2019.4.21
西郷隆盛といえば、日本史上の「おなじみ」の人物のなかで、坂本龍馬や織田信長に次ぐ人気を誇る偉人として知られています。歴史に大きな足跡を残した人物は多々いますが、なかでも西郷は、器が大きくて高潔だったといわれるその人格を仰ぎ見て、尊敬の念を持つ人が非常に多いのが特筆されます。
特に中年以上の男性に人気が高いのは、彼らが部下や後輩、子どもたちとどう向き合うかを日々、考えざるを得ないからでしょう。「西郷のようにありたい。無理かもしれないけれど、西郷のような立派な『人物』になって、支持をされたい」。そういう気持ちは、よくわかります。
しかし、そうした西郷のイメージは、どこまで事実に即したものなのでしょうか。
実は近年、西郷とその業績について、専門家のあいだで、いくつかの疑問が出されています。最新研究から見えてきた西郷隆盛の意外な実像について見ていきましょう。
西郷隆盛の最大の功績として、誰もが思い浮かべるのは、「薩長同盟」の締結だろう。薩摩代表の西郷と、長州代表の木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎〈かつら・こごろう〉)が、土佐藩出身の脱藩浪士・坂本龍馬らの仲介で同盟を結び、それが倒幕と明治維新へとつながったというのが、歴史好きなら誰もが知っている幕末維新のストーリーだ。
なぜ薩長同盟が画期的だったかといえば、薩摩と長州は、それまで非常に仲が悪い、いわば仇敵(きゅうてき)だったからだ。
文久3年(1863)の「八・一八政変」で、それまで過激な攘夷を唱えて朝廷工作を繰り広げてきた長州は、京から追放された。翌年、失地回復を図る長州は、京で軍事行動を起こす。「禁門の変」と呼ばれる事件だ。
この「禁門の変」を鎮圧したのは、薩摩藩と会津藩だった。彼らは幕府と朝廷が協調し、有力諸藩がそれをサポートするという「公武合体」路線を取っていた。先鋭的な攘夷を掲げて幕府の弱腰を非難し、さらには討幕をも視野に入れていた長州は、薩摩や会津にとって、ぜひとも排除しなければならない存在だったのだ。
長州人たちも、禁門の変の仇敵である薩摩や会津を「薩賊会奸」とののしり、激しく憎悪した。まさに犬猿の仲ともいえる薩摩と長州の手を組ませたのだから、薩長同盟を成し遂げた坂本龍馬は称賛され、西郷と木戸の両巨頭も、大いに株を上げた。
禁門の変の後、幕府は長州を討つために出兵する。第一次長州征伐だ。その事実上の指揮を執ったのは薩摩の西郷だった。ところが西郷は、長州を徹底して攻撃し、滅亡に追い込むようなことはしなかった。むしろ適当なところで手を打ち、幕府の顔を立てたうえで長州を延命させるよう、戦の舵(かじ)を切っている。通説では、西郷は幕臣・勝海舟に感化され、国内で争っている場合ではないと判断したとされている。
しかし、近年の研究では、長州との接近を図ったのは西郷ではなく、薩摩藩の事実上のトップである藩主の父(当時、国父と呼ばれた)島津久光だったことがわかっている。もともと幕政改革に意欲を持っていた久光だが、当時、すでに傾きかけた幕府との協調路線に限界を感じ、距離を取りはじめていた。そして、もし長州を徹底的に叩いたら、次に幕府に狙われるのは薩摩だとの危機感を抱いていたのだ。
そこで久光は、むしろここで長州に恩を売り、連携を図ったほうがよいと考えた。西郷は、主人である久光の方針に従って長州援護の動きに出たのだ。
さて薩長同盟だが、残された文書を読み返してみると、交わされた「約束」の内容は、「長州が幕府に攻められたら、薩摩は中立の立場を守る」とか、「禁門の変で『朝敵』とされた長州の名誉回復のために薩摩が努力する」といったことだけで、「相手が戦争状態となれば、味方として戦う」という、いわゆる攻守同盟・軍事同盟の規定は一切ない。同盟ではなく薩摩藩の基本方針(久光の方針)を確認した覚書にすぎないと指摘する研究者もいる。
さらにいえば、この段階で長州代表が木戸であったのは間違いないが。薩摩代表は西郷ではなく、家老の小松帯刀(こまつ・たてわき)だったという見方も有力だ。事実、小松は長崎や京都にあって、常に薩摩の外交責任者として行動している。
西郷は、病気で亡くなった藩主・島津斉彬(しまず・なりあきら)の側近として、かなり早い段階から江戸や京都で国事周旋(国家の政治に関わる政治行動)に当たっていたため、この時期の薩摩では「伝説の男」として重んじられてはいたが、身分は低く、少なくとも正式な薩摩藩の代表とはいえなかった。
薩長同盟とは、実際のところ「同盟」ともいえない、木戸と小松が交わした「覚書」くらいのものだったというわけだ。もちろん、幕府から攻められる危機にあった長州には意味のあることだったが、薩摩にとってはさほど重要なものではなかったろう。
薩長同盟が、「時代の分水嶺」、あるいは「明治維新を実現した主要因」として語られるようになるのは、どうも、もっと後の時代のことらしい。
明治維新以後、ある時期から、政府を牛耳る薩長出身者への世間の風当たりが強くなってきた。薩長藩閥政府を打倒しようという動きまで見られ、それが自由民権運動にもつながってゆく。
薩長関係者のなかに、自分たちが政府の枢要にいることを正当化したいという欲求が芽生えてくる。そして、「幕府を倒し明治維新を成し遂げたのは薩長のおかげだ」ということが、ことさらにアピールされるようになった。
薩長同盟が「時代の分水嶺」へとドラマチックに脚色されたのは、そのためではなかろうか。
西郷は、明治10年(1877)に国内最後の内戦となった西南戦争で亡くなる。しかし、西郷を評価し、敬慕する庶民感情は、政府への反発と相まって、明治時代の後半になっても消えなかった。
政府としては、そうした庶民の心をなんとか引き付けたい。そのためにも、「薩長同盟を成し遂げた大人物・西郷」というイメージづくりが都合よかったのではないか。
西郷は、確かに明治維新の大きな原動力となった傑物だった。しかし、その業績を正しく理解しなければ、西郷への愛も、砂上の楼閣と同じになってしまいかねない。事実を明らかにすることは、決して西郷を貶めることではないのだ。(安田清人)
特に中年以上の男性に人気が高いのは、彼らが部下や後輩、子どもたちとどう向き合うかを日々、考えざるを得ないからでしょう。「西郷のようにありたい。無理かもしれないけれど、西郷のような立派な『人物』になって、支持をされたい」。そういう気持ちは、よくわかります。
しかし、そうした西郷のイメージは、どこまで事実に即したものなのでしょうか。
実は近年、西郷とその業績について、専門家のあいだで、いくつかの疑問が出されています。最新研究から見えてきた西郷隆盛の意外な実像について見ていきましょう。
◆西郷隆盛は、本当に「薩長同盟」の立役者だったのか?
西郷隆盛の最大の功績として、誰もが思い浮かべるのは、「薩長同盟」の締結だろう。薩摩代表の西郷と、長州代表の木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎〈かつら・こごろう〉)が、土佐藩出身の脱藩浪士・坂本龍馬らの仲介で同盟を結び、それが倒幕と明治維新へとつながったというのが、歴史好きなら誰もが知っている幕末維新のストーリーだ。
なぜ薩長同盟が画期的だったかといえば、薩摩と長州は、それまで非常に仲が悪い、いわば仇敵(きゅうてき)だったからだ。
文久3年(1863)の「八・一八政変」で、それまで過激な攘夷を唱えて朝廷工作を繰り広げてきた長州は、京から追放された。翌年、失地回復を図る長州は、京で軍事行動を起こす。「禁門の変」と呼ばれる事件だ。
この「禁門の変」を鎮圧したのは、薩摩藩と会津藩だった。彼らは幕府と朝廷が協調し、有力諸藩がそれをサポートするという「公武合体」路線を取っていた。先鋭的な攘夷を掲げて幕府の弱腰を非難し、さらには討幕をも視野に入れていた長州は、薩摩や会津にとって、ぜひとも排除しなければならない存在だったのだ。
長州人たちも、禁門の変の仇敵である薩摩や会津を「薩賊会奸」とののしり、激しく憎悪した。まさに犬猿の仲ともいえる薩摩と長州の手を組ませたのだから、薩長同盟を成し遂げた坂本龍馬は称賛され、西郷と木戸の両巨頭も、大いに株を上げた。
禁門の変の後、幕府は長州を討つために出兵する。第一次長州征伐だ。その事実上の指揮を執ったのは薩摩の西郷だった。ところが西郷は、長州を徹底して攻撃し、滅亡に追い込むようなことはしなかった。むしろ適当なところで手を打ち、幕府の顔を立てたうえで長州を延命させるよう、戦の舵(かじ)を切っている。通説では、西郷は幕臣・勝海舟に感化され、国内で争っている場合ではないと判断したとされている。
しかし、近年の研究では、長州との接近を図ったのは西郷ではなく、薩摩藩の事実上のトップである藩主の父(当時、国父と呼ばれた)島津久光だったことがわかっている。もともと幕政改革に意欲を持っていた久光だが、当時、すでに傾きかけた幕府との協調路線に限界を感じ、距離を取りはじめていた。そして、もし長州を徹底的に叩いたら、次に幕府に狙われるのは薩摩だとの危機感を抱いていたのだ。
そこで久光は、むしろここで長州に恩を売り、連携を図ったほうがよいと考えた。西郷は、主人である久光の方針に従って長州援護の動きに出たのだ。
◆なぜ、話は「盛られた」のか
さて薩長同盟だが、残された文書を読み返してみると、交わされた「約束」の内容は、「長州が幕府に攻められたら、薩摩は中立の立場を守る」とか、「禁門の変で『朝敵』とされた長州の名誉回復のために薩摩が努力する」といったことだけで、「相手が戦争状態となれば、味方として戦う」という、いわゆる攻守同盟・軍事同盟の規定は一切ない。同盟ではなく薩摩藩の基本方針(久光の方針)を確認した覚書にすぎないと指摘する研究者もいる。
さらにいえば、この段階で長州代表が木戸であったのは間違いないが。薩摩代表は西郷ではなく、家老の小松帯刀(こまつ・たてわき)だったという見方も有力だ。事実、小松は長崎や京都にあって、常に薩摩の外交責任者として行動している。
西郷は、病気で亡くなった藩主・島津斉彬(しまず・なりあきら)の側近として、かなり早い段階から江戸や京都で国事周旋(国家の政治に関わる政治行動)に当たっていたため、この時期の薩摩では「伝説の男」として重んじられてはいたが、身分は低く、少なくとも正式な薩摩藩の代表とはいえなかった。
薩長同盟とは、実際のところ「同盟」ともいえない、木戸と小松が交わした「覚書」くらいのものだったというわけだ。もちろん、幕府から攻められる危機にあった長州には意味のあることだったが、薩摩にとってはさほど重要なものではなかったろう。
薩長同盟が、「時代の分水嶺」、あるいは「明治維新を実現した主要因」として語られるようになるのは、どうも、もっと後の時代のことらしい。
明治維新以後、ある時期から、政府を牛耳る薩長出身者への世間の風当たりが強くなってきた。薩長藩閥政府を打倒しようという動きまで見られ、それが自由民権運動にもつながってゆく。
薩長関係者のなかに、自分たちが政府の枢要にいることを正当化したいという欲求が芽生えてくる。そして、「幕府を倒し明治維新を成し遂げたのは薩長のおかげだ」ということが、ことさらにアピールされるようになった。
薩長同盟が「時代の分水嶺」へとドラマチックに脚色されたのは、そのためではなかろうか。
西郷は、明治10年(1877)に国内最後の内戦となった西南戦争で亡くなる。しかし、西郷を評価し、敬慕する庶民感情は、政府への反発と相まって、明治時代の後半になっても消えなかった。
政府としては、そうした庶民の心をなんとか引き付けたい。そのためにも、「薩長同盟を成し遂げた大人物・西郷」というイメージづくりが都合よかったのではないか。
西郷は、確かに明治維新の大きな原動力となった傑物だった。しかし、その業績を正しく理解しなければ、西郷への愛も、砂上の楼閣と同じになってしまいかねない。事実を明らかにすることは、決して西郷を貶めることではないのだ。(安田清人)