挑みつづけたアスリート、金栗四三の競技者人生

2019.5.13
 NHK大河ドラマ『いだてん』がスタート。2020年には56年ぶりに東京オリンピックが開かれるということもあり、オリンピックの歴史への注目がかつてないほど高まっています。ここでは、日本人とオリンピックとの関わりに目を向け、歴史の表舞台にはあまり出てこない話を紹介しましょう。まず、『いだてん』に敬意を表して、日本人初のオリンピック出場選手となった金栗四三(かなくり・しそう)に、競技者としての前半生について取り上げます。

◆生涯で走った距離は地球6周と4分の1?


 金栗は、マラソン選手として3度も世界記録を更新。ストックホルム、アントワープ、パリと、これまた3度のオリンピック出場を果たした。日本初に駅伝大会である東海道五十三次駅伝や箱根駅伝にも参加。さらには下関~東京間、サハリン~東京間、九州一周も走破し、日本中を走りきった。

 江戸時代には、旅行家の菅江真澄(すがえ・ますみ)や山伏の野田泉光院(のだ・せんこういん)、北方探検家の松浦武四郎(まつうら・たけしろう)など、日本中をある生き回った猛者たちがいた。しかし、彼らはそれが目的ではなく、修行や探検などの目的があって、全国を踏破したのだが、金栗は違う。日本全国を、「走る」というただそれだけを目的に走破したのだ。

 誰が計算したのかはわからないが、その生涯で走った距離は25万キロ。地球6周と4分の1に相当するらしい。「韋駄天(いだてん)」は仏教の教説に登場する神の一人で、仏舎利(ぶっしゃり)を盗んだ逃げた鬼を追いかけて取り戻したという俗信から、やたら足が速い人を「韋駄天」と称するようになったらしいが、この「いだてん」金栗は、駆け足が速いだけでなく、相当な健脚の持ち主だったようだ。

◆「失敗は成功の基にして、雨降って地固まるの日を待つのみ」


 金栗四三は、明治24年(1891)に熊本県玉名郡春富村、現在の三加話町(みかわまち)に生まれた。大原村祖谷にある玉名北高等小学校に通うのに往復12キロの道のりを毎日走り、自然と足腰が鍛えられた。玉名中学での成績表が残っている。クラスで1、2番の成績だったというから、足だけでなく学業も優秀だった。成績優秀、品行方正が条件となった特待生に選ばれたので、授業料は免除されたようだ。

 やがて東京高等師範学校に進学した金栗は、翌年に徒歩部に入部。この年の11月に羽田競技場で開かれた国際オリンピック国内予選会でマラソンを走り、2時間32分45秒という、それまでの世界記録を27分も短縮する驚異的な記録で優勝を飾った。

 それから8カ月後、近代オリンピックの第5回となるストックホルム大会に、金栗は出場を果たす。日本人として初めてのオリンピック出場だ。短距離に出場した三島彌彦(みしま・やひこ)とともに、この栄誉に浴した金栗だが、酷暑のために26.7キロ地点で意識不明となり落伍してしまうという結果に終わった。

 この日の日記に、金栗は次のような決意を書き記している。

《失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん》

◆さまざまな取り組みを重ね、走り抜く


 言葉の通り、これで終わらないのが「いだてん」の真骨頂だった。東京高等師範学校の最上級生となった大正2年(1913)、22歳となった金栗は第1回陸上競技選手権大会に出場し、自らのマラソン世界記録を更新する2時間31分28秒の記録で優勝した。

 この後、東京高等師範学校を卒業した金栗に、養子入りの話が持ち上がる。叔母の池部幾江は、夫に先立たれて子どももいなかったので、資産家である池部家を守るために、金栗を養子としたのだ。すでに養子縁組とセットだったのか、叔母が見初めた医者の娘、春野スヤとの結婚も決まった。しかし、金栗の目はあくまでもオリンピックに向いている。彼はその後も東京で暮らし、金栗姓を名乗りつづけた。単身赴任だったのだろう。

 そして結婚から約半年後、第2回陸上競技選手権大会において、3度目の世界記録更新となる2時間19分20秒3の記録を打ち立てる。金栗は、マラソン選手としてのピークを迎えていた。

 しかし、大正5年(1916)に予定されていた第6回オリンピックベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止となってしまう。このとき、もし金栗が出場を果たしていたら、いかなる結果を残したことか……。

 2度目のオリンピック出場は夢と終わった。しかし、マラソン競技者としての金栗の人生は終わらない。このから金栗は、陸上競技の指導者として後進の指導・育成にも携わることになる。

 この年(大正5年)、金栗は神奈川師範学校の教師となる。面白いのは体育の教師ではなかったこと。担当科目は地理だった。

 翌年には獨逸学協会中学校(現在の獨協中学校・高等学校)に異動。このころから、金栗は富士山麓で高地トレーニングを開始している。体格のハンデを克服するためには、当然のことだが精神論では太刀打ちできない。一流アスリートの世界では、科学的のトレーニングが不可欠ということは、すでに大正時代から自明のことだったのだ。

 東海道五十三次駅伝競走(大正6年〈1917〉、京都の三条大橋から東京上野の不忍池まで23区間、約500kmを走破)、富士登山マラソン、下関~東京間走破など、さまざまな取り組みを重ね、腕、いや脚を磨いた金栗は、大正9年ついに第7回オリンピックアントワープ大会のマラソンに出場する。だが、金栗はこのとき29歳。2時間48分45秒と、ベスト記録には程遠い記録で、16位の結果であった。(安田清人)