「明和9年」は「迷惑年」?―意外に重視された「元号」の語呂

2019.5.1 元号
 平成が終わり、令和の時代へ。30年ぶりの改元で、元号(年号)について国民的な関心が高まりました。

 これまで「元号」は、その時代を生きる人々にとって、大きな意味を持ってきました。これまでに日本で用いられた元号は約250に上りますが、いずれももちろん縁起をかつぎ、素晴らしいものを選ぶべく、最大限の努力がなされてきました。しかし、なかには、その「語呂」が問題にされてしまう例も……。

 ここでは元号と改元にまつわる日本史上のエピソードをご紹介します。

◆『書経』や『史記』から命名された「明和」


 明治維新以前の日本では、改元が天皇の代替わりの際だけでなく、天変地異や災害などを理由としてしばしば行なわれた。改元をすることで人心を一新する。改元をすることで気分を変えるということは、縁起をかついだともいえる。政治を司る(つかさどる)為政者からすれば、改元をすることで政権の求心力を高めるという政治的な意図もあっただろう。

 江戸時代中期、「明和」から「安永」への改元は、表向きは大火の発生が理由とされていた。しかし、実は理由はそれだけではなかった。

 後桜町天皇の宝暦12年(1762)7月の践祚(せんそ=天皇位を受け継ぐこと)、そして翌宝暦13年11月の即位(皇位についたことを天下に布告すること)を受けて、宝暦14年6月に「宝暦」から「明和」への改元が行なわれた。天皇の即位に伴い改元することを「代始めの改元」と称し、これは現代でも続いている。

 この「明和」の出典は、中国の古典『書経』に出てくる「百姓昭明、協和万邦」というフレーズから「明」と「和」をとったものだとされている。もう一つ、中国の歴史書である『史記』に書かれている「百姓昭明、合和万国」も、その出典だという。このように、元号の出典は単一の史料ではなく、複数の史料からとられる場合が多い。

「明和」の意味は分かりやすい。天下の平安と、人々の協調・協和を願ったものだろう。ちなみに、「昭和」の出典も、明和と同じく『書経』の「百姓昭明、協和万邦」から「昭」と「和」をピックアップしたものだったという。取り上げる字を変えたわけだ。元号の多くは、こうした中国の古典、歴史書などの一説から文字を抽出したものなので、いわば「造語」のようなもの。「明和」「昭和」という単語自体には、本来の意味はない。

◆よりによって「目黒行人坂の火事」が起きた年が……


「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」などというが、実際、江戸の町は大火事で何度も焼失と再建を繰り返してきた。

 江戸の三大大火と呼ばれる著名な大火事がある、明暦3年(1657)の「明暦の大火(別名、振袖〈ふりそで〉火事)」、文化3年(1806)の「文化の大火」、そして明和9年2月29日に発生した「目黒行人坂(ぎょうにんざか)の火事」だ。

 この「目黒行人坂の火事」は、目黒行人坂にある大円寺という寺の僧侶・真秀が放火したのが原因とされている。火事は折からの風に煽(あお)られて江戸の町中に広がり、甚大な被害をもたらした。概算で死者約1万5000人、行方不明者約4000人といわれている。

 当時、放火は最も重大な罪とされていた。放火犯の真秀は、約2カ月後に捕縛されて、すぐさま火焙り(ひあぶり)の刑に処せられている。

 ちなみに、このとき真秀を召し取ったのは、「鬼平」として小説やドラマの主人公となった火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)・長谷川宣以(はせがわ・のぶため)の父で、やはり火附盗賊改を務めた長谷川宣雄(はせがわ・のぶお)だった。

 放火犯は処罰され、江戸の町も復興に向かった。だが、やはりこれだけの災害が起きると、何か人智の及ばない原因があるのかも? という気もしてくる。

 しかもよりによって、この年は「明和9年」。江戸の庶民は、この「明和9年」を「迷惑年」と読みかえて、「迷惑な年だから、こんな火事が起きたんだ」と噂(うわさ)しあった。中国の古典についての素養などない庶民たちは、こんな縁起の悪い元号は早く変えてほしいと、心から願ったことだろう。

 こうした庶民の声を、幕府や朝廷も無視できなかった。後桃園天皇は明和9年11月16日に、元号を「明和」から「安永」に改めた。このとき候補として挙がっていた元号案も、明らかになっている。具体的には万保、建安、天久、永安など、やはり世の平穏と安定が長く続くことを祈るような文言が多かった。やはり「迷惑年」からの脱却と、災害からの復興を祈る元号にするよう、配慮がなされていたのだろう。

 ちなみに「安永」の出典は、中国の南北朝時代に編纂(へんさん)された詩文集『文選』の「東京賦」に記されている文言「寿安永寧、天禄宣明、温飾迎春」などとされている。

◆「正保」は「焼亡」につながる?


 元号はすべてで約250にも及ぶが、そのなかには「明和」のように「語呂が悪い」という理由で改元された例や、元号を決定する際に「語呂が悪い」元号候補が脱落した例もある。

 鎌倉時代の「天福」という元号は、改元当初からあまり評判が良くなかった。そして、たまたま発生した天変地異が「天福」を読みかえた「転覆」のせいだの風評が起こり、天福2年(1234)11月5日に「文暦」に改元された。

 同時代を代表する文化人で、『新古今和歌集』の編纂に携わった藤原定家は、「天福」は唐の時代の中国の元号「天復」に通じるとして批判した。この「天復」の時代、唐王朝では宦官(かんがん=去勢した宮中の役人)のクーデターで皇帝が一時、帝位を離れるなど政治の混乱が続いた。定家は、この「天復」と「天福」が似通っていることから、「天福」を攻撃したのだ。

 また、江戸時代前期の寛永21年(1645)は、12月16日に改元されて「正保元年」となった。

 実は、この「正保」という元号は、それ以前にも候補として挙がりながら、なかなか採用にならなかった元号なのだ。「正保」の読み「しょうほう」は、「焼亡」にもつながると見なして、忌み嫌う公家が少なくなかったのだろう。ここでも「語呂」が問題視されたのだ。ちなみに「正保」の出典は、やはり『書経』(『尚書』)の「先正保衡佐我烈祖、格于皇天」というフレーズだという。

 結局、不評を買った「正保」は、正保5年2月に「慶安」に改元されることになった。(安田清人)