【47都道府県名将伝3】和歌山県/雑賀孫一

2019.4.27 戦国時代
 群雄割拠の戦国時代。日本の津々浦々に、その地域ならではの名将たちがいました。彼らはいかに生き、いかに戦ったのか。武将たちは、それぞれの土地のその見事な生き方から、地域の誇りや精神性、県民性まで伝わってきます。

 日本全国、名将巡り。今回は、和歌山県の雑賀孫一です。

◆誰にも従わず、思うがまま戦う


 「味方にすれば必ず戦に勝ち、敵に回せば必ず負ける」

 戦国時代にそう語られて、諸国の大名から畏怖された男たちがいた。紀州――すなわち現在の和歌山県を拠点とした雑賀衆である。戦国期には大名に仕えていない地域勢力が各地にいたが、もっとも有名なのが鉄砲の名手を揃えた雑賀衆である。

 雑賀衆は鉄砲の腕を買われて傭兵(ようへい)としてさまざまな戦いに出向いては、戦局を左右する活躍をした。鈴木孫一、通称・雑賀孫一はそんな雑賀衆のリーダー的存在として世に知られていた人物だ。実は「孫一」は代々の通り名であり、そう名乗った人物は複数いたともいわれる。そのなかでも戦国期に活躍し、現在の戦国好きが一般的にイメージするのは「鈴木重秀孫一(以下、孫一)」である。

 孫一は勇猛果敢、豪快な人物であったといい、その人柄を伝える伝説は枚挙にいとまがない。たとえば『常山紀談』には、三好義賢の大軍を前に策を講じる味方に対し、「仔細にや及ぶ(つべこべいうまでもない)」とうそぶいて敵本陣にまっしぐらに突入し、敵の大将を討ち取ったという説も書かれている。

 また、織田信長が石山本願寺と激突した石山合戦においては、本願寺方に与(くみ)してその名を天下に知らしめた。信長軍を鉄砲で散々に撃ちすくめたからである。結果、数で勝る織田軍団は孫一ら雑賀衆が籠もる本願寺を攻めあぐねた。

 とりわけ孫一は戦上手の大将として、本願寺の首脳たちからも別格扱いされた。石山合戦は10年に及んだが、本願寺が力尽きて信長と講和すると、その後、孫一は信長に味方した。雑賀衆はあくまでも「傭兵」であり、鉄砲の技術を「売り物」に世を渡った男たちであった。誰にも従わず、思うがまま戦い、そして生きた。そんな進取の気性に富むのが雑賀衆であり、そんな男たちを率いたのが孫一だった。

◆「自治国家」の誇りを守るべく


 孫一への試練は、天正10年(1582)の本能寺の変後に訪れた。信長が横死すると、代わりに天下統一をめざす羽柴秀吉と対することになったのだ。

 秀吉がまず標的にしたのは、同じく紀州の地域豪族である根来衆であった。しかし、雑賀衆も秀吉への抗戦を決断。天正12年(1584)、秀吉が徳川家康との小牧・長久手の戦いに臨むと、岸和田やその北方の大津などを攻めて大坂城近隣を脅かした。これで出鼻を挫(くじ)かれた秀吉は、小牧でも苦戦を強いられる。すると秀吉は嚇怒して、紀州攻めを敢行。10万の大軍を投じたというから、その本気度がうかがえる。家康との決戦に集中するために、後顧の憂いを取り除こうとしたのだろう。

 これに対して、雑賀衆は徹底抗戦。得意の鉄砲を駆使して各地で羽柴軍を大いに苦しめたといい、特に太田城では羽柴軍の水攻めに遭いながらも、1カ月にわたり籠城した。しかし多勢に無勢、数を恃(たの)む羽柴軍の前についに降伏するに至る。

 それにしても、雑賀衆は一時は信長に与しながらも、なぜ秀吉には徹底抗戦したのだろうか。実はこの点にこそ、雑賀衆の独自性を見て取れる。彼らは「惣国制」という特殊な統治体制を採っていた。かつては形式上、畠山氏などの守護の統治下に置かれていたのだが、やがてそれを排して「自治国家」というべきものを形成した。

 そんな紀州に対して信長は強硬な統治を進めようとはしなかった。ところが秀吉は、紀州の分国化を図ったといわれる。だからこそ雑賀衆は、あくまで戦い抜いたのだ。秀吉が紀州と自分たちの暮らしを脅かすのならば、故郷を守るために起つことを厭(いと)わない。それが孫一の覚悟だったに違いない。

◆雑賀衆「無類の鉄砲上手」の秘密


 最後に、雑賀衆の代名詞でもある鉄砲について触れておこう。雑賀衆が鉄砲射撃の戦術に長(た)けていたのは間違いない。彼らの鉄砲射撃については、よく『陰徳太平記』の記述が取り上げられる。25人に小頭をつけて、50人を1組として下知を加えて鉄砲を放つというものである。

 この記述から考えられるのは、一般的にいわれる三段撃ちならぬ二段撃ちだ。前列の25人が鉄砲を撃つあいだに後列の25人が玉薬を詰めて前後列の交代を繰り返す。もしかしたら雑賀衆はこのような戦法を採っていたかもしれないが、残念ながら根拠はない。

 また、雑賀衆の有力者の1人である佐武伊賀守の働書によると、射撃手は鉄砲を撃つことに専念して、近くに火薬や玉を装填(そうてん)する専任者を置き、複数の鉄砲を次々に取り替えていたという。射撃の名手はそれほど多数いるわけではない。名手ではない人が鉄砲を撃つよりも、名手が継続的に撃つほうが確率は高い。雑賀衆はこのような合理的な戦法で鉄砲の連射を可能にしていたのかもしれない。

 天正5年(1577)に信長から雑賀を攻められたとき、雑賀衆は雑賀川(現和歌川)を挟んで織田軍と戦った。このとき、雑賀衆は対岸に木の柵を設けて織田騎馬隊を阻止しようとした。作戦は見事に奏功し、織田軍の数多くの将兵が柵の前で右往左往し、雑賀衆の鉄砲の前に倒れた。皮肉にも、2年前の長篠合戦(ながしののかっせん)で信長が武田勝頼に対して遂行したものとよく似た戦法を用いて、孫一は織田軍を撃退したのだ。

 鉄砲を使いこなす、無類の戦上手。だからこそ孫一は信長、秀吉という2人の天下人を相手に、紀州を守り抜くべく激しい戦いを繰り広げることができたのだ。(池島友就)