2020.10.30
日露戦争の勝利を決定づけたといわれる日本海海戦。当初は精強バルチック艦隊を相手に分が悪いと考えられていた連合艦隊は、なぜ「完勝」を収めることができたのか。
「あの勝利は天佑神助であった」。日本海海戦後、連合艦隊司令長官・東郷平八郎はそう語ったが、そんな「奇跡」に至るまでには、いくつもの重要な分岐点があった。その一つが海戦直前、第二艦隊第二戦隊司令官・島村速雄の進言であったことは間違いない。
ウラジオストックをめざし驀進(ばくしん)するバルチック艦隊は、果たしてどの航路をとるのか。最短距離だが、日本の海軍基地にもっとも近くなってしまう対馬海峡か。海峡通過後はウラジオストックまで近いが、あまりに狭くて日本海側から太平洋側への潮の流れも激しい津軽海峡か。もしくは、日本海軍からは見つかりにくいが、濃霧が発生しやすく航海距離も長くなる宗谷海峡か……。
連合艦隊は敵艦隊をどこで迎え撃つべきか逡巡していた。万一、想定する戦闘海域を誤れば、敵艦隊を無傷でウラジオストックへと逃がすことになるからだ。バルチック艦隊がウラジオストックに入れば、日本の制海権は危機に陥り、大陸で戦う日本陸軍の増援や補給もままならなくなり、壊滅的敗北へと追い込まれかねない。
連合艦隊司令部でも意見がまとまらず、5月25日夜、旗艦三笠で軍議が開かれた。このとき、連合艦隊参謀長の加藤友三郎や参謀の秋山真之は、津軽海峡に来ると予想して、艦隊の速やかな移動を主張した。これに対し、このまま対馬海峡で待つべしとしたのが、第二艦隊参謀長の藤井較一、そして第二艦隊第二戦隊司令官・島村速雄だった。
島村は加藤や藤井と同期で、先頃まで連合艦隊参謀長を務めていた人物だった。海軍戦術に精通した秀才であり、兵学校も「七期に島村速雄あり」といわれるほどの優秀な成績で卒業している。さらに、『海軍戦術一斑』という、日本初の海軍戦術論文を執筆したのちにイギリスに留学している。
日清戦争では連合艦隊参謀として旗艦松島に乗り組み、司令長官伊東祐亨を補佐して黄海海戦の陰の立役者となった。自分が表に出ることを好まず、功績は他人に譲る。秋山真之が立案したとされる作戦のなかにも、実は島村の発案を基にしたものが少なからずあったともいわれている。
そんな島村は、三笠での軍議に遅れて到着すると、自分の意見をこう述べたという。
「バルチック艦隊は長い航海を経ている。心理的にも補給面からみても太平洋へ迂回する余裕はないはずである。連合艦隊と一戦交えてでも最短距離での入港をめざす。敵は必ず対馬水道に来る」
その明瞭な分析に、場の雰囲気は一変した。さらに島村は、東郷司令長官に「いましばらく、情報が入るまで留まるべきです」と進言。東郷もこれを容れ、「津軽海峡での迎撃を期して連合艦隊を北進させる」という密封命令の発動を翌日昼にまで遅らせた。これが功を奏し、そのあいだに「バルチック艦隊、上海にあり」の急報が届くのである。
その後の日本海海戦の結果は、よく知られるとおりである。決戦当日は「本日天気晴朗なれども浪高し」。ここで東郷は賭けに出た。敵を逃がさず砲撃戦を行なうべく、敵とすれ違う寸前まで接近して反転、優速を活かして敵の進路を押さえ、同航戦による砲撃戦に持ち込むことを決断する。すなわち、「東郷ターン」である。
かくして三笠は19発の命中弾を浴びるものの、全艦が回頭を終えた連合艦隊は斉射による猛攻をかけ、敵に致命的なダメージを与えるのであった――。
この激戦も、島村の「読み」がなければありえなかった。あのとき、島村の冷静な分析がなければ、連合艦隊はバルチック艦隊を取り逃していたのだから。その意味で、島村は東郷や秋山と並び、「日本海海戦勝利の立役者」と呼ぶべきであろう。
なお、日本海海戦の追撃戦において、島村は第二艦隊第二戦隊を率いて、残敵掃討にあたっている。しかし、追撃したロシア海防艦を撃沈したとき、彼は乗艦を沈没海域に急行させた。そして、舷側からあらゆる綱を垂らして、あらゆる木材を投げて、可能なかぎりのロシアの乗組員を救助した。
まさしく海軍軍人らしく、ジェントルマンシップを備えていた。島村速雄とは、そんな男であった。(池島友就)
「あの勝利は天佑神助であった」。日本海海戦後、連合艦隊司令長官・東郷平八郎はそう語ったが、そんな「奇跡」に至るまでには、いくつもの重要な分岐点があった。その一つが海戦直前、第二艦隊第二戦隊司令官・島村速雄の進言であったことは間違いない。
◆「敵は必ず対馬水道に来る」
ウラジオストックをめざし驀進(ばくしん)するバルチック艦隊は、果たしてどの航路をとるのか。最短距離だが、日本の海軍基地にもっとも近くなってしまう対馬海峡か。海峡通過後はウラジオストックまで近いが、あまりに狭くて日本海側から太平洋側への潮の流れも激しい津軽海峡か。もしくは、日本海軍からは見つかりにくいが、濃霧が発生しやすく航海距離も長くなる宗谷海峡か……。
連合艦隊は敵艦隊をどこで迎え撃つべきか逡巡していた。万一、想定する戦闘海域を誤れば、敵艦隊を無傷でウラジオストックへと逃がすことになるからだ。バルチック艦隊がウラジオストックに入れば、日本の制海権は危機に陥り、大陸で戦う日本陸軍の増援や補給もままならなくなり、壊滅的敗北へと追い込まれかねない。
連合艦隊司令部でも意見がまとまらず、5月25日夜、旗艦三笠で軍議が開かれた。このとき、連合艦隊参謀長の加藤友三郎や参謀の秋山真之は、津軽海峡に来ると予想して、艦隊の速やかな移動を主張した。これに対し、このまま対馬海峡で待つべしとしたのが、第二艦隊参謀長の藤井較一、そして第二艦隊第二戦隊司令官・島村速雄だった。
島村は加藤や藤井と同期で、先頃まで連合艦隊参謀長を務めていた人物だった。海軍戦術に精通した秀才であり、兵学校も「七期に島村速雄あり」といわれるほどの優秀な成績で卒業している。さらに、『海軍戦術一斑』という、日本初の海軍戦術論文を執筆したのちにイギリスに留学している。
日清戦争では連合艦隊参謀として旗艦松島に乗り組み、司令長官伊東祐亨を補佐して黄海海戦の陰の立役者となった。自分が表に出ることを好まず、功績は他人に譲る。秋山真之が立案したとされる作戦のなかにも、実は島村の発案を基にしたものが少なからずあったともいわれている。
そんな島村は、三笠での軍議に遅れて到着すると、自分の意見をこう述べたという。
「バルチック艦隊は長い航海を経ている。心理的にも補給面からみても太平洋へ迂回する余裕はないはずである。連合艦隊と一戦交えてでも最短距離での入港をめざす。敵は必ず対馬水道に来る」
その明瞭な分析に、場の雰囲気は一変した。さらに島村は、東郷司令長官に「いましばらく、情報が入るまで留まるべきです」と進言。東郷もこれを容れ、「津軽海峡での迎撃を期して連合艦隊を北進させる」という密封命令の発動を翌日昼にまで遅らせた。これが功を奏し、そのあいだに「バルチック艦隊、上海にあり」の急報が届くのである。
◆ジェントルマンシップを備えた「勝利の立役者」
その後の日本海海戦の結果は、よく知られるとおりである。決戦当日は「本日天気晴朗なれども浪高し」。ここで東郷は賭けに出た。敵を逃がさず砲撃戦を行なうべく、敵とすれ違う寸前まで接近して反転、優速を活かして敵の進路を押さえ、同航戦による砲撃戦に持ち込むことを決断する。すなわち、「東郷ターン」である。
かくして三笠は19発の命中弾を浴びるものの、全艦が回頭を終えた連合艦隊は斉射による猛攻をかけ、敵に致命的なダメージを与えるのであった――。
この激戦も、島村の「読み」がなければありえなかった。あのとき、島村の冷静な分析がなければ、連合艦隊はバルチック艦隊を取り逃していたのだから。その意味で、島村は東郷や秋山と並び、「日本海海戦勝利の立役者」と呼ぶべきであろう。
なお、日本海海戦の追撃戦において、島村は第二艦隊第二戦隊を率いて、残敵掃討にあたっている。しかし、追撃したロシア海防艦を撃沈したとき、彼は乗艦を沈没海域に急行させた。そして、舷側からあらゆる綱を垂らして、あらゆる木材を投げて、可能なかぎりのロシアの乗組員を救助した。
まさしく海軍軍人らしく、ジェントルマンシップを備えていた。島村速雄とは、そんな男であった。(池島友就)