2020.9.29
「その働きは、わずか1人で20万人にも匹敵する」。日露戦争において、ドイツ皇帝がそう感嘆する活躍を見せた男がいた。司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』にも登場する、日本陸軍の明石元二郎(あかし・もとじろう)である。
当時、日本が超大国・ロシアを打ち破ったことに世界中が驚いたが、一般的に語られるのは、海軍の東郷平八郎や、陸軍の大山巌(おおやま・いわお)の活躍であろう。しかし、外国の歴史家・ウォーナーは「東郷や大山はロシアの艦隊や地上軍を撃破したが、明石はロシアの心臓部に直接攻撃を加えた」と語る。
明石は万治元年(1864)、福岡藩士の次男として生まれたが、青年時代から良くも悪くも目立つ存在であった。陸大ではフランス語がトップで、製図や絵画においても優れた才能を発揮。その一方で自分の身なりを一切気にせず、友人たちに驚くような悪戯(いたずら)をいつも仕掛けていたという。
そんなわが道を歩んだように見える明石だが、彼は自然と周りを惹きつける不思議な男であった。なかでも明石に信頼を寄せたのが、陸軍参謀本部の父と呼ばれた川上操六(かわかみ・そうろく)である。
日清戦争後、川上は明石にさまざまな経験を積ませ、情報将校として成長させるため、仏領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオスなど)や米西戦争時のフィリピンに派遣。川上は明石を誰よりも評価しており、明石はそのような環境下で「インテリジェンス」を学ぶ。
そしてもうひとり、明石の才能をかったのが児玉源太郎であった。児玉は日露戦争に際して、後方での反帝政勢力の煽動を明石に託した。日本を離れての諜報活動はまさに命がけの任務であったが、明石は「命を惜しむな、恥を惜しめ」という母からの教えを胸に危地に飛び込んでいく。
「諜報」や「スパイ」というと、相手をだまして情報をかすめ取るダーティなイメージで語られがちだ。しかし、後の陸軍中野学校が「謀略は『誠』なり」の精神を教育の根本としたように、実は相手から情報を得る際に何よりも大切なのは、相手の信頼を勝ち取ることなのである。
その点、明石元二郎は「謀略は『誠』なり」を地でいく人間だったといえる。だからこそ、ロシア転覆という奇跡的な工作を成し遂げることができたのだ。
日露開戦以降の明石のヨーロッパでの動きを見ると、実にさまざまな人間と会い、言葉を交わしていたことが分かる。
明石は反ロシアの民族運動の指導者の心を掴み、糾合(きゅうごう)させるだけの人間力とコミュニケーション能力の持ち主であった。さらに、イギリス大使の林董(はやし・ただす)とも連携をとっており、英国の協力も取り付けていた可能性があると近年では指摘されている。明石がいかに、広範な人脈と、幅広い視野を持っていたかがうかがえる。そしてそのような活躍の前提に、ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語を操る語学力があったことはいうまでもない。
明石はさまざまな情報に触れることで、超大国である帝政ロシアの内部では腐敗した専制に苦しむ農奴や労働者らの不満が頂点に達し、革命前夜のごとき状況にあることを正確に把握していた。自著『落花流水』では、次のように帝政ロシアの歴史や社会を多角的に分析している。
「政府の腐敗は著しいものがあり、国家主義は揺らいでいる。(中略)ポーランド、フィンランド、コーカサス、バルト海沿岸の被支配地域の国民はもちろん、ロシア人の個人たちもそれぞれが誰かを敵視し、争いが絶えない。官吏による厳しい税金の取り立てとその腐敗ぶりは、世の中によく知れ渡っている。(中略)社会主義がロシアの国土を覆うのは時間の問題。(中略)このまま抑圧主義を続ければ、いつしか崩壊を招くのは必至」
明石があまりにも過酷なロシアの専制政治に人間として怒りを覚え、正義感に燃えていたことがうかがえる。
そんな明石のロシア分析を最も助けたのは、攪乱(かくらん)工作の最大の同志となったフィンランド過激反抗党の党首にして指導者コンニ・シリヤクスだった。明石とシリヤクスは互いに影響を与え合い、「抱き合うほどの仲」(『坂の上の雲』)となって協力関係を築いたと考えられている。
そんなシリヤクスのほかにも、明石はグルジア社会連邦革命党のゲオルギー・デカノゾフやポーランドの民族独立運動の指導者の知遇を得て同志になった。そして、彼らを通じて情報収集のためのエージェント紹介を受け、ロシア国内のみならずパリやロンドン、ジュネーブ、ベルリン、ロッテルダムと広範な諜報ネットワークを開いた。
明石はネットワークを駆使して、フィンランド革命党などと連携のうえ、ロシアの後方攪乱という任務を見事に全うし、最終的にはロシアをひっくり返すのである。
明石は私心なく、あくまで祖国のために動いていた。後方攪乱の工作において、多額の機密費を無駄に使わず、戦後、使用した費用の明細を添えて残金を国に返却していることからも、その性格と流儀がうかがえるだろう。
いかに相手の信頼を得て、懐に飛び込めるか。それがスパイにとって肝要であることが、明石の活躍から見えてくる。事実、明石流の諜報の極意「謀略は誠なり」は、陸軍中野学校の精神として受け継がれていくのである。(池島友就)
当時、日本が超大国・ロシアを打ち破ったことに世界中が驚いたが、一般的に語られるのは、海軍の東郷平八郎や、陸軍の大山巌(おおやま・いわお)の活躍であろう。しかし、外国の歴史家・ウォーナーは「東郷や大山はロシアの艦隊や地上軍を撃破したが、明石はロシアの心臓部に直接攻撃を加えた」と語る。
◆自然と周りの人びとを惹きつける不思議な男
明石は万治元年(1864)、福岡藩士の次男として生まれたが、青年時代から良くも悪くも目立つ存在であった。陸大ではフランス語がトップで、製図や絵画においても優れた才能を発揮。その一方で自分の身なりを一切気にせず、友人たちに驚くような悪戯(いたずら)をいつも仕掛けていたという。
そんなわが道を歩んだように見える明石だが、彼は自然と周りを惹きつける不思議な男であった。なかでも明石に信頼を寄せたのが、陸軍参謀本部の父と呼ばれた川上操六(かわかみ・そうろく)である。
日清戦争後、川上は明石にさまざまな経験を積ませ、情報将校として成長させるため、仏領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオスなど)や米西戦争時のフィリピンに派遣。川上は明石を誰よりも評価しており、明石はそのような環境下で「インテリジェンス」を学ぶ。
そしてもうひとり、明石の才能をかったのが児玉源太郎であった。児玉は日露戦争に際して、後方での反帝政勢力の煽動を明石に託した。日本を離れての諜報活動はまさに命がけの任務であったが、明石は「命を惜しむな、恥を惜しめ」という母からの教えを胸に危地に飛び込んでいく。
「諜報」や「スパイ」というと、相手をだまして情報をかすめ取るダーティなイメージで語られがちだ。しかし、後の陸軍中野学校が「謀略は『誠』なり」の精神を教育の根本としたように、実は相手から情報を得る際に何よりも大切なのは、相手の信頼を勝ち取ることなのである。
その点、明石元二郎は「謀略は『誠』なり」を地でいく人間だったといえる。だからこそ、ロシア転覆という奇跡的な工作を成し遂げることができたのだ。
◆帝政ロシアの後方攪乱を成功させた正義感と無私の心
日露開戦以降の明石のヨーロッパでの動きを見ると、実にさまざまな人間と会い、言葉を交わしていたことが分かる。
明石は反ロシアの民族運動の指導者の心を掴み、糾合(きゅうごう)させるだけの人間力とコミュニケーション能力の持ち主であった。さらに、イギリス大使の林董(はやし・ただす)とも連携をとっており、英国の協力も取り付けていた可能性があると近年では指摘されている。明石がいかに、広範な人脈と、幅広い視野を持っていたかがうかがえる。そしてそのような活躍の前提に、ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語を操る語学力があったことはいうまでもない。
明石はさまざまな情報に触れることで、超大国である帝政ロシアの内部では腐敗した専制に苦しむ農奴や労働者らの不満が頂点に達し、革命前夜のごとき状況にあることを正確に把握していた。自著『落花流水』では、次のように帝政ロシアの歴史や社会を多角的に分析している。
「政府の腐敗は著しいものがあり、国家主義は揺らいでいる。(中略)ポーランド、フィンランド、コーカサス、バルト海沿岸の被支配地域の国民はもちろん、ロシア人の個人たちもそれぞれが誰かを敵視し、争いが絶えない。官吏による厳しい税金の取り立てとその腐敗ぶりは、世の中によく知れ渡っている。(中略)社会主義がロシアの国土を覆うのは時間の問題。(中略)このまま抑圧主義を続ければ、いつしか崩壊を招くのは必至」
明石があまりにも過酷なロシアの専制政治に人間として怒りを覚え、正義感に燃えていたことがうかがえる。
そんな明石のロシア分析を最も助けたのは、攪乱(かくらん)工作の最大の同志となったフィンランド過激反抗党の党首にして指導者コンニ・シリヤクスだった。明石とシリヤクスは互いに影響を与え合い、「抱き合うほどの仲」(『坂の上の雲』)となって協力関係を築いたと考えられている。
そんなシリヤクスのほかにも、明石はグルジア社会連邦革命党のゲオルギー・デカノゾフやポーランドの民族独立運動の指導者の知遇を得て同志になった。そして、彼らを通じて情報収集のためのエージェント紹介を受け、ロシア国内のみならずパリやロンドン、ジュネーブ、ベルリン、ロッテルダムと広範な諜報ネットワークを開いた。
明石はネットワークを駆使して、フィンランド革命党などと連携のうえ、ロシアの後方攪乱という任務を見事に全うし、最終的にはロシアをひっくり返すのである。
明石は私心なく、あくまで祖国のために動いていた。後方攪乱の工作において、多額の機密費を無駄に使わず、戦後、使用した費用の明細を添えて残金を国に返却していることからも、その性格と流儀がうかがえるだろう。
いかに相手の信頼を得て、懐に飛び込めるか。それがスパイにとって肝要であることが、明石の活躍から見えてくる。事実、明石流の諜報の極意「謀略は誠なり」は、陸軍中野学校の精神として受け継がれていくのである。(池島友就)