日本でヒトラーのナチスドイツと同盟を結ぼうという声が高まったとき、名外交官・石井菊次郎が、同盟を結ぶなら、相手となる国の国民性を歴史に照らし合わせ、よく知ったうえで熟慮が絶対必要だと説き、「フレデリック二世以来、古の普魯西(プロシヤ)今の独逸(ドイツ)は時に臨んで国際約束を軽視し無視せる事例を有して居る」と指摘しました(石井菊次郎「日独同盟?」昭和10年11月14日手記、『外交随想』鹿島平和研究所出版、1967年所収)
不名誉な事例の代表として名指しされた「フレデリック2世」とは、歴史の教科書などでは「フリードリヒ大王」と表記される、プロイセン王フリードリヒ2世の英語読みです。もちろん、わざと皮肉を込めた呼び方です(倉山満『嘘だらけの日独近現代史』扶桑社新書、2018年)。果たしてフリードリヒ2世とは、いかなる君主だったのでしょうか。
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が生まれた1712年時点でのホーエンツォレルン家は、「プロイセンのなかの王」でした。実はプロイセンは1701年まで「公国」でした。その当主は「王」ではなく「公」です。しかしフリードリヒ2世の祖父フリードリヒ1世が「王」の称号を渇望し、スペイン継承戦争(1701~1714年)でハプスブルク家に味方することを約束したり、各国に賄賂攻勢を行ったりして、1701年に「プロイセンのなかの王」という称号を手に入れたのです。
「プロイセン国王(König von Preußen)」ではなく、あくまで「プロイセンのなかの王(König in Preußen)」です。いってみれば、プロイセンの地でのみ王と名乗るのを許されているにすぎないようなものでした。
フリードリヒ2世の父は「軍人王」とあだ名され、その度を越した倹約ぶりで「乞食王」とも呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。母はハノーファー選帝侯ゲオルグ1世の娘ゾフィー・ドロテアです。
父が「乞食王」だったのは、その父フリードリヒ1世が、国王になるために無理をしたり放漫な財政を行ったりして、プロイセンが破産寸前になっていたからでした。ちなみに、フリードリヒ大王の母方の祖父ハノーファー選帝侯ゲオルグ1世は、大王が生まれたのちにイギリス王ジョージ1世となった人物です。
ホーエンツォレルン家における親子代々の不和はよく知られるところです。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世がその父フリードリヒ1世(フリードリヒ大王の祖父)と不仲だったのと同様に、フリードリヒ大王も父とうまくいきません。父王は持病の痛みから不機嫌になることも多く、フリードリヒ大王ら子供たちに暴力をふるうのもしょっちゅうだったといいます。
父王の暴力に耐えかねたフリードリヒ大王は逃亡計画を立てました。王太子時代18歳の夏(1730年)の出来事です。
ところが、逃亡計画が漏れ、あわやフリードリヒ大王は父の手によって殺されかけます。父王の怒りの矛先はフリードリヒ大王の側近に向けられ、その1人、カッテ少尉が処刑されました。フリードリヒ大王は処刑されるカッテ少尉の姿を強制的に見せられ、その場で気を失ってしまう体たらくです。
そんな事件を起こしてから10年後の1740年、フリードリヒ2世が即位します。前後して、オーストリア、ハプスブルク家のマリア・テレジアがハンガリー女王、オーストリア女大公に即位しました。2人が同じ年に即位したのも因縁を感じさせます。
若きフリードリヒ大王は、マリア・テレジアの結婚相手として名が挙がったこともありました。先述した逃亡未遂事件のときには、マリア・テレジアの父であるカール6世に命を救われています。カール6世が、今にもフリードリヒ大王を処刑しようとする父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世をいさめたのです。
フリードリヒ大王が、ハプスブルク帝国領内でも有数の豊かな土地シュレージエンに侵攻したのはカール6世が亡くなった2カ月後、1740年12月のことでした。マリア・テレジアはシュレージエンをあの手この手で取り戻そうとしますが、結局はプロイセンのものになります。
生前、嗣子がいなかったカール6世はなんとしてでも、娘のマリア・テレジアにハプスブルク帝国を継がせようとし、領土を一部割譲さえして、周囲の国の承認を得ました。しかし、諸国は相変わらず、ウの目タカの目でハプスブルク帝国を狙っています。カール6世が死去するやいなや、その先陣を切るかのように襲い掛かってきたのが、フリードリヒ大王だったのです。カール6世の死去に際して弔慰の手紙を送って寄越した、ただ1人の君主だったというのに。まさに「国際約束の軽視、無視」です。
フリードリヒ大王は自著『ヨーロッパ正解の現状についての考察』のなかで、「野心と名誉欲が悪徳だということを君主は忘れてはならない」と記し、「正当な権利なしに他国を征服するのは不正義であり、罰せられるべき蛮行である」と結論づけたのは、シュレージエンに侵攻するたった2年前、1738年なのですから驚きです(飯塚信雄『フリードリヒ大王』中公新書、1993年)。
それ以前にも『アンティ・マキャベリ』を記し、俗に「権謀術数の権化」のようにいわれる、ニコロ・マキャベリの著作『君主論』をこれでもかと批判しますが、フリードリヒ大王の言行不一致、自己矛盾はそこでもうかがえます。
その後、フリードリヒ大王は44歳で3人の女性、マリア・テレジア、ポンパドゥール夫人(フランス・ブルボン朝ルイ15世の愛妾)、エリザヴェータ女帝(ロシア皇帝。ピョートル大帝の娘)を敵に回す羽目に陥ります。オーストリア、フランス、ロシアが組んだ、別名「スカート同盟」とも呼ばれる三大国を相手に戦いました。7年戦争(1756~1763年)です。フリードリヒ大王はこれまでと思われた状況からなんとか生き残り、シュレージエンをプロイセン領として認めさせました。
フリードリヒ大王は1772年、齢(よわい)60にして、第1次ポーランド分割で西プロイセンを併合し、「プロイセン王」となります。「プロイセンのなかの王」ではなく、正真正銘の「王」となったのでした。いわば祖父フリードリヒ1世の悲願を完全に達成したわけです。ちなみに、プロイセンが普墺戦争や普仏戦争などに勝利してドイツ帝国を建設し、ホーエンツォレルン家の国王(ヴィルヘルム1世)が「ドイツ皇帝」の座に就くのは、それからほぼ100年後の1871年のことです。(雨宮美佐)
参考文献:
飯塚信雄『フリードリヒ大王』中公新書、1993年
倉山満『嘘だらけの日独近現代史』扶桑社新書、2018年
江村洋『マリア・テレジアとその時代』東京書籍、1992年
不名誉な事例の代表として名指しされた「フレデリック2世」とは、歴史の教科書などでは「フリードリヒ大王」と表記される、プロイセン王フリードリヒ2世の英語読みです。もちろん、わざと皮肉を込めた呼び方です(倉山満『嘘だらけの日独近現代史』扶桑社新書、2018年)。果たしてフリードリヒ2世とは、いかなる君主だったのでしょうか。
◆「プロイセンのなかの王」の国に生まれて
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が生まれた1712年時点でのホーエンツォレルン家は、「プロイセンのなかの王」でした。実はプロイセンは1701年まで「公国」でした。その当主は「王」ではなく「公」です。しかしフリードリヒ2世の祖父フリードリヒ1世が「王」の称号を渇望し、スペイン継承戦争(1701~1714年)でハプスブルク家に味方することを約束したり、各国に賄賂攻勢を行ったりして、1701年に「プロイセンのなかの王」という称号を手に入れたのです。
「プロイセン国王(König von Preußen)」ではなく、あくまで「プロイセンのなかの王(König in Preußen)」です。いってみれば、プロイセンの地でのみ王と名乗るのを許されているにすぎないようなものでした。
フリードリヒ2世の父は「軍人王」とあだ名され、その度を越した倹約ぶりで「乞食王」とも呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。母はハノーファー選帝侯ゲオルグ1世の娘ゾフィー・ドロテアです。
父が「乞食王」だったのは、その父フリードリヒ1世が、国王になるために無理をしたり放漫な財政を行ったりして、プロイセンが破産寸前になっていたからでした。ちなみに、フリードリヒ大王の母方の祖父ハノーファー選帝侯ゲオルグ1世は、大王が生まれたのちにイギリス王ジョージ1世となった人物です。
ホーエンツォレルン家における親子代々の不和はよく知られるところです。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世がその父フリードリヒ1世(フリードリヒ大王の祖父)と不仲だったのと同様に、フリードリヒ大王も父とうまくいきません。父王は持病の痛みから不機嫌になることも多く、フリードリヒ大王ら子供たちに暴力をふるうのもしょっちゅうだったといいます。
父王の暴力に耐えかねたフリードリヒ大王は逃亡計画を立てました。王太子時代18歳の夏(1730年)の出来事です。
ところが、逃亡計画が漏れ、あわやフリードリヒ大王は父の手によって殺されかけます。父王の怒りの矛先はフリードリヒ大王の側近に向けられ、その1人、カッテ少尉が処刑されました。フリードリヒ大王は処刑されるカッテ少尉の姿を強制的に見せられ、その場で気を失ってしまう体たらくです。
そんな事件を起こしてから10年後の1740年、フリードリヒ2世が即位します。前後して、オーストリア、ハプスブルク家のマリア・テレジアがハンガリー女王、オーストリア女大公に即位しました。2人が同じ年に即位したのも因縁を感じさせます。
若きフリードリヒ大王は、マリア・テレジアの結婚相手として名が挙がったこともありました。先述した逃亡未遂事件のときには、マリア・テレジアの父であるカール6世に命を救われています。カール6世が、今にもフリードリヒ大王を処刑しようとする父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世をいさめたのです。
◆女性3人の「スカート同盟」にもなんとか勝ち抜き
フリードリヒ大王が、ハプスブルク帝国領内でも有数の豊かな土地シュレージエンに侵攻したのはカール6世が亡くなった2カ月後、1740年12月のことでした。マリア・テレジアはシュレージエンをあの手この手で取り戻そうとしますが、結局はプロイセンのものになります。
生前、嗣子がいなかったカール6世はなんとしてでも、娘のマリア・テレジアにハプスブルク帝国を継がせようとし、領土を一部割譲さえして、周囲の国の承認を得ました。しかし、諸国は相変わらず、ウの目タカの目でハプスブルク帝国を狙っています。カール6世が死去するやいなや、その先陣を切るかのように襲い掛かってきたのが、フリードリヒ大王だったのです。カール6世の死去に際して弔慰の手紙を送って寄越した、ただ1人の君主だったというのに。まさに「国際約束の軽視、無視」です。
フリードリヒ大王は自著『ヨーロッパ正解の現状についての考察』のなかで、「野心と名誉欲が悪徳だということを君主は忘れてはならない」と記し、「正当な権利なしに他国を征服するのは不正義であり、罰せられるべき蛮行である」と結論づけたのは、シュレージエンに侵攻するたった2年前、1738年なのですから驚きです(飯塚信雄『フリードリヒ大王』中公新書、1993年)。
それ以前にも『アンティ・マキャベリ』を記し、俗に「権謀術数の権化」のようにいわれる、ニコロ・マキャベリの著作『君主論』をこれでもかと批判しますが、フリードリヒ大王の言行不一致、自己矛盾はそこでもうかがえます。
その後、フリードリヒ大王は44歳で3人の女性、マリア・テレジア、ポンパドゥール夫人(フランス・ブルボン朝ルイ15世の愛妾)、エリザヴェータ女帝(ロシア皇帝。ピョートル大帝の娘)を敵に回す羽目に陥ります。オーストリア、フランス、ロシアが組んだ、別名「スカート同盟」とも呼ばれる三大国を相手に戦いました。7年戦争(1756~1763年)です。フリードリヒ大王はこれまでと思われた状況からなんとか生き残り、シュレージエンをプロイセン領として認めさせました。
フリードリヒ大王は1772年、齢(よわい)60にして、第1次ポーランド分割で西プロイセンを併合し、「プロイセン王」となります。「プロイセンのなかの王」ではなく、正真正銘の「王」となったのでした。いわば祖父フリードリヒ1世の悲願を完全に達成したわけです。ちなみに、プロイセンが普墺戦争や普仏戦争などに勝利してドイツ帝国を建設し、ホーエンツォレルン家の国王(ヴィルヘルム1世)が「ドイツ皇帝」の座に就くのは、それからほぼ100年後の1871年のことです。(雨宮美佐)
参考文献:
飯塚信雄『フリードリヒ大王』中公新書、1993年
倉山満『嘘だらけの日独近現代史』扶桑社新書、2018年
江村洋『マリア・テレジアとその時代』東京書籍、1992年