』(弦書房、2012年)
長山靖生『天下の副将軍 水戸藩から見た江戸三百年』(新潮社、2008年)
大庭邦彦『父より慶喜殿へ 水戸斉昭一橋慶喜宛書簡集』(集英社、1997年)