2019.5.29 幕末
時は幕末、鳥羽伏見の戦い。当時、藤堂家を主(あるじ)とする津藩(藩庁は現在の三重県津市)は、彦根藩(井伊家。藩庁は滋賀県彦根市)とともに新政府軍を迎撃したが、旗色が悪いと見ると新政府軍側に寝返った。すると旧幕府軍の将士は、「やはり藤堂か!」と罵った(ののしった)という。
そんな声があがったのは、津藩の藩祖・藤堂高虎(とうどう・たかとら)の生き方に理由がある。高虎は晩年、「7度主君を変えねば、武士とはいえぬ」と語ったと伝わる。事実、7回(一説では8回とも)も主を変えている。その姿が変節漢と捉えられて、冒頭のセリフにもつながるのである。だが、高虎からすれば己の「信念」を貫いたに過ぎない。
高虎は戦国武将のなかでも名前は広く知られているが、意外にも、その生涯を詳らか(つまびらか)に知る方は少ないのではないか。その実像に迫る。
藤堂高虎(とうどう・たかとら)は、弘治2年(1556)に近江国犬上郡藤堂村で生まれた。藤堂家は土豪だったが、戦国期に没落し、農民と変わらぬ暮らしになっていた。高虎は、武士として身をたてることを決意し、はじめは14歳の折に浅井長政に仕える。足軽であったが、姉川の戦いでも活躍したという。浅井家が滅亡すると、阿閉(あつじ)家、磯野(いその)家(両家とも浅井家の旧臣)、織田信澄(信長の甥)のもとに仕えるものの、いずれも主君に恵まれない。当時の高虎は鬱屈した思いも抱いたはずだ。
そんな折に出会ったのが羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(のちの豊臣秀長)であった。秀長に仕えたのは天正4年(1576)のこと。その後、秀吉の中国攻めに秀長配下として従軍し、天正9年(1581)には但馬(たじま)攻略戦で現地の土豪を討伐。その功績が認められて3000石加増され、鉄砲大将に取り立てられる。若干25歳での抜擢(ばってき)であった。
高虎からすれば、おそらくは「この方とならば共に乱世を駆けられる」と感じたのではないだろうか。秀長がそれまでの主と異なったのは、篤実(とくじつ)な性格であり、高虎の才能と働きぶりをしっかりと認めて評価した点だ。そんな秀長のもとで高虎は才覚を発揮し、のちの九州征伐では島津軍との根白坂(ねじろざか)の戦いで活躍するなど、懐刀(ふところがたな)として秀長を支えていくのである。
そもそも、「忠臣は二君に仕えず」は、江戸時代以降の武士の価値観である。戦国時代には、自分をもっとも評価してもらえる場所で働くのが当然であった。高虎も、豊臣秀長という敬愛する主君に出会ったのちは、秀長がこの世を去るまで粉骨砕身して仕えている。然るべきところで、自分の実力を発揮する――。それが高虎の「武士道」だったのだ。
秀長亡きあと、高虎は自身を高く評価する徳川家康のもとで活躍する。そして迎えた関ケ原の戦いでは、朽木元綱(くつき・もとつな)など多くの武将を西軍から東軍に寝返らせて、見事に勝利を演出した。家康は高虎に全幅の信頼を置き、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と語ったとされる。
高虎は江戸幕府が開かれたのちも一途(いちず)に働き、その姿は儒教をベースにした徳川幕府の倫理体系の礎になったとさえいえる。また、戦国きっての築城の名手としても知られ、その技術は秀吉や家康をも驚嘆させた。
しかし、それでは高虎の魅力が「内政」や「調略」にあったかといえば、それだけに留まらない。じつは、戦場でも類(たぐい)まれなる実力を発揮していた。その典型例が、戦国乱世を終わらせた大坂の陣である。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、高虎率いる藤堂隊は、長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)隊と木村重成(きむら・しげなり)隊と相対した。世にいう「八尾・若江の戦い」である。
夏の陣においては、多くの徳川方の武将が「無駄死にはしたくない」と戦意が高くなかったが、藤堂隊は異なった。長宗我部隊、木村隊ともに難敵であり、藤堂隊は当初、大いに苦戦する。長宗我部隊と激突した八尾では藤堂高刑(たかのり=高虎の甥)と桑名吉成が戦死。木村隊と交わった若江では、藤堂良勝(よしかつ=高虎の従弟)・良重(よししげ=高虎の従兄弟の子)が命を落とす。
しかし、高虎は決して怯(ひる)まなかった。ここで、もしも自分たちが崩れれば、敵軍は他の徳川方の軍勢の側背(そくはい)を衝く、それだけ防がなければいけない……。悲壮ともいえる覚悟を胸に抱く高虎のもと、藤堂隊は死兵と化し、総力をもって長宗我部・木村隊に反撃する。
すると、井伊隊が応援にかけつけて形勢は逆転。こうして八尾・若江では徳川勢が勝利を収め、その勢いのまま、大坂夏の陣は徳川の勝利に終わるのである。まさしく藤堂隊の奮戦が徳川方を救ったのであり、その代償として、藤堂隊は徳川方のなかで、もっとも犠牲が多かったという。
家康は、そんな高虎を心から信用し、加増を決定した。それでも高虎は決して驕る(おごる)ことはなく、「ただ己の職責を、どうにか果たせただけでござる」というのみであったという。
「我らが一番恐れたのは、金の牛の舌の旗指物(藤堂軍)であった」。大坂夏の陣後の豊臣軍の敗残兵の言葉が、藤堂隊の精強さ、そして高虎の気魄(きはく)を雄弁に物語っている。(池島友就)
そんな声があがったのは、津藩の藩祖・藤堂高虎(とうどう・たかとら)の生き方に理由がある。高虎は晩年、「7度主君を変えねば、武士とはいえぬ」と語ったと伝わる。事実、7回(一説では8回とも)も主を変えている。その姿が変節漢と捉えられて、冒頭のセリフにもつながるのである。だが、高虎からすれば己の「信念」を貫いたに過ぎない。
高虎は戦国武将のなかでも名前は広く知られているが、意外にも、その生涯を詳らか(つまびらか)に知る方は少ないのではないか。その実像に迫る。
◆もっとも評価してもらえる場所で実力を発揮する
藤堂高虎(とうどう・たかとら)は、弘治2年(1556)に近江国犬上郡藤堂村で生まれた。藤堂家は土豪だったが、戦国期に没落し、農民と変わらぬ暮らしになっていた。高虎は、武士として身をたてることを決意し、はじめは14歳の折に浅井長政に仕える。足軽であったが、姉川の戦いでも活躍したという。浅井家が滅亡すると、阿閉(あつじ)家、磯野(いその)家(両家とも浅井家の旧臣)、織田信澄(信長の甥)のもとに仕えるものの、いずれも主君に恵まれない。当時の高虎は鬱屈した思いも抱いたはずだ。
そんな折に出会ったのが羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(のちの豊臣秀長)であった。秀長に仕えたのは天正4年(1576)のこと。その後、秀吉の中国攻めに秀長配下として従軍し、天正9年(1581)には但馬(たじま)攻略戦で現地の土豪を討伐。その功績が認められて3000石加増され、鉄砲大将に取り立てられる。若干25歳での抜擢(ばってき)であった。
高虎からすれば、おそらくは「この方とならば共に乱世を駆けられる」と感じたのではないだろうか。秀長がそれまでの主と異なったのは、篤実(とくじつ)な性格であり、高虎の才能と働きぶりをしっかりと認めて評価した点だ。そんな秀長のもとで高虎は才覚を発揮し、のちの九州征伐では島津軍との根白坂(ねじろざか)の戦いで活躍するなど、懐刀(ふところがたな)として秀長を支えていくのである。
そもそも、「忠臣は二君に仕えず」は、江戸時代以降の武士の価値観である。戦国時代には、自分をもっとも評価してもらえる場所で働くのが当然であった。高虎も、豊臣秀長という敬愛する主君に出会ったのちは、秀長がこの世を去るまで粉骨砕身して仕えている。然るべきところで、自分の実力を発揮する――。それが高虎の「武士道」だったのだ。
秀長亡きあと、高虎は自身を高く評価する徳川家康のもとで活躍する。そして迎えた関ケ原の戦いでは、朽木元綱(くつき・もとつな)など多くの武将を西軍から東軍に寝返らせて、見事に勝利を演出した。家康は高虎に全幅の信頼を置き、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と語ったとされる。
高虎は江戸幕府が開かれたのちも一途(いちず)に働き、その姿は儒教をベースにした徳川幕府の倫理体系の礎になったとさえいえる。また、戦国きっての築城の名手としても知られ、その技術は秀吉や家康をも驚嘆させた。
◆「我らが一番恐れたのは、藤堂軍であった」
しかし、それでは高虎の魅力が「内政」や「調略」にあったかといえば、それだけに留まらない。じつは、戦場でも類(たぐい)まれなる実力を発揮していた。その典型例が、戦国乱世を終わらせた大坂の陣である。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、高虎率いる藤堂隊は、長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)隊と木村重成(きむら・しげなり)隊と相対した。世にいう「八尾・若江の戦い」である。
夏の陣においては、多くの徳川方の武将が「無駄死にはしたくない」と戦意が高くなかったが、藤堂隊は異なった。長宗我部隊、木村隊ともに難敵であり、藤堂隊は当初、大いに苦戦する。長宗我部隊と激突した八尾では藤堂高刑(たかのり=高虎の甥)と桑名吉成が戦死。木村隊と交わった若江では、藤堂良勝(よしかつ=高虎の従弟)・良重(よししげ=高虎の従兄弟の子)が命を落とす。
しかし、高虎は決して怯(ひる)まなかった。ここで、もしも自分たちが崩れれば、敵軍は他の徳川方の軍勢の側背(そくはい)を衝く、それだけ防がなければいけない……。悲壮ともいえる覚悟を胸に抱く高虎のもと、藤堂隊は死兵と化し、総力をもって長宗我部・木村隊に反撃する。
すると、井伊隊が応援にかけつけて形勢は逆転。こうして八尾・若江では徳川勢が勝利を収め、その勢いのまま、大坂夏の陣は徳川の勝利に終わるのである。まさしく藤堂隊の奮戦が徳川方を救ったのであり、その代償として、藤堂隊は徳川方のなかで、もっとも犠牲が多かったという。
家康は、そんな高虎を心から信用し、加増を決定した。それでも高虎は決して驕る(おごる)ことはなく、「ただ己の職責を、どうにか果たせただけでござる」というのみであったという。
「我らが一番恐れたのは、金の牛の舌の旗指物(藤堂軍)であった」。大坂夏の陣後の豊臣軍の敗残兵の言葉が、藤堂隊の精強さ、そして高虎の気魄(きはく)を雄弁に物語っている。(池島友就)