【源氏物語で見る平安時代3】お支払いは?~平安の「お金」事情

 平安時代の中期、西暦1000年頃に成立した日本古典の傑作『源氏物語』に、お金の話はほとんど出てきません。なぜなら、当時、お金=貨幣(かへい)で物を売買したり人を使ったりすることがあまりなかったからです。

 しかしこれは、貨幣経済がいまだ発達していなかった、ということとは少し違います。飛鳥・奈良時代から朝廷は、貨幣政策を一生懸命にやっていました。ところが、ちょうど源氏物語の時代あたりに貨幣の流通が停滞するのです。その後、12世紀の後半に日宋貿易が始まることで、貨幣はその後、取引の決済に不可欠となっていきます。

 『源氏物語』の当時、貴族の下で働く人々に対するちょっとした労働の対価はお金ではなく衣服でした。それも、その場で脱いだ衣服です。なぜでしょうか。平安時代に貨幣流通が停滞した事情を中心に、見ていきたいと思います。

●奈良時代、平安時代の「貨幣」って?


 富本銭(ふほんせん。683年頃に使われたと推定される貨幣)など古代の先行貨幣については今も調査研究中ですが、日本で最初の貨幣は和銅元年(708)鋳造の和同開珎(わどうかいほう/わどうかいちん)だとされています。元明天皇の時代です。

 元明天皇は平城京遷都の勅を出した天皇としても知られています。平城京遷都と貨幣鋳造(かへいちゅうぞう)はセットの政策です。律令制統治策の一環でした。

 朝廷は貨幣の普及に熱心でした。税の貨幣納入推奨や銭貯蓄の制度優遇、貨幣を使わない者の処罰などを実施していますから本気です。958年の乾元大宝(けんげんたいほう)発行まで、皇朝12銭と呼ばれる12種類の銅銭を発行しています。

 中には政治家が私的権限で発行した貨幣もあります。8世紀平城京の太政大臣に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)という人がいました。後の恵美押勝(えみのおしかつ)です。仲麻呂は独断で貨幣を鋳造して発行する権利を朝廷に認めさせました。

 仲麻呂はその一方で金貸し業を経営していたといいます。金貸しが貸したいだけの貨幣をつくれるわけですから、借りるほうも借り放題です。さぞかしひどいハイパーインフレになったことでしょうが、これは記録がないのでわかりません。

 仲麻呂がつくった、いってしまえば「貨幣発行権を持つ民間銀行」は、仲麻呂およびその一族の権力が安泰な内はやりたい放題です。しかし仲麻呂は764年に乱を起こして逆賊として斬首され、一族は滅亡します。

 仲麻呂の権力があってこその金融ネットワークでした。仲麻呂の乱以降は、こんな大きな不安定要素を抱える貨幣なんぞ誰が信用するものか、ということにもなりました。

 朝廷は、貨幣には信用が必要だ、ということには関心がなかったようです。いわゆる銅本位制の仕組みなのに、銅の含有率の低い悪銭に法外に高い価値をつけて発行したりしました。貨幣の流通は停滞し続け、ついに958年、朝廷は貨幣の発行を止めてしまいます。

 『源氏物語』はその数十年後に書かれました。だから貨幣=銭が登場しないのです。銅銭は、10世紀の後半には、わずかに囲碁の賭け品などとしてポーカーチップのような意味で使われる程度のものになりはてます。

●対価以上の意味があった「被け物(かずけもの)」


 『源氏物語』の当時、人を使う側は、労働の対価として、自分が着ていた衣服をその場で脱いで肩にかけてやるのが常でした。このことを「被(かず)ける」、かけてやる衣服を「被け物(かずけもの)」といったりします。

 『源氏物語』松風の帖にこんなシーンが出てきます。

 「人々が身分に応じて被け物をいただいて、霧の絶え間に見えがくれしていますので、前栽の花の色合いと見え紛う光景など、特に美しいのです。(中略)脱ぎかけ脱ぎかけお被けになる衣の色々は、秋の錦が風に翻るように見えます」

 宴会終盤の風景です。衣服をもらっているのは昼間から一生懸命働いていた下っ端の役人たちです。

 「被け物」はちょっとした褒美にも使われました。8、9歳の次郎君という男の子が、「性質も才気があり、容貌も綺麗(きれい)で、宴の席が少し乱れていく時分に、高砂を声高く謡い(うたい)」、「まことに愛らし」いので、光源氏は「御衣(おんぞ)を脱いで」被けます。賢木の帖に出てくるシーンです。

 被けられた衣服は、もちろん他の物資に交換可能でした。貨幣は流通していないので銭に交換したところでいいことはありません。衣服は布にばらすこともでき、今の経済学用語でいう現物貨幣の役目を果たしました。軽くて折りたため、取り扱いも運搬も便利でした。

 「被け物」は、現物貨幣として機能しただけではありません。実は、対価以上の意味がありました。ここが「被け物」のミソです。

 宇治十帖の橋姫に、「(薫源氏が)お脱ぎ捨てになった艶に美しい狩衣や、えならぬ白綾のおん衣などの、しなしなとした、たとえようもない匂いのするのを我が身に纏うて(まとうて)、持って生まれた体だけはどうにも換えようがありませんので、いかにも不似合いな感じのする袖の香を、遭う人ごとに咎め(とがめ)られたり褒め(ほめ)られたりしまして、かえって窮屈がっている」下男の話が出てきます。つまり下男は、被け物を他の物に換えずに着続けています。

 古来、衣服や寝具にはそれをまとう者の霊がこもると考えられていました。貴人が着用していたものを賜ることに意義がありました。だからこそ平安京の正月最初の宮中行事・元日節会(がんじつのせちえ)では、臣下への衣服・寝具賜与が重要な伝統儀式となっていました。天皇はじめ皇族の霊性を諸臣が授かるという儀式です。

 「被け物」は、この宮中行事・元日節会のミニチュア日常版です。とりいそぎ服を脱いで「支払いはこれで勘弁(かんべん)」というものではありません。「被け物」は被ける人の権威、そして信用というものがあってこそ通用するものでもあったのです。(尾崎克之)

参考・引用文献:
『源氏物語評釈』玉上琢彌、角川書店、1964年
『潤一郎訳源氏物語』谷崎潤一郎、中央公論社、1973年
『日本古代の国家と給与制』山下信一郎、吉川弘文館、2012年
『平安王朝の宮廷社会』黒板伸夫、吉川弘文館、1995年