山縣有朋の立身出世(幕末から西南戦争まで)

2020.9.8 山縣有朋
 山縣有朋は長州藩の下層武士の家に生まれ、若き日に松下村塾に入塾したことにより藩内の尊皇攘夷人脈に位置することになり、奇兵隊に参画して軍監に上りつめ、それを足掛かりに長州征伐や戊辰戦争で奮戦。明治政府に取り立てられ帝国陸軍の枠組みを作った人物です。陸軍創設後は、陸軍卿、陸相、参謀総長などを歴任し組織の充実を図りました。山縣と同時代を生きた西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文などと比較すると、陸軍をはじめとした軍・官僚閥を形成したイメージが強く、どちらかというとネガティブな面が強調されることも多いですが、実像はどうだったのでしょうか。本稿では山縣有朋の若い頃から西南戦争までをたどってみましょう。

◆高杉晋作の挙兵に即応せず「半月後」に合流


 山縣有朋は天保9年(1838)に足軽より下に位置する蔵元附中間の倅として生まれます。父は山縣有稔(ありとし)、母は松子。後に共に行動する高杉晋作よりも1歳年上でした。母は幼いときに亡くなり、祖母に育てられますが、後年、祖母は入水自殺しています。

 山縣は宝蔵院流槍術を習得し、長州藩内では槍の達人としても知られます。安政5年(1858)10月に久坂玄瑞の紹介で、高杉や伊藤の1年後に松下村塾に入塾しますが、同年12月には吉田松陰は長州藩の野山獄に投獄されてしまいます(松陰は翌年5月に江戸に送られ、同年10月には処刑されてしまいます)。

 以後、山縣は他の松下村塾生などと行動を共にします。そして文久3年(1863)1月には吉田松陰に学び尊皇攘夷の正義をわきまえている功績によって士分に取り立てられました。

 さらに山縣の地位を固めたのは、奇兵隊の軍監に上り詰めたことでした。奇兵隊とは、文久3年6月に高杉晋作の発意によって創設された部隊で、武士以外の農工商身分からの志願者も加えられていました。山縣はこの奇兵隊で頭角を現し、第3代総督の赤禰武人(あかね・たけと)の下で軍監を務めます。

 長州藩は文久3年の「八月十八日の政変」で会津藩や薩摩藩によって京都から追い落とされ、さらに元治元年(1864)6月の池田屋事件で藩士が殺害されたことを受け、兵を京都に送りますが、同年7月には敗退(禁門の変)。朝敵となって、第一次長州征伐を受けることになります。この状況下、10月には長州藩内で幕府恭順派(俗論党)が権力を握りますが、この俗論派を打倒すべく高杉晋作は同年12月に下関の功山寺で挙兵します。

 当初、山縣は高杉晋作の決起呼びかけを拒絶しました。しかし、幕府軍や藩内情勢を見て、翌元治2年(1865)1月初頭に奇兵隊とともに高杉晋作に合流する決断を下します。かくして高杉晋作は内戦に勝利し、俗論派は打倒されます(ちなみに、第3代奇兵隊総督の赤禰武人は藩内宥和や幕府との戦争回避のために動き、スパイと疑われて処刑されています)。

 その後、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では、山縣は小倉の占領に尽力。続く戊辰戦争では北陸道鎮撫(ちんぶ)総督兼会津征討越後口総督の参謀(作戦の指揮者)となり、薩摩の黒田清隆と共に配下の各部隊を実質的に指揮します。しかしこのとき、越後戦線では長州兵と薩摩兵の対立が続き、遂には西郷隆盛(江戸開城後に薩摩に帰っていた)が新潟まで出向いて事を収める羽目になりました。

◆山城屋事件でも西郷隆盛に助けられるが……


 山縣有朋は、西郷隆盛、木戸孝允から欧州留学の許可を得て、明治2年(1869)6月から翌年8月まで、西郷隆盛の弟の西郷従道と共に欧州巡遊します。このときの経験が、後の徴兵制実施の1つの基盤となりました。しかし、山縣が留学中に、彼が率いた奇兵隊はじめ諸隊は解散を命じられ、それに反発した1800名が反乱を起こしたものの、明治3年2月に木戸孝允らによって苛烈に武力鎮圧されてしまいます(脱隊騒動)。

 留学から戻った山縣は、陸軍建設に邁進します。このとき、徴兵制実施には西郷隆盛の力が必要と考え、薩摩に戻っていた西郷を呼び戻すべく努め、成功させています。

 しかし、明治5年(1872)に「山城屋事件」が起こります。奇兵隊で山縣の部下だった商人の山城屋和助が陸軍の公金を総額65万円ほども借り入れ(その際に、長州系の高官には多額の献金がなされたとされます)、事業を拡大させましたが、山城屋の欧州での豪遊ぶりから問題が発覚したのです。このとき、日頃から山縣らを心よく思っていなかった薩摩系将校が山縣排斥に動き、同年6月、山縣は務めていた近衛都督(御親兵を改称した近衛兵の司令官)の辞表提出に追い込まれます。このとき、西郷隆盛が調停を行い、西郷隆盛が近衛都督と陸軍元帥に就任しました。

 窮地に陥った山縣は山城屋を日本に呼び戻し、強く返済を求めますが山城屋は返済できず、山城屋は明治5年11月に関係書類を焼却したうえで陸軍省を訪れ、割腹自殺を遂げてしまいます。かくして事件は迷宮入りしますが、西鄕らの尽力により、山縣は翌明治6年4月には陸軍卿代理として復帰しています(6月には陸軍卿に)。山縣は西郷隆盛に庇われ、首の皮一枚繋がったのでした。

 しかし、その西鄕隆盛が明治10年(1877)に西南戦争で担ぎ出されて挙兵すると、山縣は陸軍卿と兼任するかたちで実質的な総司令官となる「参軍」を務めることになりました(総司令官である「総督」は皇族の有栖川宮熾仁親王)。勇猛果敢な薩摩軍に対して、山縣は物量戦を展開し、徐々に圧倒していきました。鹿児島市の城山に西郷隆盛が立て籠もると、山縣は西郷隆盛に手紙を託しましたが反応はなく、総攻撃を実施。西郷は自決します。結果的に山縣は、恩人である西郷隆盛を死なせてしまったことになります。

 西南戦争後、山縣には勲一等旭日大綬章と年金740円が与えられました。ちなみに山縣の屋敷として名高い椿山荘は、山縣がこの年金を元手に明治11年(1878)に久留里藩下屋敷を購入したものです。一方、西南戦争が物量戦だったこともあって財政が逼迫し、兵卒への恩賞や俸給は削減されることとなりました。その不満から明治11年8月には近衛兵部隊の反乱事件である「竹橋事件」が起きています。

 これらのことにより、山縣有朋のイメージはどんどん悪くなって行くのです。(八尋 滋)