【世界の君主列伝7】グスタフ・アドルフ~文武両道の「北方の獅子」

2020.8.21
 かのナポレオン・ボナパルトが一目置く英雄。古代マケドニアのアレキサンダー大王、古代カルタゴの名将ハンニバル、古代ローマの軍人・政治家のカエサル(シーザー)。彼らとともに名が挙がるのが、「北方の獅子」こと、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフです(以下、グスタフ・アドルフとのみ記す)。

 グスタフ・アドルフは自ら戦場を駆け巡った王でした。ほかのヨーロッパ諸国に先がけて徴兵制を採用し、国民兵を率いて、ヨーロッパの小国にすぎなかったスウェーデンを大国へと導きました。史上最大にして、最後の宗教戦争といわれる三十年戦争(1618年~1648年)のさなかにグスタフ・アドルフは戦場で命を落とします。37歳でした。グスタフ・アドルフの凝縮された人生をたどってみましょう。

◆17歳の若き王と名宰相オクセンシェルナ


 グスタフ・アドルフは1549年生まれです。ちょうどそのころ、日本では豊臣秀吉が天下を取り、2度の朝鮮出兵の合間に、築城した伏見城で茶会を開き、フランスでは「三アンリ戦争」を勝ち抜いて、国王となったアンリ4世が戴冠式を行っていました。

 グスタフ・アドルフは5歳のとき、九死に一生を得ます。乗った船がバルト海上で難破したからです。難を乗り越えたグスタフ・アドルフは幼いころから厳格な帝王教育を受けています。6歳で軍の行進に加わり、10歳で国務会議に出席するなど、帝王教育は座学のみならず、実践も行われていきました。

 グスタフ・アドルフの語学の才も有名です。母語以外にもドイツ語が堪能で、仏語、英語、蘭語にも不自由なかったようです。一説には11言語も話せたといわれます。外国の大臣を迎えては、相手の言語でやりとりし、使節を驚かせたというエピソードも残されているくらいです。

 15歳になると、スウェーデンの一地方の統治を任されるなど、王になる準備が着々と整っていきます。16歳で父王を亡くし、17歳で即位するものの、未だ成年に達していないグスタフ・アドルフは重臣団の後見を得て、国の統治を行いました。重臣団の1人、名宰相といわれるようになるオクセンシェルナとは、実に相性の良い組み合わせだったようです。

 2人の名コンビぶりが垣間見えるエピソードがあります。ある日の軍議において、グスタフ・アドルフが沈黙する武将たちにいらだち、「もし私という火がなかったら卿等(けいら)はみな凍ってしまったことだろう」と声を荒らげると、間髪を入れず、オクセンシェルナが「もしわれらの氷がなかったら陛下はたちまち燃えあがっておられたことでしょう」と静かに返し、グスタフ・アドルフは大笑いして軍議を続けたそうです(武田龍夫『物語 北欧の歴史』中公新書、1993年)。

 ちなみに、名宰相オクセンシェルナはグスタフ・アドルフだけでなく、アドルフの跡を継いだ娘クリスティーナ女王にも仕え、巧みな手腕を発揮することになります。

◆最強の軍隊と国際法の父グロティウス


 24歳で親政を行ったグスタフ・アドルフは率先垂範。日ごろから服さえ兵士たちと同じものを身にまとい、常に兵士たちとともにありました。

 そんなグスタフ・アドルフの名をヨーロッパ中に広く知らしめたのが、三十年戦争の第3期にあたるスウェーデン戦争(1630~1635年)です。

 当時の戦争といえば、傭兵(ようへい)を用いるのが当たり前でした。傭兵は戦うプロですが、信用なりません。文字どおり雇われて戦っているだけですから、命あってのモノダネ。わが身可愛さに、時には八百長のような戦いもあったからです。

 徴兵を組織化したといわれるナポレオンに先がけること約200年。グスタフ・アドルフは1620年に徴兵制を敷きました。毎年、15歳以上の男子の中から1万人前後の屈強な兵が選ばれ、1627年には13万5000を数える兵力になっていたといいます。それでも徴兵だけでは足りず、途中からは傭兵も用いるのですが、スウェーデン軍は国民軍を中心に当時のヨーロッパで最強の軍隊でした(菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書、2002年)。

 グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍の参戦を得て、ブライテンフェルトの戦い(1631年9月)で、プロテスタント側がカトリック側に勝利しました。三十年戦争で初めてのことです。

 続くリュッツエンの戦い(1632年11月)でも、スウェーデン軍は勝利します。しかしこのとき、グスタフ・アドルフはカトリック側に狙撃され、帰らぬ人となってしまったのです。

 教育にも力を入れ、自らが文武両道であったグスタフ・アドルフは、“国際法の父”と呼ばれるフーゴー・グロティウスの大著『戦争と平和の法』を常に傍らに置いていたというのも有名な逸話です。

 グスタフ・アドルフの遺言に従って、スウェーデン王国はグロティウスを大使として迎え、オランダ人であるグロティウスが駐仏スウェーデン大使として赴任しました。グロティウスもまた、国王グスタフ・アドルフを敬愛していたといいます。

 現在もストックホルムのオペラ座前にはグスタフ・アドルフの像があり、国王が戦死したときにまたがっていた愛馬の剥製(はくせい)が北方民族博物館に飾られています。グスタフ・アドルフは21世紀の今も語り継がれ、スウェーデン国民のあいだに絶大な人気を誇る国王なのです。(雨宮美佐)

参考文献:
菊池良生『戦うハプスブルク家』講談社現代新書、1995年
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書、2002年
倉山満 『ウェストアリア体制』PHP新書、2019年
武田龍夫『物語北欧の歴史』中公新書、1993年
武田龍夫『物語スウェーデン史』新評論、2003年