「女に汚い伊藤博文、金に汚い山縣有朋、どっちも汚い井上馨」などと明治期には各々の政治家の特徴が広く知れ渡っていました。もちろん権力者たるもの、悪し様にはやし立てられることは至極当然とはいえ、山縣有朋の場合、後世に至るまでの決して良くないイメージの大部分は、彼が派閥を広げ、権力を振るいつづけたことが大きく影響しているでしょう。本稿では、山縣有朋がどのように派閥を形成し、拡大させていったかに追っていきましょう。
山縣有朋が西郷隆盛ら薩摩軍と戦い、破った明治10年(1877)の西南戦争は、日本陸軍の二つの課題を明らかにしました。陸軍参謀局の充実と、徴兵制の兵士強化です。
当初、日本の陸軍はフランス陸軍に範をとっていました。しかし、1870年~1871年(明治3年~4年)の普仏戦争でフランスがプロイセンに敗北したこともあって、日本は陸軍をプロイセン式=ドイツ式にシフトしていきます。とりわけ明治8年(1875)からドイツ公使館付武官としてドイツの軍制の調査研究に従事していた長州閥の桂太郎が明治11年(1878)に帰国すると、山縣は桂にドイツ式軍制への改革を推進させます。
日本では明治4年(1871)7月に陸軍参謀局を設置していましたが、西南戦争後の明治11年に参謀本部と改称し、陸軍省から独立させました。陸軍省が軍政(予算や部隊の維持管理など軍事行政)を司り、参謀本部が軍令(作戦、兵力の運用など)を司る形にしたのです。これもプロイセン=ドイツ式の考えを取り入れたものでした。
山縣は以後、この参謀本部の独立性もフルで活かして、政府に軍隊への介入をさせない、いわゆる「統帥権の独立」を確立していきます。
また、ドイツに軍事学の教官派遣を要請し、明治18年(1885)にドイツ陸軍大学で教官を務めていたメッケル少佐が来日します。メッケルは日本の陸軍大学校教官を3年間務め、日本陸軍にドイツ式の考え方を徹底的に教え込んでいきました。児玉源太郎や秋山好古(あきやま・よしふる)などメッケルの謦咳(けいがい)に接した軍人たちが日清戦争や日露戦争で活躍したことは、よく知られているとおりです。
ちなみにこの時期、日本陸軍内には、山縣に対抗する反主流派として鳥尾小弥太(とりお・こやた)、谷干城(たに・たてき)、曾我祐準(そが・すけのり)、三浦梧楼(みうら・ごろう)の「四将軍派」がありました。彼らは山縣が進める軍部独立的な動きや軍拡路線に反対し、国防に徹する軍隊のあり方を標榜していました。しかし、メッケルの指導によって、結果的に彼らの勢力は力を殺がれていくことになるのです。
軍の編成についていえば、明治4年(1871)から陸軍の編制単位として「鎮台」が設けられていました。明治6年(1873)に徴兵令が施行されますが、時を同じくして、鎮台は仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6鎮台制となります。しかし明治21年(1888)に「鎮台」が廃され、より規模の大きい「師団」に改組されました。師団は鎮台と比べて規模が大きく、独自での作戦行動が取りやすい単位となりました。つまり、歩兵、騎兵、砲兵などから工兵、補給部隊、医療部隊などまだ、一式がセットになったのです。
また、西南戦争の翌年(明治11年)8月、兵卒の恩賞や俸給が削減されたことへの不満から、近衛兵部隊の反乱事件である「竹橋事件」が起きましたが、これを受けて山縣有朋は同年10月に『軍人訓誡』を西周に起草させ、全将兵に印刷配布しています。この『軍人訓誡』が元となり、明治15年(1882)1月に『軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)』が下賜されることになります。
このように西南戦争後、軍のあり方が大きく変わっていきました。このなかで山縣有朋は、四将軍派などの反主流派を排除し、強力な派閥を形成し、50年にわたって実権を握りつづけました。さらには、陸軍で山縣閥であった桂太郎、寺内正穀らが首相として上り詰めるようになっていきます。
山縣有朋は、明治16年(1883)、内務卿に就任。明治23年(1890)までのほとんどの期間を勤めあげます(明治18年からは内務大臣。最後の半年は総理大臣と兼任)。山縣は、ドイツ人のアルベルト・モッセなどに委嘱(いしょく)して、ドイツ流の地方制度の導入を進めます。その結果、市町村府県郡などの制度が確立していきました。この内務省時代に山縣が重用した芳川顕正(よしかわ・あきまさ。山縣内相時代に東京府知事や内務次官を歴任)や、清浦圭吾(きようら・けいご。山縣内相の下で長らく警保局長〈警察部門を所管〉を務める)などが強力な「山縣閥」を形成していくことになります。以後、芳川顕正や清浦圭吾、また平田東助などといった山縣閥の官僚たちが、内務大臣を歴任するようになっていきます。
明治22年(1889)には、時の総理・黒田清隆が不平等条約改正問題の紛糾を受けて首相を辞任します。後任に山縣を推しますが、山縣は拒否。三条実美が臨時で内大臣兼首相を務めますが、他の閣僚が山縣を推し、明治天皇がそれを尊重したこともあり総理大臣になります(明治22年12月24日)。
折しも山縣が総理に就任して半年後の明治23年(1890)7月1日に第一回衆議院議員総選挙が行われ、同年11月29日に第1回帝国議会が開会します。山縣内閣は軍拡張を含み、地租軽減が含まれないという、反政府である民党の反対が目に見えた予算案を提出しました。帝国憲法下では、予算が執行しない場合は前年度予算を執行することになっており、政変の影響を受けない仕組みでしたが、当然、第1回帝国議会ですから前年度に議決された予算は存在しないため、施行し始めたばかりの憲法を停止させないためには、予算を通すしかありません。しかも衆議院では反政府の民党が多数派でした。
なんと、山縣有朋は議会開始前より代議士の買収を重ねてこの危機を乗り越えるのです。
予算を通した上で山縣内閣は総辞職します。伊藤博文はこのような状況を受け、政党設立を目指しますが、山縣有朋はあくまで藩閥政治を推進します。
また第1次山縣内閣では、芳川顕正(上述のとおり山縣内相時代の内務次官)が文部大臣を務め、井上毅(いのうえ・こわし)などと共に『教育勅語』の制定を進めました。
山縣は明治25年(1892)8月に、第2次伊藤内閣の司法大臣に就任します。このとき、大審院長だった児島惟謙(こじま・いけん)が、向島の待合で花札賭博をやっていたことが問題になっており、明治25年6月には懲戒裁判が起きていました(時の司法大臣・田中不二麿はこの責任を取って辞任)。この懲戒裁判自体は、証拠不十分により翌7月に免訴になりますが、世論が収まりません。
山縣が司法大臣に就任したのは、この問題を収束させるためということもあったのです。結局、山縣は関係者を依願免職で辞職させます。児島惟謙もこのとき依願免職で辞職しています。よく知られているように、児島といえば大津事件(日本を訪れていたロシア帝国のニコライ皇太子が日本人巡査に斬りつけられた事件)で松方内閣の圧力に屈せず、罪刑法定主義を守った大審院長でした。結果的に、藩閥が大津事件の報復をした形となりました。
山縣が司法大臣を務めた後、後任は芳川顕正や清浦圭吾が歴任します(彼らは司法大臣に内務大臣に……と次々登用されていきます)。かくして司法省も山縣閥の牙城となっていくのです。
このように、山縣有朋は陸軍だけでなく、内務省と司法省にも派閥を広げ、大きな権力を築き上げていきました。
派閥というと、一般的に良いイメージはありませんし、それが今の山縣のイメージを創っていますが、一面においては彼のリーダーシップや人材抜擢が、明治期日本の行政の仕組みをつくり、支えたともいえそうです。(八尋 滋)
参考文献:
『検証 検察庁の近現代史』(倉山満、光文社新書、2018年)
『明治国家をつくった人びと』(瀧井一博、講談社現代新書、2013年)
『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(伊藤之雄、文春新書、2009年)
『山県有朋と明治国家』(井上寿一、NHKブックス、2010年
◆強力な「陸軍閥」の構築
山縣有朋が西郷隆盛ら薩摩軍と戦い、破った明治10年(1877)の西南戦争は、日本陸軍の二つの課題を明らかにしました。陸軍参謀局の充実と、徴兵制の兵士強化です。
当初、日本の陸軍はフランス陸軍に範をとっていました。しかし、1870年~1871年(明治3年~4年)の普仏戦争でフランスがプロイセンに敗北したこともあって、日本は陸軍をプロイセン式=ドイツ式にシフトしていきます。とりわけ明治8年(1875)からドイツ公使館付武官としてドイツの軍制の調査研究に従事していた長州閥の桂太郎が明治11年(1878)に帰国すると、山縣は桂にドイツ式軍制への改革を推進させます。
日本では明治4年(1871)7月に陸軍参謀局を設置していましたが、西南戦争後の明治11年に参謀本部と改称し、陸軍省から独立させました。陸軍省が軍政(予算や部隊の維持管理など軍事行政)を司り、参謀本部が軍令(作戦、兵力の運用など)を司る形にしたのです。これもプロイセン=ドイツ式の考えを取り入れたものでした。
山縣は以後、この参謀本部の独立性もフルで活かして、政府に軍隊への介入をさせない、いわゆる「統帥権の独立」を確立していきます。
また、ドイツに軍事学の教官派遣を要請し、明治18年(1885)にドイツ陸軍大学で教官を務めていたメッケル少佐が来日します。メッケルは日本の陸軍大学校教官を3年間務め、日本陸軍にドイツ式の考え方を徹底的に教え込んでいきました。児玉源太郎や秋山好古(あきやま・よしふる)などメッケルの謦咳(けいがい)に接した軍人たちが日清戦争や日露戦争で活躍したことは、よく知られているとおりです。
ちなみにこの時期、日本陸軍内には、山縣に対抗する反主流派として鳥尾小弥太(とりお・こやた)、谷干城(たに・たてき)、曾我祐準(そが・すけのり)、三浦梧楼(みうら・ごろう)の「四将軍派」がありました。彼らは山縣が進める軍部独立的な動きや軍拡路線に反対し、国防に徹する軍隊のあり方を標榜していました。しかし、メッケルの指導によって、結果的に彼らの勢力は力を殺がれていくことになるのです。
軍の編成についていえば、明治4年(1871)から陸軍の編制単位として「鎮台」が設けられていました。明治6年(1873)に徴兵令が施行されますが、時を同じくして、鎮台は仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6鎮台制となります。しかし明治21年(1888)に「鎮台」が廃され、より規模の大きい「師団」に改組されました。師団は鎮台と比べて規模が大きく、独自での作戦行動が取りやすい単位となりました。つまり、歩兵、騎兵、砲兵などから工兵、補給部隊、医療部隊などまだ、一式がセットになったのです。
また、西南戦争の翌年(明治11年)8月、兵卒の恩賞や俸給が削減されたことへの不満から、近衛兵部隊の反乱事件である「竹橋事件」が起きましたが、これを受けて山縣有朋は同年10月に『軍人訓誡』を西周に起草させ、全将兵に印刷配布しています。この『軍人訓誡』が元となり、明治15年(1882)1月に『軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)』が下賜されることになります。
このように西南戦争後、軍のあり方が大きく変わっていきました。このなかで山縣有朋は、四将軍派などの反主流派を排除し、強力な派閥を形成し、50年にわたって実権を握りつづけました。さらには、陸軍で山縣閥であった桂太郎、寺内正穀らが首相として上り詰めるようになっていきます。
◆内務省時代、さらに第1次山縣内閣
山縣有朋は、明治16年(1883)、内務卿に就任。明治23年(1890)までのほとんどの期間を勤めあげます(明治18年からは内務大臣。最後の半年は総理大臣と兼任)。山縣は、ドイツ人のアルベルト・モッセなどに委嘱(いしょく)して、ドイツ流の地方制度の導入を進めます。その結果、市町村府県郡などの制度が確立していきました。この内務省時代に山縣が重用した芳川顕正(よしかわ・あきまさ。山縣内相時代に東京府知事や内務次官を歴任)や、清浦圭吾(きようら・けいご。山縣内相の下で長らく警保局長〈警察部門を所管〉を務める)などが強力な「山縣閥」を形成していくことになります。以後、芳川顕正や清浦圭吾、また平田東助などといった山縣閥の官僚たちが、内務大臣を歴任するようになっていきます。
明治22年(1889)には、時の総理・黒田清隆が不平等条約改正問題の紛糾を受けて首相を辞任します。後任に山縣を推しますが、山縣は拒否。三条実美が臨時で内大臣兼首相を務めますが、他の閣僚が山縣を推し、明治天皇がそれを尊重したこともあり総理大臣になります(明治22年12月24日)。
折しも山縣が総理に就任して半年後の明治23年(1890)7月1日に第一回衆議院議員総選挙が行われ、同年11月29日に第1回帝国議会が開会します。山縣内閣は軍拡張を含み、地租軽減が含まれないという、反政府である民党の反対が目に見えた予算案を提出しました。帝国憲法下では、予算が執行しない場合は前年度予算を執行することになっており、政変の影響を受けない仕組みでしたが、当然、第1回帝国議会ですから前年度に議決された予算は存在しないため、施行し始めたばかりの憲法を停止させないためには、予算を通すしかありません。しかも衆議院では反政府の民党が多数派でした。
なんと、山縣有朋は議会開始前より代議士の買収を重ねてこの危機を乗り越えるのです。
予算を通した上で山縣内閣は総辞職します。伊藤博文はこのような状況を受け、政党設立を目指しますが、山縣有朋はあくまで藩閥政治を推進します。
また第1次山縣内閣では、芳川顕正(上述のとおり山縣内相時代の内務次官)が文部大臣を務め、井上毅(いのうえ・こわし)などと共に『教育勅語』の制定を進めました。
◆司法省にも山縣の権力
山縣は明治25年(1892)8月に、第2次伊藤内閣の司法大臣に就任します。このとき、大審院長だった児島惟謙(こじま・いけん)が、向島の待合で花札賭博をやっていたことが問題になっており、明治25年6月には懲戒裁判が起きていました(時の司法大臣・田中不二麿はこの責任を取って辞任)。この懲戒裁判自体は、証拠不十分により翌7月に免訴になりますが、世論が収まりません。
山縣が司法大臣に就任したのは、この問題を収束させるためということもあったのです。結局、山縣は関係者を依願免職で辞職させます。児島惟謙もこのとき依願免職で辞職しています。よく知られているように、児島といえば大津事件(日本を訪れていたロシア帝国のニコライ皇太子が日本人巡査に斬りつけられた事件)で松方内閣の圧力に屈せず、罪刑法定主義を守った大審院長でした。結果的に、藩閥が大津事件の報復をした形となりました。
山縣が司法大臣を務めた後、後任は芳川顕正や清浦圭吾が歴任します(彼らは司法大臣に内務大臣に……と次々登用されていきます)。かくして司法省も山縣閥の牙城となっていくのです。
◆山縣閥とは?
このように、山縣有朋は陸軍だけでなく、内務省と司法省にも派閥を広げ、大きな権力を築き上げていきました。
派閥というと、一般的に良いイメージはありませんし、それが今の山縣のイメージを創っていますが、一面においては彼のリーダーシップや人材抜擢が、明治期日本の行政の仕組みをつくり、支えたともいえそうです。(八尋 滋)
参考文献:
『検証 検察庁の近現代史』(倉山満、光文社新書、2018年)
『明治国家をつくった人びと』(瀧井一博、講談社現代新書、2013年)
『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(伊藤之雄、文春新書、2009年)
『山県有朋と明治国家』(井上寿一、NHKブックス、2010年