変節漢なのか大局観なのか?―伊藤博文、憲法制定後の活躍

 伊藤博文がその成立に大きく関わった大日本帝国憲法は、明治22年(1889)2月11日に公布されました。しかし、憲法が世に出ただけでは、国政は充実しません。憲法制定後、伊藤博文は日本をどのような国にしようとしたのでしょうか。3つの視点で見ていきましょう。

◆政党政治を確立するために奮闘する


 1つ目は、政党政治です。憲法制定まで藩閥政治のなかにいた伊藤博文ですが、憲法制定後はそこから脱し、政党政治に乗り出します。

 明治25年(1892)、伊藤は議会の政府党を基盤にして政党を結成しようとしますが、このときは明治天皇の理解が得られず失敗に終わります。明治31年(1898)の第三次内閣時にも伊藤は政党結成へと乗り出そうとしていますが、山縣有朋の反対に遭い、実を結ぶことなく終わりました。

 その後、遂に藩閥政府が倒れ、政党内閣が誕生します。それを見越して、伊藤は衆議院議員選挙法改正をしていました。目的は2つ。1つは、有権者層を従来の地主中心の構成から、産業の発展を受けて、都市部の商工業家を取り込む形へ転換していくこと。もう1つは中身のない政論家の淘汰(とうた)です。当時は愛国心を煽る観念的なナショナリズムに寄った言論が広がっていましたが、実生活に根差した経済活動や科学などの実学を伊藤は重視しました。伊藤博文は、官僚と実務家が政治に関係をもつことを理想として行動していたのです。

 衆議院を解散後、帝国ホテルに実業家を招き、新政党創設の発起人会を開催しています。このとき伊藤は渋沢栄一などの実業家・財界人と面会します。しかし、政友会に入党した実業家は伊藤の目論見(もくろみ)に反して限られていました。渋沢本人も参加を見合わせています。

 しかし伊藤は、自身の理想を実現すべく、明治33年(1900)9月に立憲政友会を創立します。初代総裁は伊藤博文です。緩やかで社会に開かれた「党でなく会」というつながりを通じ、末端から知識を吸収して自由に交換できる場をつくり、それによって国政をより充実したものにすることを目指していたのです。これがのちの自由民主党の母体となる組織です。

◆日清戦争・日露戦争での戦争指導


 2つ目の視点は、日清戦争・日露戦争の指導です。明治27年(1894)、明治天皇は大本営会議に伊藤を召し、今後、大本営会議に列席するようにとの指示を出しました。文官にも関わらず大本営に参加したのは、明治天皇からの信頼の証です。

 その後、広島に大本営を置くことになります。伊藤は、汽車の道中で弁当を食べ過ぎて具合が悪くなるなどのアクシデントを乗り越えて広島に赴き、陸奥宗光外相との講和条件の検討など様々なことを行っていきます。御前会議で日清戦争の講和条約最終案が審議された折も、陸奥が病気であったため、伊藤が中心となって作成されました。

 また日清戦争後、明治29年(1896)にロシアで挙行された皇帝ニコライ2世の戴冠式に、伊藤は首相を辞して参加しようとしました。日露戦争回避は伊藤の外交路線であり、伊藤は日露協商の道を模索しますが、桂太郎内閣は日英同盟を結びます。これに対し伊藤は、「頗る(すこぶる)早計ではないか」と不満を示しました。

 明治37年(1904)2月4日、御前会議で日露開戦が決定すると、伊藤は腹心の金子堅太郎を招き、米国へ行って米国の世論が日本に好意的になるように活動することを依頼しました。セオドア・ローズヴェルト大統領と金子は、ハーヴァード大学の同窓だったのでそれを利用しようとしたのです。ポーツマスで講和会議が開かれることが決まると、桂首相らは日本側全権として伊藤の派遣を望みましたが、結局、実現はしませんでした。

 このように伊藤は、日清戦争・日露戦争の戦争指導に尽力しました。

◆政府と軍の形を定めようとする


 3つ目の視点は、政府と軍事のパワーバランスです。朝鮮・台湾の外地獲得と陸海軍の強化により国家の統治能力が分散しつつありました。そのために明治40年(1907)に制定されたのが「公式令」と呼ばれる法令です。これは公文書や法令の公式な書式を定め、国法の体系的統一を図った法令です。これにより、すべての法律命令に総理大臣の副署が必要となり、総理大臣の統制権力が強くなることになります。

 しかし、大日本帝国憲法第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠に、軍令(軍の命令、軍事上の法令・刑罰)は内閣を経由せずに発令されていました。当時、軍令と軍政の区別は軍当局に委ねられており、恣意的に判断可能なため、総理大臣の管理・統制から独立していたのです。公式令施行後、軍から強い反発がありますが伊藤は毅然と対応します。

 しかしその後、山縣有朋は「軍令ニ関スル件」という「軍令の規定を定めた『軍令』」を出すという方法で押し切ります。つまり、「軍令」で「軍令」を定めるという、おかしな形となっています。

 結果、伊藤もこれを認め、結果として総理大臣の軍に対する統制権力を強くする目的は果たせず、政府と軍の関係は整理されず、その後の第二次世界大戦までわが国の課題となってしまいました。

◆伊藤博文が目指したもの


 今回は3つの視点から伊藤博文の憲法制定のあとの動きを見てきました。憲法の導入、政党政治の実現、戦争指導、公式令の制定を見ていくと、伊藤が理想とする国のあり方の輪郭が見えるのではないでしょうか?

 未来に課題を残すものもありましたし、事に当たった当時は伊藤の目指すところは伝わりづらく、伊藤は変節漢と呼ばれたようです。しかし、後世の視点から伊藤の政治家としての動きを見ていけば、その広い関心と、大局観がわかるはずです。(八尋 滋)

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