江戸時代末期の改革には、元号を冠して呼ばれる有名な改革がいくつもあります。水野忠邦が行った「天保の改革」や、その後に続く「安政の改革」「文久の改革」「慶應の改革」などです。幕政と軍制を改革しなければ、対外情勢に対応できなくなっていたからです。
そのなかでも、改革が頓挫してしまったことが、幕府の屋台骨を揺るがす大きなきっかけとなったものが、老中首座・阿部正弘が推し進めた「安政の改革」でした。阿部正弘は何を成し遂げようとし、そこにはどのような意味があったのか、見てみましょう。
文政2年(1819)10月16日、備後国(現在の広島県)福山藩主・阿部正精(あべ・まさきよ)の六男として誕生した阿部正弘は、幼い頃から将来を嘱望(しょくぼう)された英才だったと伝わります。
阿部家は徳川家康の幼い頃から仕えた10万石取りの譜代大名の家です。藩主のおよそ2代に1人が幕府老中に就いたといわれ、現代でいえば代々閣僚を輩出してきた政界の名門です。大名の妻子は江戸住まいが幕府の掟ですから、正弘も江戸で生まれ育ちました。帰藩したのは、18歳で藩主を継いだときの半年ほどだけだったといいます。
19歳からは幕府内で重要な役目に就き、瞬く間に出世コースを駆け上がりました。阿部正弘が幕僚となった当時の老中首座は、水野忠邦です。ちょうど天保の改革を号令した頃で、大御所時代の政治慣例の排除と、大奥を含む幕府内の綱紀引き締めが課題でした。奢侈(しゃし=ぜいたく)禁止を厳しく励行しようとした水野のもと、阿部正弘は大奥が絡んだ事件を上手く裁き、その政治手腕を買われます。
天保の改革で水野が老中や幕僚らの中で孤立すると、阿部は異例の抜擢(ばってき)により老中に列するようになります。水野の失脚後、財政を司る勝手掛に任命され、26歳にして幕政の実権を握りました。
阿部正弘は、弘化元年(1844)7月から、病死する安政4年(1857)年6月まで、およそ10年あまり幕政の中心となります。この間、もっとも有名なのはペリーの再来航と、日米和親条約の締結です。さらに、ロシアのプチャーチンが来航し、アメリカからは和親条約を根拠に日本周辺の海図作成を目的とした測量艦隊もやって来ます。日本で商機があるとにらんだ商人も上陸しました。
一般には、日米和親条約締結によって日本は開国したとされますが、この時点では幕府側の意識は開国というよりも「穏便に事を済ませた」というものです。プチャーチンは条約交渉が実らないまま、クリミア戦争での英仏との開戦を受けていったん退去していますし、阿部政権は測量やアメリカ人商人の滞在も不許可としています。何よりも、日米和親条約で開港した下田と箱館は、いずれも幕府の直轄地です。長崎のような管理貿易地を増やす発想です。
阿部正弘が死去した後、安政5年(1858)には米・蘭・露・英・仏と順番に修好通商条約を結び、これがいわゆる不平等条約と呼ばれるものですが、幕末期は京の都に近い兵庫を開港するかどうかで延々と揉め続けることになります。
鎖国政策を「徳川の祖法」として、どのように守るのか、本当に守ることができるのかが幕末期の政治的な争点のひとつではありましたが、もうひとつ重要な「祖法」がありました。それは、徳川宗家による将軍職の世襲と、幕政の意思決定と実務は親藩・譜代の大名が担うという、徳川幕府のシステムそのものです。
阿部正弘は、幕末に活躍する藩主らと篤い交流を持ちました。薩摩藩の島津斉彬(しまず・なりあきら)、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)、水戸藩の徳川斉昭(とくがわ・なりあき)、越前福井藩の松平慶永(まつだいら・よしなが)といった人々です。いずれも内外の国難に相対して軍備や内政強化に一家言を持ち、自身の藩で対策を実行した藩主です。
彼らの意見を聞き、幕政改革に取り入れていったのが阿部政権時代です。その皮切りが嘉永6年(1853)、譴責処分により隠退していた徳川斉昭を海防掛として採用することでした。
安政元年(1854)、再来航したペリーから受け取った大統領国書を、阿部正弘は幕臣や諸大名に広く回覧し、意見を聴取します。対外情勢に対する諸大名の理解や、危機意識が各藩を治める大名によって異なっていたからです。集められた意見の大勢は「祖法の現状維持」でしたが、阿部は列強に対抗できる軍事力が日本にないことをわかっていました。和親条約締結直後には「軍備や防衛が整わず国法を乱して国辱を蒙ることとなり、将軍だけでなく諸藩に対しても面目を失った」と辞意を表明しています。その危機感を全日本的に共有することを試みたのです。
次いで、洋式兵術を取り入れるため、講武場(軍事訓練所)を設置し、長崎には海軍伝習所を作ります。教官となったのは、オランダ人の海軍士官や軍艦の乗組員たちです。また、洋学の研究教育のために蕃書調所を設立します。この運営のため、若手で有能な幕吏を登用しました。後に幕府海軍を統轄する初代軍艦奉行となった永井尚志(ながい・なおむね)もその一人です。
こうした阿部正弘の改革には、幕府内でも親藩・譜代から不満が出ます。老中と幕政について討議し、将軍にも直接意見を上申できる上席の幕臣で反阿部派の中心となったのが、彦根藩主の井伊直弼(いい・なおすけ)でした。彼らの不満を抑えるため、阿部は天保の改革の頓挫(とんざ)とともに失脚した堀田正睦(ほった・まさよし)を老中に再起用します。
阿部政権の行った改革は、日本全体で危機感を共有しながら幕府が統治の責任を負うことで大名の反乱を抑え、限られた枠内で有為の人材を登用しながら、既得権層に配慮した調整も行うというものです。
ところが改革が緒に就いて間もなく、阿部正弘は39歳の若さで亡くなってしまいます。長崎海軍伝習所の訓練生が軍艦観光丸の江戸回航を成功させた3カ月後のことでした。
病状が刻々と悪化するなかでも、阿部は西洋医学の力を借りることを頑なに拒否したといいます。その最期からも、阿部が胸に秘めていた本音がうかがえるように思います。(細野千春)
参考文献:
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』(徳間書店、2018年)
加藤祐三『幕末外交と開国』(講談社、2012年)
後藤敦史『忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国』(講談社、2017年)
福地桜痴『幕末政治家』(佐々木潤之介校注、岩波文庫、2003年)
土居良三『開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘』(未來社、2000年)
そのなかでも、改革が頓挫してしまったことが、幕府の屋台骨を揺るがす大きなきっかけとなったものが、老中首座・阿部正弘が推し進めた「安政の改革」でした。阿部正弘は何を成し遂げようとし、そこにはどのような意味があったのか、見てみましょう。
◆名門出身の青年政治家、出世コースを駆け上がる
文政2年(1819)10月16日、備後国(現在の広島県)福山藩主・阿部正精(あべ・まさきよ)の六男として誕生した阿部正弘は、幼い頃から将来を嘱望(しょくぼう)された英才だったと伝わります。
阿部家は徳川家康の幼い頃から仕えた10万石取りの譜代大名の家です。藩主のおよそ2代に1人が幕府老中に就いたといわれ、現代でいえば代々閣僚を輩出してきた政界の名門です。大名の妻子は江戸住まいが幕府の掟ですから、正弘も江戸で生まれ育ちました。帰藩したのは、18歳で藩主を継いだときの半年ほどだけだったといいます。
19歳からは幕府内で重要な役目に就き、瞬く間に出世コースを駆け上がりました。阿部正弘が幕僚となった当時の老中首座は、水野忠邦です。ちょうど天保の改革を号令した頃で、大御所時代の政治慣例の排除と、大奥を含む幕府内の綱紀引き締めが課題でした。奢侈(しゃし=ぜいたく)禁止を厳しく励行しようとした水野のもと、阿部正弘は大奥が絡んだ事件を上手く裁き、その政治手腕を買われます。
天保の改革で水野が老中や幕僚らの中で孤立すると、阿部は異例の抜擢(ばってき)により老中に列するようになります。水野の失脚後、財政を司る勝手掛に任命され、26歳にして幕政の実権を握りました。
◆列強来航のなか「徳川の祖法」をどうするか
阿部正弘は、弘化元年(1844)7月から、病死する安政4年(1857)年6月まで、およそ10年あまり幕政の中心となります。この間、もっとも有名なのはペリーの再来航と、日米和親条約の締結です。さらに、ロシアのプチャーチンが来航し、アメリカからは和親条約を根拠に日本周辺の海図作成を目的とした測量艦隊もやって来ます。日本で商機があるとにらんだ商人も上陸しました。
一般には、日米和親条約締結によって日本は開国したとされますが、この時点では幕府側の意識は開国というよりも「穏便に事を済ませた」というものです。プチャーチンは条約交渉が実らないまま、クリミア戦争での英仏との開戦を受けていったん退去していますし、阿部政権は測量やアメリカ人商人の滞在も不許可としています。何よりも、日米和親条約で開港した下田と箱館は、いずれも幕府の直轄地です。長崎のような管理貿易地を増やす発想です。
阿部正弘が死去した後、安政5年(1858)には米・蘭・露・英・仏と順番に修好通商条約を結び、これがいわゆる不平等条約と呼ばれるものですが、幕末期は京の都に近い兵庫を開港するかどうかで延々と揉め続けることになります。
鎖国政策を「徳川の祖法」として、どのように守るのか、本当に守ることができるのかが幕末期の政治的な争点のひとつではありましたが、もうひとつ重要な「祖法」がありました。それは、徳川宗家による将軍職の世襲と、幕政の意思決定と実務は親藩・譜代の大名が担うという、徳川幕府のシステムそのものです。
◆改革と調整の両輪を一手に担って――
阿部正弘は、幕末に活躍する藩主らと篤い交流を持ちました。薩摩藩の島津斉彬(しまず・なりあきら)、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)、水戸藩の徳川斉昭(とくがわ・なりあき)、越前福井藩の松平慶永(まつだいら・よしなが)といった人々です。いずれも内外の国難に相対して軍備や内政強化に一家言を持ち、自身の藩で対策を実行した藩主です。
彼らの意見を聞き、幕政改革に取り入れていったのが阿部政権時代です。その皮切りが嘉永6年(1853)、譴責処分により隠退していた徳川斉昭を海防掛として採用することでした。
安政元年(1854)、再来航したペリーから受け取った大統領国書を、阿部正弘は幕臣や諸大名に広く回覧し、意見を聴取します。対外情勢に対する諸大名の理解や、危機意識が各藩を治める大名によって異なっていたからです。集められた意見の大勢は「祖法の現状維持」でしたが、阿部は列強に対抗できる軍事力が日本にないことをわかっていました。和親条約締結直後には「軍備や防衛が整わず国法を乱して国辱を蒙ることとなり、将軍だけでなく諸藩に対しても面目を失った」と辞意を表明しています。その危機感を全日本的に共有することを試みたのです。
次いで、洋式兵術を取り入れるため、講武場(軍事訓練所)を設置し、長崎には海軍伝習所を作ります。教官となったのは、オランダ人の海軍士官や軍艦の乗組員たちです。また、洋学の研究教育のために蕃書調所を設立します。この運営のため、若手で有能な幕吏を登用しました。後に幕府海軍を統轄する初代軍艦奉行となった永井尚志(ながい・なおむね)もその一人です。
こうした阿部正弘の改革には、幕府内でも親藩・譜代から不満が出ます。老中と幕政について討議し、将軍にも直接意見を上申できる上席の幕臣で反阿部派の中心となったのが、彦根藩主の井伊直弼(いい・なおすけ)でした。彼らの不満を抑えるため、阿部は天保の改革の頓挫(とんざ)とともに失脚した堀田正睦(ほった・まさよし)を老中に再起用します。
阿部政権の行った改革は、日本全体で危機感を共有しながら幕府が統治の責任を負うことで大名の反乱を抑え、限られた枠内で有為の人材を登用しながら、既得権層に配慮した調整も行うというものです。
ところが改革が緒に就いて間もなく、阿部正弘は39歳の若さで亡くなってしまいます。長崎海軍伝習所の訓練生が軍艦観光丸の江戸回航を成功させた3カ月後のことでした。
病状が刻々と悪化するなかでも、阿部は西洋医学の力を借りることを頑なに拒否したといいます。その最期からも、阿部が胸に秘めていた本音がうかがえるように思います。(細野千春)
参考文献:
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』(徳間書店、2018年)
加藤祐三『幕末外交と開国』(講談社、2012年)
後藤敦史『忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国』(講談社、2017年)
福地桜痴『幕末政治家』(佐々木潤之介校注、岩波文庫、2003年)
土居良三『開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘』(未來社、2000年)