2019.7.26
戦国九州の代表的な大名として、まずその名が挙がるのが大友義鎮(宗麟)(おおとも・よししげ/そうりん)ではないだろうか。永禄2年(1559)には豊後・肥前・肥後・豊前・筑前・筑後と、北九州6カ国の守護となり、さらに九州探題の地位を得て大友氏の全盛期を築いた人物だ。
そんな大友宗麟の躍進を支えた武将の1人が、高橋紹運(たかはし・じょううん)である。のちに朝鮮出兵の碧蹄館(へきていかん)の戦いなどでの活躍で知られる立花宗茂の実父としても知られるが、何より名高いのは、その最期、岩屋城での玉砕戦であろう。敵将をも慟哭(どうこく)させたその見事な戦いぶりは、「武士の鑑(かがみ)」として、後世にまで広く語り継がれた。会津藩の藩校「日新館」で年少者のテキストとして使われた『日新館童子訓』にも、高橋紹運のエピソードは紹介されているのである。
◆名将・立花道雪との深い結びつき
高橋紹運(たかはし・じょううん)は天文17年(1548)、大友家の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男として生まれた。永禄10年(1567)に大友氏の家臣であった高橋鑑種(たかはし・あきたね)が謀反を起こした際、父や兄とこれを鎮圧して功を挙げたことから、主君・大友義鎮(宗麟)(おおとも・よししげ/そうりん)の命により、永禄12年(1569)にそれまで高橋氏が拠点としていた岩屋城・宝満城の2つの城と、「高橋」という名跡を継ぐことになった。
以後、紹運は九州各地で戦いを繰り広げるが、そんな紹運の生涯を紹介する前に、まずは紹運とともに大友家を支えた盟友・立花道雪(たちばな・どうせつ)について触れておきたい。
立花道雪は、永正10年(1513)に、大友家の一門である戸次親家(べっき・ちかいえ)の次男として生まれている。一説に若い頃に落雷にあって下半身不随であったとされるが、37度の合戦で1度も後れをとることがなかったとされる大友家の家臣だ。甲斐の武田信玄が面会を望んだという俗説があることからも、当代随一の名将であることが窺える(うかがえる)だろう。
紹運はそんな道雪とともに大友家を盛り立てていく。大友家を離反した秋月、筑紫、龍造寺、宗像、原田らの諸豪の攻撃を耐え凌ぎ(しのぎ)つづけた。その奮戦ぶりはバテレンの耳にも達し、ルイス・フロイスが本国宛ての報告書に[紹運ハ希代ノ名将]と書き送っているほどだ。
しかし、そんな奮戦も虚しく、大友家は衰退の一途を辿っていく。永禄13年(1570)の今山合戦で龍造寺に敗北すると、天正6年(1578)には島津との耳川の戦いで大敗。主家の窮状を受けて、道雪はひとつの決断をする。
道雪には当時、嫡男(ちゃくなん)がいなかった。そこで、紹運の嫡男・統虎(むねとら。のちの宗茂〈むねしげ〉)を養子にもらい、道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と娶わせた(めあわせた)のだ。これは道雪が統虎の器に惚れ込んでのことであり、また紹運が道雪に心から信頼を寄せていたからこその判断であっただろう。さらにいえば、柱石である立花・高橋両家の結びつきが強固でなければ、大友家の先はないとの考えもあったのかもしれない。
◆「人生は朝露のごとし。武士はただ名こそ惜しくござる」
やがて龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が島津に討たれると、大友宗麟は筑後奪回を道雪・紹運に下命。結果的には、それが道雪最後の戦いとなった。天正13年(1585)、道雪は陣没。大友家の凋落(ちょうらく)ぶりはいよいよ歴然となり、代わりにいよいよ島津が台頭していく。焦る宗麟は大坂に出向いて秀吉に救援を請うが、すでに雲霞(うんか)の如き島津軍の北上は始まっていた。
このとき、筑前を守るべく島津侵攻に立ちはだかったのが、岩屋城の高橋紹運、立花山城の立花統虎、そして宝満城の高橋統増(たかはし・むねます。統虎の弟)の親子である。なかでも真っ先に島津軍を迎えた最前線が、紹運の岩屋城であった。
天正14年(1586)7月、島津軍5万の大軍が岩屋城に猛攻を開始する。対する守備兵は僅か763名にすぎない。いうまでもなく「勝ち目のない戦い」だ。このとき、統虎は戦いに先だち、実父・紹運に立花山城に合流するよう勧める。しかし、紹運はこれを断乎(だんこ)として断った。紹運の意図は、親子3人が3つの城で島津勢を手こずらせて、秀吉軍着到までの時間を稼ぐことにあったのだ。そして、その先陣をきるのは自分である、と。
かくして、岩屋城の戦いが始まる。紹運の采配は冴えに冴え、大軍の島津勢は次々と被害を出していく。この様子をみた島津軍の大将・島津忠長(しまづ・ただなが)は、紹運の武勇を惜しんで和睦(わぼく)を勧めている。しかし――。紹運は次のように応えたという。
「運衰えるによって志を変ずるは弓矢とる身の恥辱(ちじょく)。人生は朝露(あさつゆ)のごとし。武士はただ名こそ惜しくござる」
岩屋城籠城戦はじつに14日間にも及んだ。裏を返せば、紹運は、精強と謳われる(うたわれる)島津軍の猛攻を、それだけの期間防ぎきったのだ。
しかし、多勢に無勢。そんな紹運にも、いよいよ最期のときが訪れる。史料によれば、紹運は寄せ手に切り込んで17人を討ち取ったのちに、城内で切腹したという。
岩屋城の戦いでは、城兵763名が悉く(ことごとく)討死した。誰ひとりとして、絶体絶命の状況から逃げ出すことなく、紹運と命運を共にして島津軍に挑んでいったのだ。この事実からも城を統率していた紹運がいかに慕われていたかが窺える。
紹運は一通の手紙を残している。敵将に宛てたもので、それには「ひとえに義によるもの。御諒承(ごりょうしょう)いただきたい」と認めて(したためて)あったという。のちにこれを読んだ島津忠長は、「この人と友であったならば、いかでか心涼しかったろう」と泣き伏したといいう。
そして、紹運と763名の城兵の奮戦は、主家を救うこととなる。岩屋城が島津軍の進攻を食い止めているあいだに、援軍を恃んでいた豊臣軍が九州に至ったのだ。大友家はこれにより、滅亡の淵から救われることとなる。
ある史料によれば、豊臣秀吉は紹運の武勇を耳にして、「これほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいるとは思わなかった。紹運こそ乱世に咲いた華である」と語ったとも伝わる。敵将も天下人もその死を惜しむ人物――それが高橋紹運という男であった。そして、その志は息子である立花宗茂に受け継がれていくのであった。
岩屋城址には、いまも家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址(ああそうれついわやじょうし)」と刻まれた碑が建っている。(池島友就)
そんな大友宗麟の躍進を支えた武将の1人が、高橋紹運(たかはし・じょううん)である。のちに朝鮮出兵の碧蹄館(へきていかん)の戦いなどでの活躍で知られる立花宗茂の実父としても知られるが、何より名高いのは、その最期、岩屋城での玉砕戦であろう。敵将をも慟哭(どうこく)させたその見事な戦いぶりは、「武士の鑑(かがみ)」として、後世にまで広く語り継がれた。会津藩の藩校「日新館」で年少者のテキストとして使われた『日新館童子訓』にも、高橋紹運のエピソードは紹介されているのである。
◆名将・立花道雪との深い結びつき
高橋紹運(たかはし・じょううん)は天文17年(1548)、大友家の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男として生まれた。永禄10年(1567)に大友氏の家臣であった高橋鑑種(たかはし・あきたね)が謀反を起こした際、父や兄とこれを鎮圧して功を挙げたことから、主君・大友義鎮(宗麟)(おおとも・よししげ/そうりん)の命により、永禄12年(1569)にそれまで高橋氏が拠点としていた岩屋城・宝満城の2つの城と、「高橋」という名跡を継ぐことになった。
以後、紹運は九州各地で戦いを繰り広げるが、そんな紹運の生涯を紹介する前に、まずは紹運とともに大友家を支えた盟友・立花道雪(たちばな・どうせつ)について触れておきたい。
立花道雪は、永正10年(1513)に、大友家の一門である戸次親家(べっき・ちかいえ)の次男として生まれている。一説に若い頃に落雷にあって下半身不随であったとされるが、37度の合戦で1度も後れをとることがなかったとされる大友家の家臣だ。甲斐の武田信玄が面会を望んだという俗説があることからも、当代随一の名将であることが窺える(うかがえる)だろう。
紹運はそんな道雪とともに大友家を盛り立てていく。大友家を離反した秋月、筑紫、龍造寺、宗像、原田らの諸豪の攻撃を耐え凌ぎ(しのぎ)つづけた。その奮戦ぶりはバテレンの耳にも達し、ルイス・フロイスが本国宛ての報告書に[紹運ハ希代ノ名将]と書き送っているほどだ。
しかし、そんな奮戦も虚しく、大友家は衰退の一途を辿っていく。永禄13年(1570)の今山合戦で龍造寺に敗北すると、天正6年(1578)には島津との耳川の戦いで大敗。主家の窮状を受けて、道雪はひとつの決断をする。
道雪には当時、嫡男(ちゃくなん)がいなかった。そこで、紹運の嫡男・統虎(むねとら。のちの宗茂〈むねしげ〉)を養子にもらい、道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と娶わせた(めあわせた)のだ。これは道雪が統虎の器に惚れ込んでのことであり、また紹運が道雪に心から信頼を寄せていたからこその判断であっただろう。さらにいえば、柱石である立花・高橋両家の結びつきが強固でなければ、大友家の先はないとの考えもあったのかもしれない。
◆「人生は朝露のごとし。武士はただ名こそ惜しくござる」
やがて龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が島津に討たれると、大友宗麟は筑後奪回を道雪・紹運に下命。結果的には、それが道雪最後の戦いとなった。天正13年(1585)、道雪は陣没。大友家の凋落(ちょうらく)ぶりはいよいよ歴然となり、代わりにいよいよ島津が台頭していく。焦る宗麟は大坂に出向いて秀吉に救援を請うが、すでに雲霞(うんか)の如き島津軍の北上は始まっていた。
このとき、筑前を守るべく島津侵攻に立ちはだかったのが、岩屋城の高橋紹運、立花山城の立花統虎、そして宝満城の高橋統増(たかはし・むねます。統虎の弟)の親子である。なかでも真っ先に島津軍を迎えた最前線が、紹運の岩屋城であった。
天正14年(1586)7月、島津軍5万の大軍が岩屋城に猛攻を開始する。対する守備兵は僅か763名にすぎない。いうまでもなく「勝ち目のない戦い」だ。このとき、統虎は戦いに先だち、実父・紹運に立花山城に合流するよう勧める。しかし、紹運はこれを断乎(だんこ)として断った。紹運の意図は、親子3人が3つの城で島津勢を手こずらせて、秀吉軍着到までの時間を稼ぐことにあったのだ。そして、その先陣をきるのは自分である、と。
かくして、岩屋城の戦いが始まる。紹運の采配は冴えに冴え、大軍の島津勢は次々と被害を出していく。この様子をみた島津軍の大将・島津忠長(しまづ・ただなが)は、紹運の武勇を惜しんで和睦(わぼく)を勧めている。しかし――。紹運は次のように応えたという。
「運衰えるによって志を変ずるは弓矢とる身の恥辱(ちじょく)。人生は朝露(あさつゆ)のごとし。武士はただ名こそ惜しくござる」
岩屋城籠城戦はじつに14日間にも及んだ。裏を返せば、紹運は、精強と謳われる(うたわれる)島津軍の猛攻を、それだけの期間防ぎきったのだ。
しかし、多勢に無勢。そんな紹運にも、いよいよ最期のときが訪れる。史料によれば、紹運は寄せ手に切り込んで17人を討ち取ったのちに、城内で切腹したという。
岩屋城の戦いでは、城兵763名が悉く(ことごとく)討死した。誰ひとりとして、絶体絶命の状況から逃げ出すことなく、紹運と命運を共にして島津軍に挑んでいったのだ。この事実からも城を統率していた紹運がいかに慕われていたかが窺える。
紹運は一通の手紙を残している。敵将に宛てたもので、それには「ひとえに義によるもの。御諒承(ごりょうしょう)いただきたい」と認めて(したためて)あったという。のちにこれを読んだ島津忠長は、「この人と友であったならば、いかでか心涼しかったろう」と泣き伏したといいう。
そして、紹運と763名の城兵の奮戦は、主家を救うこととなる。岩屋城が島津軍の進攻を食い止めているあいだに、援軍を恃んでいた豊臣軍が九州に至ったのだ。大友家はこれにより、滅亡の淵から救われることとなる。
ある史料によれば、豊臣秀吉は紹運の武勇を耳にして、「これほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいるとは思わなかった。紹運こそ乱世に咲いた華である」と語ったとも伝わる。敵将も天下人もその死を惜しむ人物――それが高橋紹運という男であった。そして、その志は息子である立花宗茂に受け継がれていくのであった。
岩屋城址には、いまも家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址(ああそうれついわやじょうし)」と刻まれた碑が建っている。(池島友就)