2019.5.27 憲法改正
「真理がわれらを自由にする」との碑文が国立国会図書館のカウンターの上に掲げられています。これは国会図書館初代館長の金森徳次郎の筆によるものです。
金森は終戦直後の昭和21年(1946)に憲法担当大臣を務め、第90回帝国議会の新憲法草案に関する政府側の答弁1300回超を行ないました。当時、「『答弁』というより『能弁』だ」などといわれつつ奮闘した金森徳次郎。彼は、何を守ろうとしたのでしょうか。
彼の「能弁」集から、新憲法を巡る議論を見ていきましょう。
金森徳次郎は明治19年(1886)、愛知県名古屋市に生まれ、東京帝国大学の英法科を卒業後、大蔵省の官僚となり、内閣の法案に目を通す法制局に入ります。
昭和9年(1934)に法制局長官となりますが、金森を悲劇が襲います。昭和10年(1935)に起きた天皇機関説事件に巻き込まれるのです。
これは、東大で憲法学を教えていた美濃部達吉が「天皇は国家の最高機関」とする学説を唱えていたのに対して、「天皇を国家の機関と位置づけるとは何事だ。国体に反する。緩慢なる謀反である」という批判が巻き起こった事件です。これは学問に対して、政治的な思惑で攻撃し、書籍の発禁処分や学者の追放に至った事件でした。
金森も「学問のことは政治の舞台で論じないのがよい」と発言したことにより攻撃され、昭和11年(1936)に辞職せざるをえなくなります。
戦時中は世間から離れ、敗戦へと進むわが国を見つめながら、晴耕雨読の日々を送りました。のちに金森は当時を振り返り、「人間の錯覚という問題がいかに人の世に災するものであるか」を知るには十分であったと語ります。
時は経ち、昭和20年(1945)。法制局長官は退職の際、貴族院議員になるという当時の慣習により、金森は歴史の表舞台に戻ってきます。そして昭和21年(1946)、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣となったのです。
金森が大臣としてまず行なったことは、憲法改正特別委員会での改正草案の議論でした。当時、日本は憲法改正をGHQ(連合国軍総司令部)から迫られ、マッカーサーノートを元につくられたGHQ案に基づいて国会審議が行なわれたのです。
GHQ案の日本国憲法には、金森から見て「ずいぶんおかしな条文」があり、「そのままのんだらとてもがまんができないもの」でした。日本国憲法第9条第2項の冒頭に「芦田修正」として知られる「前項の目的を達するため」という文言が挿入された修正は、委員長の芦田均が修正したといわれてきましたが、これは金森徳次郎の意見によるものだということが、後にわかっています。
この「芦田修正」によって、わが国の自衛権の保持や国際安全保障への参画が可能になったとする考え方があります。憲法9条第1項には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあり、第2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とありますが、この第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を置いたため、「侵略ではなく、自衛権の行使のためなら、陸海空軍その他の戦力の保持や交戦権は認められる」と解釈できる余地が生まれたというわけです(ただし、このような先人の苦闘にもかかわらず、現在、内閣法制局は「芦田修正説」を採用していません)。
そして、第90回帝国議会に憲法改正草案が提出されます。戦争で焼けたモーニングコートを着て「戦災大臣」と呼ばれながら、金森は憲法改正草案について帝国議会の答弁に立ちます。いくつか金森の答弁を紹介します。前述した憲法第9条については
「9条の軍備不保持は国家の安全を脅かすのではないか?」
と質問が飛びましたが、これに対し金森は
「硬い歯は折れますが、柔らかい舌は折れません。」
と応酬(おうしゅう)しています。まさに、「答弁」というより「能弁」の部類でしょう。このように金森は教養を活かした「能弁」を積み重ね、答弁を続けていきます。
自由党の北昤吉(きた・れいきち)からは
「新憲法によって国体は変わったか?」
との質問を受けます。「国体が変わる」と認めるということは、憲法改正によって日本の歴史が断絶することを認めたことになりかねません。しかし、金森はこの質問に対して、
「水は流れても川は流れません」
と応酬。「水」は新憲法、「川」は国体ということでしょうか。もはや頓知(とんち)の世界、まさかの「能弁」です。
また、東大総長の南原繁からの
「いったい主権はどこにあるのか? 天皇か? 国民か? ごまかさずにいってもらいたい」
との質問には、
「国民全体が法律に詳しいわけでもなく、共鳴もしない。一番の根本にあるのは私共の心ではあるまいか」
とこれまた「能弁」で応酬。
慶應義塾大学教授の板倉卓造は、
「国体が変更したことをハッキリ認めるべき。認めることが英断である。」
と迫りましたが、これに対しても金森は、
「天が動いていたか、地が動いていたか、議論がいずれもあるとしても動き方はいにしえより変わっておりません。国体とは天皇を憧れの中心とする国民の心の繋り(つながり)ということでございます。それを元として国家が存在していることを、国体という言葉でいっているものと思うのであります。この点につきましては絶対に我々は変わったことはない。国体不変の原則をはっきりいわざるをえないと思うのであります」
つまり、「国体」とは国民の心のつながりであり、国民の心の中にあるものだから不変だ、というのです。たしかに、現在においても天皇陛下に国民が寄り添う姿を思い浮かべると、金森の答弁は、わが国のあり方の核心を言い当てているようにも思えます。
「能弁」を重ねる金森に対し、議場では
「かにかくに 善く戦えり 金森の かの『けんぽう』は そも何流ぞ」
「金森は 二刀流なり 国体を 変えて置きながら 変わらぬという」
との和歌が書かれた紙が回され、場内がざわつきます。それを見た金森は即興で、
「名人の 刀二刀の 如く見ゆ」
と川柳で会場を収めます。
このように金森は、教養あふれる「能弁」によって、憲法改正により国体は変わっていないことをぶらさず、答弁を乗り切ることに成功しました。
憲法改正直後には、金森は「世界に誇るべきもの」「この憲法には一つも欠点がない」と述べていましたが、後になって「今となってはある程度までは自分の考えを述べていいと思う」と述べて、「日本国憲法の9条は非常に不幸な立場」などと本音を話すようになっています。
金森徳次郎は、天皇機関説論争によって公の場から追い出されながらも、憲法改正の国会答弁を乗り越えることで「国体」を守り、昭和23年(1948)に国立国会図書館の館長となりました。その史実を踏まえて、あらためて「真理がわれらを自由にする」という言葉の意味を考えると、感慨深いものがあります。
金森にとって天皇機関説論争当時は、間違いなく責任を果たせない「不自由」な日々でした。しかし戦後、憲法担当大臣となるや、教養にあふれる能弁で国を守ったわけです。金森の能弁には大臣としての責任ある「自由」への意志が込められていたのではないでしょうか。そんな金森の自由への思いが、現在の国会図書館にもつながっているのです。(八尋 滋)
金森は終戦直後の昭和21年(1946)に憲法担当大臣を務め、第90回帝国議会の新憲法草案に関する政府側の答弁1300回超を行ないました。当時、「『答弁』というより『能弁』だ」などといわれつつ奮闘した金森徳次郎。彼は、何を守ろうとしたのでしょうか。
彼の「能弁」集から、新憲法を巡る議論を見ていきましょう。
◆「天皇機関説」で辞職させられ、戦後は大臣に
金森徳次郎は明治19年(1886)、愛知県名古屋市に生まれ、東京帝国大学の英法科を卒業後、大蔵省の官僚となり、内閣の法案に目を通す法制局に入ります。
昭和9年(1934)に法制局長官となりますが、金森を悲劇が襲います。昭和10年(1935)に起きた天皇機関説事件に巻き込まれるのです。
これは、東大で憲法学を教えていた美濃部達吉が「天皇は国家の最高機関」とする学説を唱えていたのに対して、「天皇を国家の機関と位置づけるとは何事だ。国体に反する。緩慢なる謀反である」という批判が巻き起こった事件です。これは学問に対して、政治的な思惑で攻撃し、書籍の発禁処分や学者の追放に至った事件でした。
金森も「学問のことは政治の舞台で論じないのがよい」と発言したことにより攻撃され、昭和11年(1936)に辞職せざるをえなくなります。
戦時中は世間から離れ、敗戦へと進むわが国を見つめながら、晴耕雨読の日々を送りました。のちに金森は当時を振り返り、「人間の錯覚という問題がいかに人の世に災するものであるか」を知るには十分であったと語ります。
時は経ち、昭和20年(1945)。法制局長官は退職の際、貴族院議員になるという当時の慣習により、金森は歴史の表舞台に戻ってきます。そして昭和21年(1946)、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣となったのです。
金森が大臣としてまず行なったことは、憲法改正特別委員会での改正草案の議論でした。当時、日本は憲法改正をGHQ(連合国軍総司令部)から迫られ、マッカーサーノートを元につくられたGHQ案に基づいて国会審議が行なわれたのです。
GHQ案の日本国憲法には、金森から見て「ずいぶんおかしな条文」があり、「そのままのんだらとてもがまんができないもの」でした。日本国憲法第9条第2項の冒頭に「芦田修正」として知られる「前項の目的を達するため」という文言が挿入された修正は、委員長の芦田均が修正したといわれてきましたが、これは金森徳次郎の意見によるものだということが、後にわかっています。
この「芦田修正」によって、わが国の自衛権の保持や国際安全保障への参画が可能になったとする考え方があります。憲法9条第1項には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあり、第2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とありますが、この第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を置いたため、「侵略ではなく、自衛権の行使のためなら、陸海空軍その他の戦力の保持や交戦権は認められる」と解釈できる余地が生まれたというわけです(ただし、このような先人の苦闘にもかかわらず、現在、内閣法制局は「芦田修正説」を採用していません)。
◆「水は流れても、川は流れません」
そして、第90回帝国議会に憲法改正草案が提出されます。戦争で焼けたモーニングコートを着て「戦災大臣」と呼ばれながら、金森は憲法改正草案について帝国議会の答弁に立ちます。いくつか金森の答弁を紹介します。前述した憲法第9条については
「9条の軍備不保持は国家の安全を脅かすのではないか?」
と質問が飛びましたが、これに対し金森は
「硬い歯は折れますが、柔らかい舌は折れません。」
と応酬(おうしゅう)しています。まさに、「答弁」というより「能弁」の部類でしょう。このように金森は教養を活かした「能弁」を積み重ね、答弁を続けていきます。
自由党の北昤吉(きた・れいきち)からは
「新憲法によって国体は変わったか?」
との質問を受けます。「国体が変わる」と認めるということは、憲法改正によって日本の歴史が断絶することを認めたことになりかねません。しかし、金森はこの質問に対して、
「水は流れても川は流れません」
と応酬。「水」は新憲法、「川」は国体ということでしょうか。もはや頓知(とんち)の世界、まさかの「能弁」です。
また、東大総長の南原繁からの
「いったい主権はどこにあるのか? 天皇か? 国民か? ごまかさずにいってもらいたい」
との質問には、
「国民全体が法律に詳しいわけでもなく、共鳴もしない。一番の根本にあるのは私共の心ではあるまいか」
とこれまた「能弁」で応酬。
慶應義塾大学教授の板倉卓造は、
「国体が変更したことをハッキリ認めるべき。認めることが英断である。」
と迫りましたが、これに対しても金森は、
「天が動いていたか、地が動いていたか、議論がいずれもあるとしても動き方はいにしえより変わっておりません。国体とは天皇を憧れの中心とする国民の心の繋り(つながり)ということでございます。それを元として国家が存在していることを、国体という言葉でいっているものと思うのであります。この点につきましては絶対に我々は変わったことはない。国体不変の原則をはっきりいわざるをえないと思うのであります」
つまり、「国体」とは国民の心のつながりであり、国民の心の中にあるものだから不変だ、というのです。たしかに、現在においても天皇陛下に国民が寄り添う姿を思い浮かべると、金森の答弁は、わが国のあり方の核心を言い当てているようにも思えます。
◆「名人の 刀二刀の 如く見ゆ」
「能弁」を重ねる金森に対し、議場では
「かにかくに 善く戦えり 金森の かの『けんぽう』は そも何流ぞ」
「金森は 二刀流なり 国体を 変えて置きながら 変わらぬという」
との和歌が書かれた紙が回され、場内がざわつきます。それを見た金森は即興で、
「名人の 刀二刀の 如く見ゆ」
と川柳で会場を収めます。
このように金森は、教養あふれる「能弁」によって、憲法改正により国体は変わっていないことをぶらさず、答弁を乗り切ることに成功しました。
憲法改正直後には、金森は「世界に誇るべきもの」「この憲法には一つも欠点がない」と述べていましたが、後になって「今となってはある程度までは自分の考えを述べていいと思う」と述べて、「日本国憲法の9条は非常に不幸な立場」などと本音を話すようになっています。
金森徳次郎は、天皇機関説論争によって公の場から追い出されながらも、憲法改正の国会答弁を乗り越えることで「国体」を守り、昭和23年(1948)に国立国会図書館の館長となりました。その史実を踏まえて、あらためて「真理がわれらを自由にする」という言葉の意味を考えると、感慨深いものがあります。
金森にとって天皇機関説論争当時は、間違いなく責任を果たせない「不自由」な日々でした。しかし戦後、憲法担当大臣となるや、教養にあふれる能弁で国を守ったわけです。金森の能弁には大臣としての責任ある「自由」への意志が込められていたのではないでしょうか。そんな金森の自由への思いが、現在の国会図書館にもつながっているのです。(八尋 滋)