【47都道府県名将伝5】福井県/朝倉宗滴:名将の透徹した教訓

2020.10.20
 一乗谷で栄華を誇った「越前の雄」。そう聞けば、多くの方が戦国大名の朝倉家を思い浮かべるだろう。とりわけ、朝倉孝景(あさくら・たかかげ、4代)・義景(よしかげ、5代)父子は戦国史にたしかな存在感を放っており、いまなお地元の福井でも慕われている。

 そんな越前朝倉家の屋台骨を軍師的立場で支えた名将をご存じだろうか。朝倉教景(あさくら・のりかげ)、法号を「宗滴(そうてき)」という。彼の活躍なくして、朝倉家の繁栄はなかったといっても過言ではないだろう。

◆武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候事


「武者(いくさ)は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候事」とは、宗滴が家臣に書きとどめさせた「朝倉宗滴話記」の第十条に記されている言葉である。同書は八十三箇条からなるもので、宗滴がいかに豊富な合戦経験を誇っていたかがうかがえる。事実、彼は79歳でその命が尽きるまで、戦場を駆け回っている。

 宗滴が生まれたのは文明9年(1477)のことである。約11年間続いた応仁の乱が終わりを迎える年であり、その意味では「乱世」の申し子といえるかもしれない。

 当時の当主で越前朝倉家の初代・朝倉孝景(あさくら・たかかげ)の八男であり、やがて長男の氏景(うじかげ)が跡を継ぐと、陰から朝倉家を支えていくようになる。いや、その活躍ぶりは「陰」と呼ぶには憚られる。まさしく朝倉家の躍進を演出した人物といっていい。

 宗滴は、他家への援軍や、戦の調停なども行なっている。近江の六角家と浅井家の調停も行なっており、以降、朝倉家と浅井家は強固な信頼関係で結ばれていく。宗滴が越前の枠をこえて一目置かれる存在となったのは、このような活動ゆえであった。

 永正3年(1506)、加賀一向一揆勢が越前に攻めてきたときに、朝倉軍を指揮したのは宗滴であった。以降、宗滴は幾度となく、一向一揆勢との戦いに明け暮れるようになる。前述の『朝倉宗滴話記』の第三十七条には、次のように記されている。

「七十余歳になる今日まで、毎年九頭竜川より北の道や地形を確かめるべく、鷹狩りと偽って足を運んだ。これはまさしく、将来的に加賀から一向一揆が打って出てきた際の用意までのことである。私が生きているうちは、いつだろうがどこだろうか、出陣する所存である。不案内のまま、やおら絵図などのみに頼って手はずを整えるのは、浅ましい。常日頃の心がけが大切である」

 非常時の対応を予め考え抜き、万事油断なく備えておく姿が浮かんでくる。そんな宗滴の働きにより、朝倉家は領国支配を盤石なものにしていった。時には数倍の敵勢を前にしても、鮮やかに退けたこともあったという。

◆極めて実践的で示唆に富む「教訓」の数々


 もちろん宗滴も、加賀一向一揆勢との戦いで常に勝利を収めていたわけではない。享保4年(1531)10月、宗滴は加賀の一向一揆勢が分裂したのに乗じて、手取川(加賀湊川)まで軍を進めたのだが、最終的にはこれに敗北。以降、一向一揆勢はいよいよ宗滴の「宿敵」となったのだった。そのとき、すでに宗滴の齢は58を数えていた。

 天文21年(1552)6月、宗滴は長尾景虎(上杉景虎)から鷹を贈られている。その景虎の川中島出兵に呼応して加賀に出陣したのは、弘治元年(1555)7月、宗滴が79歳のことであった。

 しかし――。加賀に出陣したものの、さすがの宗滴も高齢には勝てなかった。8月、陣中で病を得た宗滴は、9月8日に越前一条谷に帰り病没した。朝倉家にとっては、ターニングポイントともいえる出来事であった。

 すでに朝倉家は義景の代になっていたが、「静かにおさまる国」と称されたように、彼は文人化した大名としても知られていた。宗滴の跡を受けて加賀攻めは続けていたものの決着はつかず、やがて織田信長の台頭を迎えることとなる。

 もし、朝倉家に宗滴の教えが脈々と受け継がれていれば、歴史は変わっていたかもしれない。それほど、『朝倉宗滴話記』に記されている「教訓」は示唆に富んでいる。

「山城だろうが平城だろうが、無理な攻め方は避けなければいけない。それでは、大将としては失格だ。兵を目の前で見殺しにしてはならない」

「大事や合戦のときには、弱弱しい態度を見せたり、言葉を発したりしてはならない。家臣は大将の心の裡を気にしているものだ」

「敵方の人物に、品物や金品を与えれば、情報を隠さずに与えてくれる。名将たるものはこうした手を用いて、敵の戦術や戦略を知るものだ」

 朝倉家は、宗滴がこの世を去ってから18年後の天正元年(1573)に潰える。しかし、いまなお一乗谷は多くの観光客が訪れるなど、たしかな存在感を放っている。宗滴がその身を賭して護ろうとしたものが、そこにはある。惜しむらくは、宗滴が末子で幼少であったために、朝倉家を継ぐ運命ではなかったことだろうか――。(池島友就)