【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝

目次

◆中国人はどこから来たのか~果たして「誰の子孫」だったか


 中国人は、突然に降って湧いたわけではありません。「そんなこと当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、かつては「中近東から知識人がやって来て都市を築いたのだ、それが核になって中国になったのだ」などという説が大手を振るっていたのです。戦後になっても、かなり最近まで、大勢の学者がそのように主張していました。

 洛陽盆地に、いわゆる「黄河文明」が急速に発展し、周囲から隔絶していたのは事実です。漢字文明が栄えた中心と、それ以外の外側があまりにも異質であるために、「中心の人たちは、やはりどこかからやってきたのだ」としか、彼らには考えられなかったのです。

 日本は、天から神様が降りてきて、その子孫が天皇家につながるという神話を持っています。そのイメージが強いためか、黄河流域についても、どこか遠いところの文明人が移住してきたという説を、高名な日本の大学教授が頑なに主張していました。

 このような説に対して「そんなはずはない」と真っ向から反駁(はんばく)し、つき崩したのが岡田英弘です。

 「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)」という言葉があります。自分たちは文明人、彼らは野蛮人だとして、中央の「文明人」が周囲の人々につけた呼称です。しかし、東アジアにいたのは、まさに「東夷・西戎・南蛮・北狄」なのであって、彼らの中から「文明人」が生まれたのだと岡田は主張しました。

 「東夷・西戎・南蛮・北狄」の中から漢字を使い、よその民族と交渉する人々が現れました。彼らが、富を蓄え、都市を築き、都市の住民となり、「俺たちはお前らと違う。高い文化を持ち、豊かなのだ」と自らを区別したところから中華文明は始まりました。

 都市住民同士で婚姻関係を結びあえば、「東夷・西戎・南蛮・北狄」の血が混じりあいます。さらに、都市がいくつかできると、都市同士の取引きも盛んになります。商売相手とは漢字でコミュニケーションをとり、お互いに婚姻を通じて結びつきを強めることによって、エリート階級ができていきます。

 そのようにして、漢字の読み書きができ、都市に住むエリート階級が「中国人」になったのです。つまり、「中国人」とは、もともと先進的な一民族として存在したわけではなく、生物学的なルーツは「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ばれた野蛮人そのものです。彼らが互いに混血しあって、できあがったエリート階級にすぎません。以上が岡田英弘説です。

「中国人」とは、実は、「東夷・西戎・南蛮・北狄」の子孫だったのです。


◆なぜ「洛陽盆地」に文明が興ったか~はじめに商売ありき


 司馬遷が『史記』を書いた前漢時代は、洛陽や長安などの黄河のくびれた流域付近が黄河文明の中心でした。もっと古い殷(いん)や周があったのもこの地域です。文字が刻まれた甲骨が大量に発見された殷墟(いんきょ)は、洛陽からわずかに北東の安陽近郊にあります。いずれにしても、古い中華文明の中心はすべて黄河流域の洛陽盆地付近にありました。

 ところで、なぜ洛陽盆地が中心になったのでしょうか。

 東夷・西戎・南蛮・北狄は、生業(なりわい)が違う人々でした。司馬遷によると「東夷」は、漁撈民(ぎょろうみん)です。山東半島など海岸に近いところに住み、海中に潜って魚をとって生活していました。「西戎」は草原の遊牧民です。「南蛮」は、焼畑 農業、粗放農業を営み、山中に住んでいました。「北狄」は狩猟民です。山の中、森の中で、野獣を獲っていました。

 「東夷・西戎・南蛮・北狄」といっても、単純に四つの民族というわけではありません。それぞれの中に、さらに複数の民族が存在しました。方角による四つのカテゴリー分けは、すなわち、おおよその地形・気候による分類です。そして、自然環境によって、そこで営まれる生業もおのずと決まってきます。たしかに、商売上の観点からは、相手の文化・習慣はどうでもよく、どんな商品を持ってくるかが大事です。その意味では大変に合理的な分け方といえるでしょう。

 以上の説明でおわかりいただけたと思いますが、「文明人」と「野蛮人」は、血統ではなく、生活形態なのです。そこを、まず理解してください。

 彼ら「東夷・西戎・南蛮・北狄」が取引きするのに都合がいい場所が洛陽盆地でした。異なる気候、異なる生業の人たちが、集まることのできる場所です。北から来る人が黄河を越えることは難儀でした。また南から来る人には、風土の異なる森林地帯は苦手でした。各地の人々が、ここまでなら来られる、ここなら集まれるという場所が黄河流域だったのです。

 洛陽盆地は、東西南北の十字路としての役割を果たしたといえば聞こえはいいですが、その実、「十字路」というだけで、作物をはじめとする品物自体を生み出すところではありませんでした。したがって、シナ文明とは、そもそも交易の文明として始まったのです。中国人は一般的に商魂たくましい人々という印象を持たれていますが、スタートからして商売人なのです。

 各地から人が集まる黄河流域では、商売が盛んになりました。出身地が異なれば、言葉が通じません。言葉が違っても意思疎通が可能なコミュニケーション・ツールとして、表意文字(漢字)は便利でした。黄河中流域で発達した、この漢字という商業語は、後々、全国的な共通語へと押し上げられていきます。ただし、私たちにとって言葉というのは聞いてわかることが前提だから、共通語ではなく、発音を犠牲にした共通文字になったといったほうが正確です。

 彼らのうち黄河流域に留まり、都市を築いた商人が、後の中華文明、黄河文明の担い手、いわゆる「中国人」になりました。前述のように、血統的には、種々雑多な血を引く混血です。商売をしながら、都市に住むことを選び、漢字を使うエリート階級が文明人とみなされるようになっていったのです。

 東夷・西戎・南蛮・北狄は必ずしも洛陽盆地から遠く離れたところではなく、都市のすぐ近くにもいたことが司馬遷の『史記』の記述からもわかります。

 漢字がわからない人々は野蛮人、「東夷・西戎・南蛮・北狄」です。しかし、彼らが漢字を習得し、都市で生活すれば、格が上がって「文明人=シナ人」になる。文明人と野蛮人とは、そういう流動性のある連続した存在だったのです。


◆領域国家の誕生から戦国七国へ~なぜ城壁で囲うのか


 文明化とは都市化のことです。各地に次第に都市の建設が進み、都市が互いに商取引や同盟などにより連携しあうようになりました。町ができると、その外側では畑が耕されるようになります。

 彼ら農民は村をつくるのですが、シナでは村も城壁に囲まれています。夜が明けたら、外に出て畑仕事をする。暗くなったら城壁の内側にある安全な家に帰って寝る。周囲は敵だらけで、互いに信用できないので、壁に囲まれた村で寝起きしているのです。

 壁に囲まれた村の単位を鎮(ちん)といい、現在も存在します。城壁はかなりしっかりした造りになっています。

 シナの村は、たいてい同じ姓の人たちが防御壁に囲まれて暮らしていて、門が閉まっています。江戸の町でも各家が木戸を締めますが、シナでは町全体、村全体をガッチリと囲むのです。

 こうして、町や村ができ、人が増えます。人が増えれば、畑が増える。次第に作物や商品も増えます。町と町、村と村の間の距離が近くなってつながっていき、それが一国の版図へと成長していきました。

 首都を決めた王国が各地にできて、その版図が決まりました。領域の中では、犯罪者や乱暴狼藉(ろうぜき)を働く者は(国が機能しているときは)取り締まられます。国内のみならず外国との取引き上の利便性や蓄えた富の防衛のためにも、そのほうが有利だったからです。

 そうやってできあがった領域国家が戦国七国です。そして、当然のことながら、その戦国七国もまた、各自それぞれ、万里の長城のような壁で囲まれていました。さらに、国ごとに言葉も文字も違うし、はかりの重さも違うし、車幅も違いました。


◆始皇帝の偉業~皇帝は中国最大の資本家だった


 紀元前221年、戦国七国を統一したのが秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年、皇帝在位:前221年~前210年)です。文字通り最初の皇帝です。この人がいなかったら現在の中国はありません。

 始皇帝の偉業にはいくつかありますが、1つは、都市を直轄にしたことです。それまでの七国の都市や、それ以外の遠い都市は、封建制といって、合併企業や合弁会社のような、ゆるい結びつきでした。それを始皇帝は、すべて封建ではなく直轄にしました。いわゆる郡県制です。

 郡県制の「郡」は何か。日本では「県」の下に「郡」がありますが、秦では「郡」の下に「県」があります。そして、「郡」には中央が軍隊を送ります。つまり「郡」と「軍」は同じ意味で、軍隊が入ったところが「郡」なのです。その郡が県を監督し、治安の維持にあたります。

 都市では取引きが行なわれ、その収益から税金をとり、それがすべて皇帝に集まるというしくみです。軍を送り、官僚を送り、税金を集める。これが郡県制です。皇帝は中国最大の資本家になりました。会社経営に例えるなら、支社の収益が本社に集まるようにしたのです。しかも、社長がすべて指揮します。

 そんなシナの皇帝と切り離せないキーワードとして「朝礼」と「朝貢」があります。

 「朝礼」というと、学校で朝、生徒がグランドに集まって「礼!」をして、校長先生や教頭先生が話をするようなイメージでしょうか。しかし、元来は市場の開始前に行なわれるものでした。「皇帝は最大の資本家」といいましたが、皇帝はもともと市場の一番偉い人、商売を仕切る人でした。

 都市の真ん中に役所があり、その前に大きな広場、庭がある。それが「朝廷」です。「朝廷」の「廷」は本来「庭」という意味なのです。そこで、市場開始の日の出前、暗い時分に全員で集まり、整列して、神様にお礼の儀式をします。それが「朝礼」です。その後、朝廷の北側にある市場で取引きが開始されます。

 「朝礼」では、皇帝直属の臣下が位に従って並びます。そのときに、「人」が「立」つ場所が「位」です。「位」という漢字は、形のとおりの意味で、一位、二位、三位というのは、本当に一、二、三……と並ぶ位置のことだったのです。「正」と「従」があり、「正一位」が最も高く、以下「従一位」「正二位」「従二位」……「正九位」「従九位」と続きます。

 皇帝の一番近くに立つ人が、最も上位の人、大臣です。そして、この場所に手土産、貢ぎ物を持っていき、「朝礼」に参加することを、「朝貢」といったのです。「朝貢」は非常に古い言葉で、都市=国であったころから存在します。


◆「朝貢」の真実~手土産を持って挨拶に行く程度?


 バラバラだった独立国を始皇帝がまとめあげ、都市を皇帝の直轄としました。すると、「朝貢」も範囲が広がります。遠くから使者がやってきて皇帝に挨拶するようになりました。しかし、「朝貢」の意味は基本的に変わりません。商売する前に、時々、手土産を持って会社社長に挨拶に行くという程度のものです。

 学校の歴史の授業では、外国の使節が中華皇帝に朝貢する話しか習いませんが、「朝貢」は外国人が行なうものとは限りません。商取引をしたい人は誰でも、朝貢する義務があります。地方にいる臣下は必ず定期的に朝貢します。ご挨拶しないと失礼にあたります。そして、「朝貢」の際には、貢ぎ物を持参します。

 「朝廷」で、遠方の国からやってきたエキゾチックな服装の人々が、皇帝に珍しい品物を献上する。それは、多くの人が居並ぶ中で、皇帝の権威を高める演出として効果的です。訪問者の国が遠ければ遠いほど、立派な大国であればあるほど、持参する品物が珍しければ珍しいほどいいのです。

 皇帝にとっても、ウエルカムなわけで、どんどん朝貢に来てほしい。ですから、顎足つき(あごあしつき=交通費・食事つき)なのです。一歩でもシナに入ったら、もう食べ物・飲み物、宿泊費用まで、全部、シナ側が持ってくれるというのが普通です。費用だけでなく、ふさわしい身なりをはじめ一挙手一投足を教えてくれます。

 太古の昔、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の使者をはじめ、遠方からやってくる人々がシナの文字言語や風習に通じているとは限りません。それぞれの方面地域を担当するシナの役人が、世話をして、対面を保たせたのです。
「こんなに遠い立派な国の人を連れてきました」となると、担当役人の地位が上がりますから、衣装や装身具などで豪勢に飾り立て、所作を教え、「こういうものを持っていったら喜ばれますよ」など、さまざまなアドバイスをし、万事いい塩梅(あんばい)に整えます。使者は、役人のいうとおりにすれば、滞りなく朝貢を済ませることができます。

 それで、東南アジアや、中央アジア、黒龍江、それに日本列島などから、多くの使者がやってきました。シナ側では「こんなに遠いところの偉い人物の使者が来た」と書き、遠方からの使者は、たくさんのお土産をもらって帰り、「また来よう」となるわけです。

 それが、シナ大陸の文化、伝統なのです。ですから、朝貢というのは、強国に周辺の弱小国が従っているというより、シナがさまざまなエサで各地の人々を釣っているという構図でした。シナ内部での権力闘争がすさまじく、その影響で接待合戦になっていたのです。

 出世競争に勝つためには、自分はライバルよりも少しでも遠い国や地域から、王や大富豪を呼ぶ。多少、盛ってでも、そういうことにする。身銭を切ってでも、立派な使節に仕立て上げて連れてくる。そして、「どうだ、すごいだろう」と見せる。そのようにして「俺はこんな遠いところとも、つながりがある。だから、偉いのだ」と主張する必要があったのです。

 いまも基本的に同じです。現代では諸外国のほうが、中国の事情を心得ていますし、まったくの上げ膳・据え膳ということはないでしょう。しかし、考え方は変わりません。

 朝貢する側も、強制されてイヤイヤ行っていたわけではありません。古い時代には日本の北九州あたりの豪族が、シナ皇帝の出先機関の役人のいわれるままに朝貢したでしょう。行けば、返礼として、持参した以上のお宝がもらえます。そんな話を伝え聞いた人は「俺も行こう」と思ったでしょう。そうやって付き合いが始まり、広がっていったのです。

 つまり、朝貢に行ったからといって家来だったと卑屈になる必要はなく、朝貢を受けたからといって、威張る話ではないということです。


◆昔のシナは「国家」なのか?~「貿易」のための広がり


 中国ウン千年などと偉そうにしていますが、特に昔のシナは、とても国家といえる代物ではありません。近代的な国民国家ではもちろんないし、領域国家という点でも難があります。中央こそ秦の始皇帝が統一したけれど、秦の領域の外にも商売のために都市を築いていきます。遠方と貿易するほうが、珍品が手に入り、高額で取引きできるので、より遠い地域へと城壁都市を築いていき、ネットワークが四方に広がっていきました。朝鮮半島にも出先機関をつくりました。前漢の武帝時代には、とうとう朝鮮半島が直轄領になり、楽浪郡をはじめとした朝鮮四郡が置かれますが、それ以前は商売人が出て行っていただけです。

 それを知ってか知らずか、現在の中国は、「朝貢していたから属国だ」などと主張しています。朝貢は商売上の関係があったというだけです。それをもって属国認定できることではありません。「朝貢」はお中元やお歳暮みたいなものだということを覚えておいてください。

 そして、前述の「東夷・西戎・南蛮・北狄」ですが、最初は東夷が山東半島。西戎が甘粛省。南蛮なんて四川の手前。北京も北狄でした。しかし、始皇帝がこれらを全部シナにしてしまいましたので、「東夷・西戎・南蛮・北狄」の意味する地域が変わりました。朝鮮半島と日本が東夷。モンゴル高原方面の遊牧民が北狄。チベットが西戎。南蛮も南へ南へと移動して最後はボルネオが南蛮になります。中央が変わりますから、それによって、「野蛮」の範囲も変わってしまうのです。

 繰り返しますが、「東夷・西戎・南蛮・北狄」は相対的な文化概念であって、特定の人種や民族を指す呼称ではありません。いわば、シナ側の都合です。「東の野蛮人」といっても時代によって違ってくるのです。

 また、中国人が、やたらと周辺を属国のように思い込む理由の1つに司馬遷の『史記』の編纂(へんさん)の仕方があります。

 『史記』は本紀・表・書・世家・列伝の五つにカテゴリー分けされています。

 「本紀」は皇帝の在位中の政治的事件の記録を中心とした王朝史。「表」は政治勢力の興亡・交替の時間的な関係、つまり簡略化した歴史。「書」は制度・学術・経済などの文化史。「世家」は秦の始皇帝によって統一される前の地方王家と、統一以後に地方に国を建てた諸侯の歴代の事績、つまり封建諸侯の各国史。そして「列伝」には、臣下筋のさまざまな人物の伝記が書かれています。

 問題は、その「列伝」に外国の話も入っていることです。外国という意識がなかったのか、関係する外国があまりなかったからか、司馬遷は「外国伝」と別にカテゴリーを設けず、「列伝」の中に朝貢国の話も書き込みました。

 司馬遷『史記』は後代の史書のモデルとなりましたから、後の正史つまりオフィシャル・ヒストリー(official history)もまた、『史記』と同様に外国の事項を家来の話であるかのように書きました。大きな国も知らぬ間に家来にされているのです。

 中国人の自己中心的な拡大解釈もさることながら、その火に油を注ぐようなことを、日本の東洋史学者が主張しています。「朝貢は貿易の一種だ」と言い出したのです。「貿易するために頭を下げに行っていたのだ」と。本書冒頭で、中国人という文明人は、どこかから優秀な民族が降って湧いたかのように主張していた人の話をしましたが、その同類です。

 もちろん朝貢に行くほうもメリットがあるから行くわけですが、利益重視はお互いさまです。シナが「太っ腹」でわざわざ損をして、いろいろと恵んでくれたわけではありません。

 また、大昔には、朝貢をする人にしても、国家や国民を代表しているという意識はありません。皇帝が各人と関係を結んだだけです。日本列島の誰かがシナ皇帝にプレゼントを持っていったところで、日本がシナの手下や属国になったわけではなく、個人的な人間関係を構築しただけです。ですから、その人が部下になったとしても、それ以外の日本人には何の関係もないのです。

 その辺の時代的な背景、国や人間関係のあり方をよく心に留めておいてください。(宮脇淳子)

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