一度しか会っていない人のこと、覚えていますか? 普通は忘れてしまうと思います。けれど、一度しか会っていない人を師匠と崇め、その人との約束を約35年かけて果たした人がいます。江戸時代に『古事記』の注釈書『古事記伝』を書きあげた本居宣長です。師匠は賀茂真淵(かもの・まぶち)。2のエピソードから、このような素敵な師弟関係があるということをご紹介したいと思います。
突然ですがクイズです。
問1、「天地初發之時」を読んでください。
問2、この言葉の出典を答えてください。
正解は、問1は「あめつちのはじめのとき」、問2は『古事記』です。
しかし江戸時代中頃までの日本人は、ほとんど誰も問1と問2に答えられなかったはずです。なぜならば、この『古事記』冒頭の言葉の読み方は、江戸時代中期に本居宣長が『古事記』の注釈書『古事記伝』を書いたときに見つけ出したものだからです。ちなみに、初めの2字「天地」には、「あめくに」や「てんち」などの候補があったのですが、これらを絞り込んで「あめつち」と解読するまでに、5年以上もかかりました。冒頭の2字で5年。このような気の遠くなる作業を約35年も続けて『古事記伝』は生まれます。
その熱意はどこから湧いたのか。宣長の若い頃から振り返りましょう。宣長は医者になる修行のために京都にいた26歳のとき、『古事記』を購入します。しかし、いつか解読したいという想いを持ちながらも、すぐには解読する決意ができませんでした。あまりにも難解だからです。ただ、1つだけ手がかりがありました。『冠辞考』という和歌の枕詞の本です。この著者こそが、後に宣長の師匠となる賀茂真淵でした。
どうにかして賀茂真淵先生にお会いしたいと思っていたところ、青天の霹靂(へきれき)。宣長が地元の松阪に戻って町医者をしていると、ある人が「あの賀茂真淵先生がこの松阪の町に来ていました!」と知らせてくれました。急いで探し回る宣長。しかし、松阪の町はずれまで行っても、それらしい人とは会えませんでした。ここで宣長があきらめていたら、2人は一生会えなかったでしょう。宣長は、真淵が泊まっていた宿の亭主にお願いします。「万が一、賀茂真淵先生が再度訪れられたら、すぐに私に知らせてくださいませんか」と。すると何たる偶然か、数日後、無事にお会いすることができました。
紹介状も持たずに訪ねた宣長を、真淵はあたたかく迎えてくれました。宣長が『古事記』研究の志を打ち明けると、真淵は「私ももともとは『古事記』を研究したいと思っていたのだが、その基礎研究として『万葉集』の研究をしていたら、いつの間にか年を取ってしまった。君ならまだ若い。『古事記』の研究は君に頼んだよ」という旨のエールを送ってくれたのです。
尊敬している大先輩にこのような言葉をかけてもらい、心が熱くなったのでしょう。『古事記』研究の「決意」をする契機になりました。さらに宣長の凄いところは、このたった一夜の約束を、その後約35年間もかけて果たしたことです。なおこの「松阪(まつさか)の一夜(ひとよ)」のエピソードは、戦前は小学校の国語の教科書に載っていました。
その後、宣長は賀茂真淵の正式な弟子となり、文通にて多くの質問に答えてもらっていました。ちなみに、宣長が黒字で質問を書くと、それに赤字で答えを書いて戻してくれるシステムでした。どこかの通信教育のようですね。
さて、宣長が記した有名な言葉に、「師の説になづまざること」というのがあります。「師匠の説に執着してはいけない」という意味です。『玉勝間』という随筆集にあります。研究者として学問を発展させるには、たとえ尊敬する師匠の説であっても、疑問に思えば別の説を唱えるべきだと主張していたのです。
宣長は実際に、真淵の万葉集成立論に反対論を出して、破門されたことがあります。その後、宣長が謝罪したことで許しを得て、再び教えを乞うことができるようになりました。
高齢だった真淵は、宣長が弟子になった5年後に亡くなってしまいました。宣長は、師が亡くなってからも、約束を果たそうと『古事記』の研究を続けます。48歳のときにはこのような和歌を詠んでいます。
ますらをは はだれ霜ふり 寒きよも こころふりおこし 寝ずてふみよめ
(宣長よ。お前も男なら寒いなど泣き言を言わずに寝ないで本を読め)
このような歌で自分を叱咤激励し、懸命な努力を続けたのです。
誰よりも「情(こころ)」を重んじた宣長。彼は恐らく、「もし古事記の研究を投げ出して、自分に期待をかけてくれた師匠との約束を破ってしまったら、自分は“薄情”になる」と何度も思っていたのではないでしょうか。
そして68歳になったとき、ついに『古事記伝』の原稿、全44巻を完成させます。約35年かけての完成です。宣長は心の中で思います。「あぁ。ついに!!!」。
何か言葉にしようとすると、嘘になるような、言葉にできない想いがあふれます。それで完成翌日に書いた娘への手紙には、完成したことは一切書いていません。記録に残るかぎり、宣長の口から出た最初の喜びの言葉は、4日後の友人宛の手紙です。その友人は、賀茂真淵先生の弟子仲間でした。「あぁ、ついに真淵先生との約束を果たせました!」という旨の、喜びと安堵(あんど)の気持ちを伝えているのです。宣長はこの3年後、71歳で生涯を終えました。
1度しか会わなかった2人。しかし、会ったのは1度きりでも、2人はまぎれもなく師匠と弟子でした。人との絆は会った回数ではありません。情(こころ)のつながりこそが大事なのです。「松阪の一夜」は現在の日本人にとっても大切なことを教えてくれています。(平井仁子)
参考・引用文献:
『宣長にまねぶ』(吉田悦之、致知出版社、2017年)
『心力をつくして―本居宣長の生涯―』(吉田悦之、『宣長さん』吟詠剣詩舞道実行委員会、2013年)
「週刊日本の100人98本居宣長」(デアゴスティーニ・ジャパン、2013年)
◆教科書に載っていた「松阪の一夜」
突然ですがクイズです。
問1、「天地初發之時」を読んでください。
問2、この言葉の出典を答えてください。
正解は、問1は「あめつちのはじめのとき」、問2は『古事記』です。
しかし江戸時代中頃までの日本人は、ほとんど誰も問1と問2に答えられなかったはずです。なぜならば、この『古事記』冒頭の言葉の読み方は、江戸時代中期に本居宣長が『古事記』の注釈書『古事記伝』を書いたときに見つけ出したものだからです。ちなみに、初めの2字「天地」には、「あめくに」や「てんち」などの候補があったのですが、これらを絞り込んで「あめつち」と解読するまでに、5年以上もかかりました。冒頭の2字で5年。このような気の遠くなる作業を約35年も続けて『古事記伝』は生まれます。
その熱意はどこから湧いたのか。宣長の若い頃から振り返りましょう。宣長は医者になる修行のために京都にいた26歳のとき、『古事記』を購入します。しかし、いつか解読したいという想いを持ちながらも、すぐには解読する決意ができませんでした。あまりにも難解だからです。ただ、1つだけ手がかりがありました。『冠辞考』という和歌の枕詞の本です。この著者こそが、後に宣長の師匠となる賀茂真淵でした。
どうにかして賀茂真淵先生にお会いしたいと思っていたところ、青天の霹靂(へきれき)。宣長が地元の松阪に戻って町医者をしていると、ある人が「あの賀茂真淵先生がこの松阪の町に来ていました!」と知らせてくれました。急いで探し回る宣長。しかし、松阪の町はずれまで行っても、それらしい人とは会えませんでした。ここで宣長があきらめていたら、2人は一生会えなかったでしょう。宣長は、真淵が泊まっていた宿の亭主にお願いします。「万が一、賀茂真淵先生が再度訪れられたら、すぐに私に知らせてくださいませんか」と。すると何たる偶然か、数日後、無事にお会いすることができました。
紹介状も持たずに訪ねた宣長を、真淵はあたたかく迎えてくれました。宣長が『古事記』研究の志を打ち明けると、真淵は「私ももともとは『古事記』を研究したいと思っていたのだが、その基礎研究として『万葉集』の研究をしていたら、いつの間にか年を取ってしまった。君ならまだ若い。『古事記』の研究は君に頼んだよ」という旨のエールを送ってくれたのです。
尊敬している大先輩にこのような言葉をかけてもらい、心が熱くなったのでしょう。『古事記』研究の「決意」をする契機になりました。さらに宣長の凄いところは、このたった一夜の約束を、その後約35年間もかけて果たしたことです。なおこの「松阪(まつさか)の一夜(ひとよ)」のエピソードは、戦前は小学校の国語の教科書に載っていました。
◆破門された宣長
その後、宣長は賀茂真淵の正式な弟子となり、文通にて多くの質問に答えてもらっていました。ちなみに、宣長が黒字で質問を書くと、それに赤字で答えを書いて戻してくれるシステムでした。どこかの通信教育のようですね。
さて、宣長が記した有名な言葉に、「師の説になづまざること」というのがあります。「師匠の説に執着してはいけない」という意味です。『玉勝間』という随筆集にあります。研究者として学問を発展させるには、たとえ尊敬する師匠の説であっても、疑問に思えば別の説を唱えるべきだと主張していたのです。
宣長は実際に、真淵の万葉集成立論に反対論を出して、破門されたことがあります。その後、宣長が謝罪したことで許しを得て、再び教えを乞うことができるようになりました。
◆言葉にできない想いがあふれて
高齢だった真淵は、宣長が弟子になった5年後に亡くなってしまいました。宣長は、師が亡くなってからも、約束を果たそうと『古事記』の研究を続けます。48歳のときにはこのような和歌を詠んでいます。
ますらをは はだれ霜ふり 寒きよも こころふりおこし 寝ずてふみよめ
(宣長よ。お前も男なら寒いなど泣き言を言わずに寝ないで本を読め)
このような歌で自分を叱咤激励し、懸命な努力を続けたのです。
誰よりも「情(こころ)」を重んじた宣長。彼は恐らく、「もし古事記の研究を投げ出して、自分に期待をかけてくれた師匠との約束を破ってしまったら、自分は“薄情”になる」と何度も思っていたのではないでしょうか。
そして68歳になったとき、ついに『古事記伝』の原稿、全44巻を完成させます。約35年かけての完成です。宣長は心の中で思います。「あぁ。ついに!!!」。
何か言葉にしようとすると、嘘になるような、言葉にできない想いがあふれます。それで完成翌日に書いた娘への手紙には、完成したことは一切書いていません。記録に残るかぎり、宣長の口から出た最初の喜びの言葉は、4日後の友人宛の手紙です。その友人は、賀茂真淵先生の弟子仲間でした。「あぁ、ついに真淵先生との約束を果たせました!」という旨の、喜びと安堵(あんど)の気持ちを伝えているのです。宣長はこの3年後、71歳で生涯を終えました。
1度しか会わなかった2人。しかし、会ったのは1度きりでも、2人はまぎれもなく師匠と弟子でした。人との絆は会った回数ではありません。情(こころ)のつながりこそが大事なのです。「松阪の一夜」は現在の日本人にとっても大切なことを教えてくれています。(平井仁子)
参考・引用文献:
『宣長にまねぶ』(吉田悦之、致知出版社、2017年)
『心力をつくして―本居宣長の生涯―』(吉田悦之、『宣長さん』吟詠剣詩舞道実行委員会、2013年)
「週刊日本の100人98本居宣長」(デアゴスティーニ・ジャパン、2013年)