【世界の君主列伝9】マリア・テレジア~ハプスブルク帝国の栄光

 ヨーロッパの“貴族のなかの貴族”、ハプスブルク家。約700年続いたハプスブルク帝国で唯一の女性君主、それがマリア・テレジアです。

 マリア・テレジアは「女帝」とは呼ばれても、女帝ではありません。オーストリア女大公にして、ハンガリー、ボヘミアの女王でした。フランス革命で断頭台の露と消えたフランス王妃マリー・アントワネット(結婚前はマリー・アントーニア)の母でもありました。

 ハプスブルク家の始祖ルドルフ1世がドイツ王に選ばれてから450年余。マリア・テレジアの治世(1740-1780年)を境に、ハプスブルク帝国は斜陽となっていきます。

◆「汝幸いなるハプスブルクよ、結婚せよ、出産せよ」


 ハプスブルク家は代々、家訓「戦争は他の者にさせよ。汝幸いなるハプスブルクよ、結婚せよ、出産せよ」を実行し、領土を広げ、繁栄の一途をたどってきました。

 しかし、神聖ローマ皇帝カール6世(マリア・テレジアの父)のときに、ハプスブルク家は男系継承者が1人もいない事態に直面します。1716年、カール6世夫妻に待望の長男が誕生するも、わずか半年の命でした。

 翌1717年、夫妻に今度は丈夫で健康な長女が生まれます。マリア・テレジアと名づけられ、帝王学などとは無縁に、1王女として育てられました。その後もカール6世夫妻に生まれたのは女児ばかり。いよいよ、カール6世は家督(かとく)をマリア・テレジアに譲ることを考えはじめざるをえない状況になります。

 1736年、難航した婿(むこ)選びもやっと決まり、マリア・テレジアはフランスに隣接するロートリンゲン(フランス語ではロレーヌ)公子フランツ・シュテファンと結婚します。ちなみに、マリア・テレジアの終生の敵となるプロイセン王子フリードリヒ2世も婿候補の1人として名前が挙げられていました。

 結婚の翌年、第1子が生まれます。マリア・テレジアは20年間に11女5男、計16人の子供を出産します。のち、フランス王妃になるマリー・アントワネットは女の子の最後、マリア・テレジアが38歳で産んだ15番目の子供です。

◆プロイセン王フリードリヒ2世との戦い


 1740年、父カール6世が急死し、マリア・テレジアが23歳で即位するやいなや、プロイセン王フリードリヒ2世がハプスブルク帝国領シュレージエンに侵入。世にいう、オーストリア継承戦争の勃発です。鉱工業が盛んで、地下資源豊かな都市シュレージエンの奪還を目指し、マリア・テレジアの戦いが始まりました。

 戦いの続くなか、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが、フランツ1世として神聖ローマ皇帝に就きます。

 1748年、アーヘンの和約でマリア・テレジアの家督継承権が認められ、オーストリア継承戦争は一段落します。が、シュレージエンはそのまま。プロイセンに割譲された形になりました。しかし、マリア・テレジアはシュレージエンをあきらめたわけではありません。強力な軍事力をつけるべく軍隊を新設し、あくまでもシュレージエンを取り返すつもりです。

 そのために、300年の長きにわたって犬猿の仲だったフランスと同盟を結び、さらにロシアも加えた「外交革命」と呼ばれる同盟で、プロイセン包囲網を作り上げました。1756年5月のことでした。同年8月、この形勢を打破しようとフリードリヒ2世がザクセンに侵入します。

 こうして始まった戦争は1763年に終結しました。「7年戦争」と呼ばれるゆえんです。結局、マリア・テレジアはシュレージエンこそ奪還できなかったものの、長男ヨーゼフ大公を神聖ローマ皇帝に選出する約束をフリードリヒ2世から取りつけることには成功しました。

◆マリア・テレジアの没後十数年で……


 マリア・テレジアは身重のときも戦争に臨み、夫と息子を神聖ローマ皇帝に就け、種々の改革にも取り組みました。その1つが教育です。

 ハプスブルク帝国内では当時、教育がいきわたらず、文盲が多かったといいます。生産力を上げて国力をつけるには、国民の教養を高める必要があるとの考えから、帝国の各地域にあまねく小学校を新設します。そして、各地域の言語による教育が行われるようになりました。

 このときのマリア・テレジアは、多言語の教育を認めたことが、のち、実質最後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代(在位1848年~1916年)に軍隊の弱さの一因になるなどとは思ってもいなかったでしょう。

 世界遺産にも登録されている、オーストリアのシェーンブルン宮殿の今につながる大規模な改造工事を行ったのもマリア・テレジアでした。それまで父カール6世が暮らしていた宮殿の暗さを嫌ったのが理由だったようです。工事はオーストリア継承戦争の真っ最中に行われています。

 シェーンブルン宮殿にまつわる有名なエピソードを1つ。6歳のモーツアルトがマリア・テレジアの前での演奏を終えた際、立ち上がろうとして転んでしまいます。モーツアルトを抱き起してくれたのが、末娘のマリー・アントワネット。そのとき、モーツアルトはすかさず「僕のお嫁さんになって」(映画『アマデウス』1984年の字幕より)とプロポーズしたとか。

 しかし、末娘マリー・アントワネットとフランス王太子ルイとの結婚は、マリー・アントワネットがまだ生まれて間もないときにすでに決められていました。1780年、マリア・テレジアは63歳でこの世を去ります。1793年のマリー・アントワネットの悲劇的な最期を知ることなく、この世を去ったのはせめてもの救いだったかもしれません。(雨宮美佐)

参考文献:
江村洋『マリア・テレジアとその時代』東京書籍、1992年
倉山満『真・戦争論 世界大戦と危険な半島』KKベストセラーズ、2015年
小宮正安『ハプスブルク家の宮殿』講談社現代新書、2004年
新人物往来社編『ハプスブルク帝国』新人物往来社、2010年