関ケ原決戦の勝敗を大きく左右した「前哨戦」

2020.9.15
 天下分け目の関ケ原合戦といえば、誰もが思い浮かべるのが、慶長5年(1600)9月15日の美濃・関ケ原における東西両軍の決戦ではないだろうか。そして、この戦いの行方を決したのが、西軍でありながら日和見していた武将たちの「寝返り」であったこともよく知られるところだ。しかし、勝敗を分けたのは「寝返り」だけではなかった。実はこの合戦の行方を左右する戦いが、各地で繰り広げられていたのである――。

◆もし、これらの軍勢が決戦に間に合っていたら……


 実は、東西両軍ともに、関ケ原の主戦場に動員できた軍勢は見込みを下回っていた。なぜか。それは、最終決戦に至るまでに、「前哨戦」ともいうべき籠城戦が、各地で展開されていたからだ。その勝敗によって東西の勢力は大きく変化することになった。軍勢が城攻めで釘付けにされ、肝心の決戦に参加できなかった例が、いくつもあったのである。

 有名なところでは、信州上田城での「第二次上田合戦」が挙げられる。真田昌幸・信繁(幸村)父子が籠る上田城に襲い掛かったのは、徳川秀忠軍率いる3万8000の兵だった。秀忠軍のなかには、上田城を捨て置いて関ケ原に急ぐべきと唱える者もいたが、秀忠は「徳川の宿敵」である真田を前に、耳を貸さなかったという。

 結果、上田城で散々に苦戦し、足止めを食らってしまった秀忠軍は本戦に間に合わず、合戦後の家康に大いに叱責された。もしも、3万8000の兵力がいれば、関ケ原の戦いはより東軍が優位に進めていたことだろう。

 もちろん、西軍側でも同じように、期待された戦力が本戦に参加できない事態が生じていた。有名なのは、「文人武将」として知られる細川幽斎が、息子・忠興を東軍に参加させたうえで、自身はわずか500の手勢で丹後田辺城を守り、小野木重次、前田茂勝、織田信包らが率いる西軍1万5000が釘付けにされたことだ。この1万5000の西軍兵力も、結局、決戦に間に合わなかった。

 また、京極高次も東軍側に立ち、手勢3000で大津城に籠城している。この高次の行動については、寝返りとも、当初から東軍だったのに西軍側が見落としたともいわれるが、ともあれ9月7日から西軍の毛利元康、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門らの強兵1万5000が大津城に攻めかかった。だが籠城側は善戦し、結局、開城降伏は9月15日となった。まさに関ケ原合戦の本戦当日である。結局、毛利元康、立花宗茂、小早川秀包らは決戦に参加できなかった。彼ら強豪が参加していれば、関ケ原合戦で東軍がさらに苦戦することは必至であったし、もしかすると彼らとは縁も深い小早川秀秋は東軍側に寝返る決断を下しきれなかったかもしれない……。

◆「夫婦で戦い抜いた数日間」が戦況の行方を変えた


 また興味深いのが、伊勢安濃津(いせあのつ)城での戦いである。実は、西軍の当初の戦略は畿内、伊勢、北陸を押さえたうえで、美濃の岐阜城と大垣城を確保し、東軍を迎え撃とうというものであった。この構想を、結果的に崩したのが、伊勢安濃津城主・富田信高の籠城戦だったのである。しかも面白いのは富田信高の妻も鎧を身にまとい、西軍相手に戦った点だ。

 同年7月、徳川家康による会津・上杉征討軍のなかにいた富田信高は、西軍挙兵の事態に、徳川家康から居城である安濃津城の確保を命じられる。富田の父は豊臣家の有力家臣であったが、その一方で石田三成ら五奉行と折合いが悪かった。そうした背景もあり、家康の命に迷うことなく従うこととなった。

 8月10日頃、富田は三河吉田付近で船を確保すると、大胆にも伊勢湾を横切り、西軍の大軍が展開する伊勢をめざす。その途次で西軍の九鬼水軍に捕捉されるが、「中立」を九鬼嘉隆に装って虎口を脱した。

 その頃、すでに毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らが率いる3万の西軍が居城・安濃津城に迫っていた。しかし富田の船団を見た西軍は、これを家康本隊と誤認して後退、その結果、富田は入城を果たす。

 やがて誤認に気づいた西軍は、8月19日に安濃津城を包囲。23日から猛攻を開始する。対する富田方はわずか1700の手勢。城主の信高自身、時に敵兵に包囲されかかり、窮地に陥ったという。

 このとき――。信高を救ったのが、驚くべきことに武装する妻であった。湯浅常山の『常山紀談』には、信高がこの若武者の正体を知ったのは、無事に城門を入ってからとしているが、北の方が毛利の剛勇の物頭を討ち取ったと述べ、

「此の北の方は宇喜多安心が息女なりと聞えし。容儀も世にすぐれ給ひしが、今日の振舞、彼の静・巴は昔にて見ねば知らず。いま目の前の働きのほど、見る人聞く人驚き合へり」

 と賞賛している。なお、その武勇談は『武家女鑑』や『烈婦伝』等でも喧伝され、のちに広く知られるようになった。

 その後も夫婦は戦い抜くものの、しかし衆寡敵せず、本丸に追い詰められたところへ、西軍からの降伏勧告の使者・木食応其が訪れる。信高はこれを受諾し、8月26日に開城する。西軍は「従軍すれば罰しない」と誘うものの、信高は「一度家康公に味方した以上裏切れぬ」と高野山へ向かうのであった。

 だがこの間に、清洲城の福島正則らが、西軍の岐阜城を攻め落としてしまったのである(8月23日)。これで、美濃の岐阜城と大垣城を確保して東軍を迎え撃つという西軍の当初の戦略は瓦解することになった。もし安濃津城の戦いがなければ、西軍の3万の軍勢が伊勢から北上して福島正則らの軍勢を牽制(けんせい)していたはずであり、岐阜城の命運は変わっていた可能性が高い。そうなれば、東西決戦の地は関ケ原ではなくなり、東軍と西軍の勝負の行方も変わっていたかもしれないのである。

 なお、富田信高は関ケ原合戦ののち、家康に籠城の功をもって伊予宇和島12万石を与えられた。その後、妻の実兄・坂崎出羽守と甥の争いに巻き込まれて讒訴(ざんそ)され、信高は与り知らぬことであったが、妻をかばって潔く罪を受けた。そうして奥州岩城の鳥居家に預けられ、そこで生涯を全うしたという。夫婦は最後まで、強い絆で結ばれていたのであった。(池島友就)