県知事・島田叡――沖縄を一つにした男の覚悟

2019.6.20
 「それでは、ほかの人間ならば死んでもいいというのか。『私は行きたくないから、誰か行けばいいじゃないか』といえるものではない」

 島田叡(しまだ・あきら)が、沖縄県知事への赴任を打診されたのは、昭和20年(1945)1月10日のことである。すでに前年7月にはサイパン島(当時は日本の委任統治領)が米軍に占領され、民間邦人に多くの犠牲者が出ていた。10月にはフィリピンでの戦いも開始。さらに10月10日には沖縄に対する大規模な空襲が行なわれていた。沖縄への侵攻は時間の問題であり、県知事就任要請を容れれば、それはすなわち命を落とすことを意味していた。

 島田が赴任を打診されたとき、「断ってもいいのだぞ」といわれたとも伝わる。だが島田は、知事の任を敢然と引き受けた。冒頭に掲げた言葉を残して……。

 そんな島田叡はどのような人物だったのだろうか。

◆絶体絶命の沖縄で全力を尽くしきる


 島田叡は、明治34年(1901)に兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)の医者の家の長男として生まれた。第三高等学校から東京帝国大学に進学。東大では野球部に所属して、外野手として大活躍している(門田隆将『敗れても敗れても』〈中央公論新社〉に詳しい)。卒業後、大正14年(1925)に内務官僚となり、己の職務を全うして各地で活躍していたが、昭和20年1月に沖縄県知事に赴任したのである。

 実は、当時の沖縄には大きな問題があった。前知事の時代、ことあるごとに知事が軍と対立し、住民の疎開にも支障を来していたのである。アメリカ軍の上陸を目前に控える絶体絶命のなか、軍官が互いに足の引っ張り合いをしている余裕など些か(いささか)もない。県民はそのことがわかっていただけに、新知事に祈るような思いで期待を寄せた。

 島田は精力的に動いた。着任早々、沖縄軍司令部の長勇(ちょう・いさむ)参謀長と面会し、軍との良好な関係を構築。さらに、平時不急の行政事務の停止を命じ、戦場即応の業務態勢に切り替えるために県庁機構の改革と職用陣容の再編成を断行した。島田は、次々と臨機応変な措置を講じていく。県民の命を守るために、沖縄の地を守るために、何をなすべきか。その想いが島田の一挙手一投足の根底にあった。

 特筆すべきは、島田が住民との交流を大切にしていた点である。積極的に農村にも立ち寄るなど、激務の合間をぬって沖縄の人びとと直に触れ合った。事前の予告なしにある寒村を訪れたときは、感激した村びとたちが泡盛などを用意して歓待した。島田はその席で何の屈託もなく、笑顔で酒を酌み交わしたという。

 島田の住民に対する親愛の情はこれにとどまらない。着任間もないころ、県内の煙草や酒の増配を税務署長と専売局長に懇請している。戦時下、そして守備軍が駐屯して以来、沖縄の人びとは陣地構築などに必死の働きを続けていた。島田からすれば、そんな彼らの労苦に少しでも報いたいと考えたのだろう。そしてその姿からは、軍官、そして住民の分け隔てなく沖縄が「一丸」となるべきと考えたようにうかがえる。

 そして島田は軍に全面協力するとともに、犠牲をできる限り少なくするために、県民の疎開、避難に全力を傾注し、沖縄県外および沖縄本島北部へ、およそ16万~22万といわれる人びとを疎開させた。もしも島田が知事でなければ、もっと多くの犠牲が出ていたかもしれない。

◆「僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ」


 アメリカ軍が慶良間諸島に上陸したのが昭和20年(1945)3月26日。そしておよそ3カ月の死闘の後、同年6月23日、沖縄南部の摩文仁の軍司令部で牛島満司令官・長勇参謀長が自決し、沖縄での組織的戦闘は終了した。

 島田の最期について詳細は知られていない。6月9日(15日という説も)に糸満市字伊敷の轟壕で、県庁と警察の解散を宣言し、部下たちには生き延びるべきことを訓示。その後、摩文仁の軍司令部に向かうが、行動を共にしたいと申し出た部下たちを叱ったという。そして牛島軍司令官が自決した後の6月26日に荒井退造・県警察部長(島田と共に県民疎開に尽力した)と2人で摩文仁の壕を出て、消息が途絶えている。現在に至るまで、遺体も発見されていない。

 次のような話も伝わる。ある新聞社の支局長が摩文仁で島田に会った折、「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られても良いのではありませんか」と語りかけた。すると島田は、「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう?」「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ」と答えたというのである。

 島田の遺徳は、戦後も語り継がれる。昭和26年(1951)6月25日には、生き残った沖縄県庁職員によって摩文仁に建立された「島守の塔」の除幕式が行なわれた。島田はじめ沖縄戦で亡くなった県職員469柱の慰霊碑である。当日は、美喜子夫人はじめ官民5000人が出席した。まさしく島田の願いどおり、沖縄が一つになった瞬間であった。

 実際、戦後の沖縄においては、誰もが島田の死を惜しんでいたという。権力者は多かれ少なかれ憎まれるのが世の常である。にもかかわらずこれほど慕われたのは、島田が誠心をもって県民一人ひとりと接していたからに他ならないだろう。

 危難の折に、人としていかに生きるべきか。いまなお多くのことを島田叡の背中が語りかけている。(池島友就)