2019.4.19
お城といって思い浮かべるものは何だろうか? 多くの人は、きっと姫路城に代表される壮麗な天守を想起するのではないだろうか?
日本全国のあちこちに、天守が屹立(きつりつ)しているが、この「天守」にも、意外な歴史が隠されているのだ。
知っているようで知らない、日本のお城の歴史に迫る。
お城といえば天守。そう思われている方も多いのではないか。白鷺城(しらさぎじょう)とも呼ばれる姫路城の白亜の天守。烏城(からすじょう)と呼ばれる松本城の「下見板張り」の天守。天守はお城のシンボルであり、観光の目玉でもある。
ところで、ここでは「天守」と書いたが、「あれ? 『天守閣』ではないの?」と不審に思われる方もいるだろう。
実は、歴史的には「天守」が正しい。つまり、江戸時代以前にさかのぼる城郭においては、あくまでも「天守」と呼んでいたので。「天守閣」と「閣」をつけるようになったのは、時期ははっきりしないが、少なくとも明治以降の話。
「浅草12階」の愛称で親しまれた「凌雲閣(りょううんかく)」をご存じだろうか。明治23年(1890)に浅草に建てられた眺望塔、つまり高いところから東京の町を見下ろすための観光施設だ。明治中頃には、こうした眺望塔の建設がブームとなっていたらしい。
この場合の「閣」は、要するにタワーのこと。もともと中国由来の高い建物=高殿を示す「閣」という言葉を、タワーの訳語として当てはめたのだろう。
金閣、銀閣のように、もともと「閣」を使った建物は歴史的にも存在したが、明治以降になって、「そういえば天守って、ジャパニーズ・タワーだよね」という発想が湧き、そこから天守を「天守閣」と呼び変えるようになったのかもしれない。
つまり、天守閣と「閣」の字をつけるには明治以降の慣習であって、それ以前に建てられた歴史的建築物である天守を「天守閣」と呼ぶのは、厳密にいえば間違い。学術的には通用しない用語・用法なのだ。
さて、その天守、冒頭で触れたように、お城といえば天守というイメージは定着している。以前に、筆者の老親を連れてどこぞの城を訪ねる機会があった。そこには石垣や土塁は残っているが、天守どころか建物は一つも残っていなかった。こちらとしては、そういう城跡だということは織り込み済みだったので、なんの疑問も持たなかったのだが、老親は「なんだ、城がないじゃないか?」と落胆の声を上げた。ああ、なるほど。天守もしくはそれに準ずる櫓(やぐら)こそが、普通の人にとっては「城」そのものなのだと得心がいったものだ。
ところで、私たちが実際に目にすることができる城の天守の大半は、実は鉄筋コンクリートでできた復元建築であることは、ご存じの方も多いだろう。江戸時代以前にさかのぼる天守で現存するものは12城にとどまる。その内訳は以下の通り。
弘前城(青森県)
松本城(長野県)
丸岡城(福井県)
犬山城(愛知県
彦根城(滋賀県)
姫路城(兵庫県)
松江城(島根県)
備中松山城(岡山県)
丸亀城(香川県)
伊予松山城(愛媛県)
宇和島城(愛媛県)
高知城(高知県)
東日本にはほとんど現存せず、四国だけで4城と偏っていることがわかるだろう。
この現存天守のうち、松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城の5つの城の天守が国宝に指定され、残りの7城は重要文化財になっている。
国宝という「制度」は戦前にさかのぼり、最初に国宝(旧国宝)に指定された天守は名古屋城の天守だったが、残念なことに昭和20年(1945)の名古屋大空襲で焼失してしまった。
明治6年(1873)の「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」の結果、日本全国の多くの城が破却される運命をたどった。残された全国の20の天守が、1940年代までに国宝などの文化財に指定された。だが、さらに名古屋城や広島城など7つの天守が、第二次世界大戦の戦火で焼失してしまったのだ。
ちなみにその戦火で消失した7城とは水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城で、これらは古写真が残っているので、当時の姿を再現することができる。
ここで不審に思われる方もいるだろう。戦前まで残っていた天守が20。そのうち7つが戦災で焼けた。ということは、天守は13城残っていたはず。それなのに現存天守は12。数が合わない。
実は、昭和24年(1949)に、北海道松前町の町役場で火事が起きた。当直の職員が寒さをしのぐために電灯に布団をかけてこたつ替わりにしていたところ、そこから失火してしまったらしい。当時、町役場は松前城跡の敷地内にあったため、火が天守にまでまわってしまったのだ。戦火をくぐりぬけて、ようやく終戦にまでたどり着いたすえの惨事で、なんとも残念なことだ。
以後、現存12城の時代が現在まで続いているが、最近まで、「国宝4城」という呼びならわし方が知られていた。松本城・犬山城・彦根城・姫路城の4城のことだ。
松江城は、戦前にいったん国宝に指定されていた。これは昭和4年に施行された国宝保存法による国宝指定であった。
戦後の昭和25年(1950)に新たな文化財保護法が制定された際、戦前の国宝はすべていったん新法律に定める重要文化財と位置づけたうえで、あらためて国宝に再指定するという流れになった。ところが松江城天守は、築城時期を特定する史料がなかったことから、そのまま重要文化財にとどめられてしまった。
松江市民にとって、松江城天守を再び国宝にするのは、いわば悲願となっていた。平成21年(2009)以降、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」が結成され、官民をあげての国宝再指定運動が展開される。
そして、その運動が実り、平成24年(2012)に、築城時期特定の決め手となる記述がある祈祷札が松江神社で見つかった。そして、松江城天守は平成27年(2015)に、晴れて国宝に再指定される運びとなったのだ。
以後、松江城を加えた「国宝5天守」は、日本の城のシンボルとして、お城ファンだけでなく多くの市民の誇りとなり、観光客を楽しませてくれている。(安田清人)
日本全国のあちこちに、天守が屹立(きつりつ)しているが、この「天守」にも、意外な歴史が隠されているのだ。
知っているようで知らない、日本のお城の歴史に迫る。
◆「天守閣」ではなく「天守」!
お城といえば天守。そう思われている方も多いのではないか。白鷺城(しらさぎじょう)とも呼ばれる姫路城の白亜の天守。烏城(からすじょう)と呼ばれる松本城の「下見板張り」の天守。天守はお城のシンボルであり、観光の目玉でもある。
ところで、ここでは「天守」と書いたが、「あれ? 『天守閣』ではないの?」と不審に思われる方もいるだろう。
実は、歴史的には「天守」が正しい。つまり、江戸時代以前にさかのぼる城郭においては、あくまでも「天守」と呼んでいたので。「天守閣」と「閣」をつけるようになったのは、時期ははっきりしないが、少なくとも明治以降の話。
「浅草12階」の愛称で親しまれた「凌雲閣(りょううんかく)」をご存じだろうか。明治23年(1890)に浅草に建てられた眺望塔、つまり高いところから東京の町を見下ろすための観光施設だ。明治中頃には、こうした眺望塔の建設がブームとなっていたらしい。
この場合の「閣」は、要するにタワーのこと。もともと中国由来の高い建物=高殿を示す「閣」という言葉を、タワーの訳語として当てはめたのだろう。
金閣、銀閣のように、もともと「閣」を使った建物は歴史的にも存在したが、明治以降になって、「そういえば天守って、ジャパニーズ・タワーだよね」という発想が湧き、そこから天守を「天守閣」と呼び変えるようになったのかもしれない。
つまり、天守閣と「閣」の字をつけるには明治以降の慣習であって、それ以前に建てられた歴史的建築物である天守を「天守閣」と呼ぶのは、厳密にいえば間違い。学術的には通用しない用語・用法なのだ。
さて、その天守、冒頭で触れたように、お城といえば天守というイメージは定着している。以前に、筆者の老親を連れてどこぞの城を訪ねる機会があった。そこには石垣や土塁は残っているが、天守どころか建物は一つも残っていなかった。こちらとしては、そういう城跡だということは織り込み済みだったので、なんの疑問も持たなかったのだが、老親は「なんだ、城がないじゃないか?」と落胆の声を上げた。ああ、なるほど。天守もしくはそれに準ずる櫓(やぐら)こそが、普通の人にとっては「城」そのものなのだと得心がいったものだ。
◆どうして現存天守が「12」になったのか
ところで、私たちが実際に目にすることができる城の天守の大半は、実は鉄筋コンクリートでできた復元建築であることは、ご存じの方も多いだろう。江戸時代以前にさかのぼる天守で現存するものは12城にとどまる。その内訳は以下の通り。
弘前城(青森県)
松本城(長野県)
丸岡城(福井県)
犬山城(愛知県
彦根城(滋賀県)
姫路城(兵庫県)
松江城(島根県)
備中松山城(岡山県)
丸亀城(香川県)
伊予松山城(愛媛県)
宇和島城(愛媛県)
高知城(高知県)
東日本にはほとんど現存せず、四国だけで4城と偏っていることがわかるだろう。
この現存天守のうち、松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城の5つの城の天守が国宝に指定され、残りの7城は重要文化財になっている。
国宝という「制度」は戦前にさかのぼり、最初に国宝(旧国宝)に指定された天守は名古屋城の天守だったが、残念なことに昭和20年(1945)の名古屋大空襲で焼失してしまった。
明治6年(1873)の「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」の結果、日本全国の多くの城が破却される運命をたどった。残された全国の20の天守が、1940年代までに国宝などの文化財に指定された。だが、さらに名古屋城や広島城など7つの天守が、第二次世界大戦の戦火で焼失してしまったのだ。
ちなみにその戦火で消失した7城とは水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城で、これらは古写真が残っているので、当時の姿を再現することができる。
ここで不審に思われる方もいるだろう。戦前まで残っていた天守が20。そのうち7つが戦災で焼けた。ということは、天守は13城残っていたはず。それなのに現存天守は12。数が合わない。
実は、昭和24年(1949)に、北海道松前町の町役場で火事が起きた。当直の職員が寒さをしのぐために電灯に布団をかけてこたつ替わりにしていたところ、そこから失火してしまったらしい。当時、町役場は松前城跡の敷地内にあったため、火が天守にまでまわってしまったのだ。戦火をくぐりぬけて、ようやく終戦にまでたどり着いたすえの惨事で、なんとも残念なことだ。
◆「国宝4天守」から「国宝5天守」へ
以後、現存12城の時代が現在まで続いているが、最近まで、「国宝4城」という呼びならわし方が知られていた。松本城・犬山城・彦根城・姫路城の4城のことだ。
松江城は、戦前にいったん国宝に指定されていた。これは昭和4年に施行された国宝保存法による国宝指定であった。
戦後の昭和25年(1950)に新たな文化財保護法が制定された際、戦前の国宝はすべていったん新法律に定める重要文化財と位置づけたうえで、あらためて国宝に再指定するという流れになった。ところが松江城天守は、築城時期を特定する史料がなかったことから、そのまま重要文化財にとどめられてしまった。
松江市民にとって、松江城天守を再び国宝にするのは、いわば悲願となっていた。平成21年(2009)以降、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」が結成され、官民をあげての国宝再指定運動が展開される。
そして、その運動が実り、平成24年(2012)に、築城時期特定の決め手となる記述がある祈祷札が松江神社で見つかった。そして、松江城天守は平成27年(2015)に、晴れて国宝に再指定される運びとなったのだ。
以後、松江城を加えた「国宝5天守」は、日本の城のシンボルとして、お城ファンだけでなく多くの市民の誇りとなり、観光客を楽しませてくれている。(安田清人)