【世界の君主列伝4】フランツ・ヨーゼフ~ハプスブルク家の黄昏と苦悩

2020.10.16 第1次世界大戦
 働けば働くほどに押し寄せる不幸と災難……。身もフタもない、この表現どおりの一生だったのがフランツ・ヨーゼフという、ハプスブルク、オーストリア帝国実質最後の皇帝です。“勤勉”で知れ渡った皇帝フランツ・ヨーゼフは、朝から晩まで仕事をしても報われません。帝国はジリ貧に追い込まれ、愛する者を次々と亡くします。

 弟、息子、愛妻、後継者の甥夫婦。フランツ・ヨーゼフが失った人たちです。あまりにも悲劇的な死ばかりでした。そして、自身が死して2年後には、国をもなくしてしまいます。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの不幸の一端を紹介します。

●ヨーロッパ全土を席巻する「革命の嵐」のなかで


 フランツ・ヨーゼフは1830年、ヨーロッパの名門中の名門、ハプスブルク家に生まれました。会う人会う人、すべてを魅了する可愛い子供だったといいます。その可愛さは“ホイップクリームをのせたストロベリー・アイスクリーム”と表現されるくらいだったとか。

 しかし、フランツ・ヨーゼフの子供時代はアイスクリームのように甘くはありませんでした。皇帝になるのが運命づけられていたからです。10歳のころから1週間に学ぶべき教科が、なんと37科目。語学に至っては最低必修言語が5つです。母語のドイツ語はもちろん、あとはフランス語、ハンガリー語、チェコ語、イタリア語です。なにしろ、オーストリア帝国は今のオーストリアを中心に、チェコ、スロバキア、ハンガリー、北イタリア、クロアチアやルーマニアの一部にまで広がる多民族・多言語国家だったからです。

 1848年、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が出版されたのと前後して、ヨーロッパ全土で“革命”が起き、大動乱となります。オーストリア帝国も例外ではありませんでした。同年末、フランツ・ヨーゼフは18歳で皇帝に即位し、帝国内のマジャール(ハンガリー)人100名以上を独立計画を立てた廉(かど)で粛清し、“血に染まった若き皇帝”と呼ばれます。
 23歳のときには、よりにもよって、お見合いの日に暗殺未遂に遭います。一命はとりとめたものの、失明する危険さえあった重傷を負います。

 半年後、やり直しのお見合いでフランツ・ヨーゼフが見初め、結婚した相手は、お供の妹のほうでした。愛称シシィ。エリザベートです。シシィはヨーロッパの宮廷のなかでも、指折りの美人でした。余談ですが、シシィは現代の日本でも宝塚歌劇やコミックの主人公にもなるほどの人気です。

 オーストリア帝国のジリ貧はクリミア戦争(1853年)で中立の立場をとり、関係諸国に総スカンをくらったあたりからじわりと進んでいきした。イタリア統一をめざすサルディニアに敗戦し、皇帝とハプスブルク家の威光もガタ落ちです(1859年)。さらには、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクに仕掛けられた普墺戦争に敗れます(1866年)。

 敗北により、ハプスブルク家はドイツ統一の主導権を握るのはおろか、“ドイツ”からも閉め出されてしまいました。

 一方、敗戦によって力が弱まることにともなって帝国内では分離独立の動きが激しくなり、1867年6月に、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立します。軍事と外交、それに関係する予算を除いて、一切をハンガリーに任せるという、ハンガリーの自治を大幅に拡大するものでした。

◆次々に大切なものを失いつづけて……


 そんななかで、“泣きっ面に蜂”の出来事が待っていました。二重帝国が成立した直後の1867年6月19日に、実弟マクシミリアンの訃報が届きます。マクシミリアンは、フランスのナポレオン3世にそそのかされ、メキシコ皇帝になっていたのですが、メキシコの革命軍に処刑されたのです。

 1889年1月、今度は皇太子ルドルフが謎の情死です。暗殺説もささやかれています。さらに皇太子の死から10年もたたない1898年9月に、シシィこと皇后エリザベートが旅行先のスイスで殺されます。犯人はイタリア人の無政府主義者でした。犯人は特にシシィを狙ったわけではなく、「身分のある人なら誰でもよかった」という“通り魔”的な殺人でした。

 ヨーロッパの火薬庫どころか、“世界の火薬庫”ともいうべきバルカン半島で第1次バルカン戦争(1912年)、第2次バルカン戦争(1913年)が起きます。

 1914年、そんな折に、甥で皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビアを訪問します。フランツ・ヨーゼフは止めました。1878年のベルリン条約で、オーストリア=ハンガリー二重帝国はボスニアとヘルツェゴヴィナを占領することになり、1908年に併合しました。しかし、この地にはセルビア人が多数住んでおり、バルカン戦争でのセルビアの勝利も受けて、反オーストリアの民族運動が高まっていたのです。

 そしてフランツ・ヨーゼフの心配は不幸にも的中し、大公夫妻は、訪問先のサラエボでセルビアのテロリストに暗殺されてしまいます。この暗殺を受けて、オーストリアがセルビアに宣戦布告。ヨーロッパで戦争が始まり、第1次世界大戦へと拡大していったのです。

 フランツ・ヨーゼフは第1次世界大戦中の1916年、不幸と災難に見舞われつづけてきた生涯を閉じました。86歳でした。「明朝午前3時半に」(江村洋『フランツ・ヨーゼフ』東京書籍、1994年)。これが、フランツ・ヨーゼフの最期の言葉でした。仕事を気にしていたようです。

 第1次世界大戦が終わってみれば、オーストリア=ハンガリー二重帝国から、ハンガリー、チェコ=スロバキア、ポーランドなど帝国の諸民族は次々に独立し、ここにかつてのハプスブルク家の帝国は解体されました。さらにオーストリア社会民主党などの主導により、フランツ・ヨーゼフの跡を継いだカール1世は退位・亡命に追い込まれ、ハプスブルク家の統治は終焉を迎えるのです。

 かつてオーストリア帝国時代には国のほぼ真ん中にあった首都ウィーンが、今は国の東端に位置しているのが、ハプスブルク家のオーストリア帝国がどれだけの領土を失い、小国に転落してしまったかを物語っています。(雨宮美佐)

参考文献:
江村洋『フランツ・ヨーゼフ』東京書籍、1994年
倉山満『真・戦争論 世界大戦と危険な半島』KKベストセラーズ、2015年
倉山満『明治天皇の世界史』PHP新書、2018年