2020.7.14 長州藩
「勇気もあり、賢い。その誠実さは誰よりも勝る。木綿や布、粟(あわ)や米のように欠かせない男である」
かの吉田松陰がそう称したのが、前原一誠であった。明治維新後の「萩の乱」の中心人物として知られる人物だが、もともとは松下村塾の塾生の1人であった。とはいえ、家の都合で、松陰から直に学んだのは、わずか10日間だったともいわれる。
それでも松陰が冒頭のように述べているということは、やはり印象深い人物であったのだろう。松陰の評価をさらに紹介すれば、次のような言葉を残している。
「才ならば久坂、見識では高杉が上なのは間違いない。それでも、『人間の完成度』としては彼らとて前原には及ばない」
前原は1834年、現在の山口県萩市に生まれた。長州藩士の家の長男で、その名を「佐世八十郎」と称していた。前原家は、尼子十勇士の1人である米原左衛門尉広綱を先祖に持つと伝えられている。第二次幕長戦争の際、佐世八十郎から「前原彦太郎」と改名をしているが、これは米原に由来する苗字だったからである。
1862年、前原は脱藩して、久坂玄瑞(くさか・げんずい)らとともに長井雅楽(ながい・うた)の暗殺を計画している。このときより、すでに尊王攘夷派の志士として幅広く活動していたのだ。翌年の「八月十八日の政変」においては、都落ちした三条実美(さんじょう・さねとみ)らに随行している。
1864年、下関で四カ国連合艦隊との戦いに臨んだ前原は、その後は高杉晋作らと行動をともにする。晋作の功山寺決起に呼応して、藩の実権を掌握。以降も倒幕運動に尽力していく。
そして特筆すべきが、前述の第二次幕長戦争において、前原は豊前小倉口に陣取り、参謀心得として活躍をみせた点だろう。小倉藩の降伏に尽力しており、やがて戊辰戦争でもその采配ぶりを発揮。北越征討総督府参謀として戦功をあげている。この活躍により、新政府においては参議となり、暗殺された大村益次郎の代わりに、兵部大輔(ひょうぶだいぶ=国防次官に相当)となった。
しかし――。ここから、前原の生涯は暗転していく。きっかけは、政策をめぐって同じく長州出身の木戸孝允(きど・たかよし、桂小五郎)と対立したことだ。
まず、戊辰戦争を戦い抜いた奇兵隊など長州藩諸隊が明治2年に解散となった際に、処遇への不満から平民を中心とした隊士たち1800名が反乱を起こしたが(脱隊騒動)、木戸はこれを苛烈に武力鎮圧した。このとき、彼ら隊士たちと共に戦ってきた前原は、その解雇や討伐に強く反対したのだった。また前原は、木戸たちが唱えた「国民皆兵(いわば徴兵令)」に反対の立場だった。とりわけ山県有朋などは国民皆兵を推進しており、前原はやがて新政府を追われ、参議を辞職して帰郷。このとき、三条実美や岩倉具視(いわくら・ともみ)は留まるように説得したというが、前原はついに肯じなかった。このあたりの「芯の強さ」は、松陰譲りなのかもしれない。
そして1876年10月、新政府の方針に不満を持つ熊本の神風連の乱、そして福岡の秋月の乱に連動して、旧長州藩校・明倫館に同志を集めて決起するに至る。もともとは地租改正や秩禄処分、高官の私利私欲による不正など、政府の過ちを糺す(ただす)ための挙兵であった。
「事に臨みて渋滞多いといえども、ついに義にはそむかざるなり」
これもまた、松陰の前原評であるが、明治新時代に、まさしくその言葉通りのアクションを起こしたというわけだ。いわゆる「萩の乱」は、前原、奥平謙輔ら約200名が、政府の一新を奏上することを目的に決起した。
10月28日には「殉国軍」が挙兵したが、しかし軍勢は翌月初めに広島鎮台に鎮圧されてしまう。前原らは船舶で東京に向かおうとするものの、島根県で捕まり、12月3日に斬首されてしまう。
なお、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、養子や弟子たちが事件に関与していることから、責任をとるべく自害している。
松陰が死んだとき、弟子たちはその志を継ぐべく、師の象徴ともいえる「狂」の一文字を受け継いでいる。高杉晋作ならば「東洋一狂生」と称し、山縣有朋は「狂介」、木戸孝允は「狂夫」という具合である。
しかし、前原は違った。彼が「一誠」と名乗ったのは、「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」との言葉に感銘を受けたからだといわれる。
萩の乱にしても、やはり勝算はきわめて低かった。それでも前原が起ったのは、まさしく己の「至誠」を貫いたからではなかったか。いかに言葉だけ達者でも、行動を起こさなければ世の中を変えることはできない。その真理を、前原はほかならぬ松陰の背中を見て学んでいたのだろう。
西郷隆盛による西南戦争が勃発するのは、萩の乱の四カ月後のことであった。その後、大正5年4月、明治維新前後の勲功により、前原には従四位が贈られている。(池島友就)
かの吉田松陰がそう称したのが、前原一誠であった。明治維新後の「萩の乱」の中心人物として知られる人物だが、もともとは松下村塾の塾生の1人であった。とはいえ、家の都合で、松陰から直に学んだのは、わずか10日間だったともいわれる。
それでも松陰が冒頭のように述べているということは、やはり印象深い人物であったのだろう。松陰の評価をさらに紹介すれば、次のような言葉を残している。
「才ならば久坂、見識では高杉が上なのは間違いない。それでも、『人間の完成度』としては彼らとて前原には及ばない」
◆維新後、兵部大輔になるも「国民皆兵」に反対して…
前原は1834年、現在の山口県萩市に生まれた。長州藩士の家の長男で、その名を「佐世八十郎」と称していた。前原家は、尼子十勇士の1人である米原左衛門尉広綱を先祖に持つと伝えられている。第二次幕長戦争の際、佐世八十郎から「前原彦太郎」と改名をしているが、これは米原に由来する苗字だったからである。
1862年、前原は脱藩して、久坂玄瑞(くさか・げんずい)らとともに長井雅楽(ながい・うた)の暗殺を計画している。このときより、すでに尊王攘夷派の志士として幅広く活動していたのだ。翌年の「八月十八日の政変」においては、都落ちした三条実美(さんじょう・さねとみ)らに随行している。
1864年、下関で四カ国連合艦隊との戦いに臨んだ前原は、その後は高杉晋作らと行動をともにする。晋作の功山寺決起に呼応して、藩の実権を掌握。以降も倒幕運動に尽力していく。
そして特筆すべきが、前述の第二次幕長戦争において、前原は豊前小倉口に陣取り、参謀心得として活躍をみせた点だろう。小倉藩の降伏に尽力しており、やがて戊辰戦争でもその采配ぶりを発揮。北越征討総督府参謀として戦功をあげている。この活躍により、新政府においては参議となり、暗殺された大村益次郎の代わりに、兵部大輔(ひょうぶだいぶ=国防次官に相当)となった。
しかし――。ここから、前原の生涯は暗転していく。きっかけは、政策をめぐって同じく長州出身の木戸孝允(きど・たかよし、桂小五郎)と対立したことだ。
まず、戊辰戦争を戦い抜いた奇兵隊など長州藩諸隊が明治2年に解散となった際に、処遇への不満から平民を中心とした隊士たち1800名が反乱を起こしたが(脱隊騒動)、木戸はこれを苛烈に武力鎮圧した。このとき、彼ら隊士たちと共に戦ってきた前原は、その解雇や討伐に強く反対したのだった。また前原は、木戸たちが唱えた「国民皆兵(いわば徴兵令)」に反対の立場だった。とりわけ山県有朋などは国民皆兵を推進しており、前原はやがて新政府を追われ、参議を辞職して帰郷。このとき、三条実美や岩倉具視(いわくら・ともみ)は留まるように説得したというが、前原はついに肯じなかった。このあたりの「芯の強さ」は、松陰譲りなのかもしれない。
◆「ついに義にはそむかざるなり」
そして1876年10月、新政府の方針に不満を持つ熊本の神風連の乱、そして福岡の秋月の乱に連動して、旧長州藩校・明倫館に同志を集めて決起するに至る。もともとは地租改正や秩禄処分、高官の私利私欲による不正など、政府の過ちを糺す(ただす)ための挙兵であった。
「事に臨みて渋滞多いといえども、ついに義にはそむかざるなり」
これもまた、松陰の前原評であるが、明治新時代に、まさしくその言葉通りのアクションを起こしたというわけだ。いわゆる「萩の乱」は、前原、奥平謙輔ら約200名が、政府の一新を奏上することを目的に決起した。
10月28日には「殉国軍」が挙兵したが、しかし軍勢は翌月初めに広島鎮台に鎮圧されてしまう。前原らは船舶で東京に向かおうとするものの、島根県で捕まり、12月3日に斬首されてしまう。
なお、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、養子や弟子たちが事件に関与していることから、責任をとるべく自害している。
松陰が死んだとき、弟子たちはその志を継ぐべく、師の象徴ともいえる「狂」の一文字を受け継いでいる。高杉晋作ならば「東洋一狂生」と称し、山縣有朋は「狂介」、木戸孝允は「狂夫」という具合である。
しかし、前原は違った。彼が「一誠」と名乗ったのは、「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」との言葉に感銘を受けたからだといわれる。
萩の乱にしても、やはり勝算はきわめて低かった。それでも前原が起ったのは、まさしく己の「至誠」を貫いたからではなかったか。いかに言葉だけ達者でも、行動を起こさなければ世の中を変えることはできない。その真理を、前原はほかならぬ松陰の背中を見て学んでいたのだろう。
西郷隆盛による西南戦争が勃発するのは、萩の乱の四カ月後のことであった。その後、大正5年4月、明治維新前後の勲功により、前原には従四位が贈られている。(池島友就)