【47都道府県名将伝2】福島県/相馬義胤

2019.7.12 戦国時代
 戦国時代、あの独眼竜正宗が、ついに降せなかった男がいた。小高城主・相馬義胤(そうま・よしたね)である。義胤はその生涯で30回ほども伊達家(だてけ)と戦い、一度も後れ(おくれ)をとることがなかった武将である。断続的な伊達家との抗争は、もしかしたら義胤に課せられた宿命のようなものだったのかもしれない。

●繰り返される伊達家との熾烈(しれつ)な抗争


 相馬義胤(そうま・よしたね)は天文17年(1548)に福島県相馬郡の小高城(おだかじょう)で生まれ、陸奥相馬氏の16代当主となった。

 義胤はその生涯で幾度も、相馬家の領地と境界を接する伊達家と干戈(かんか)を交えたが、義胤には伊達に屈するわけにはいかない「理由」があった。それを知るには、相馬家の来歴を知る必要がある。

 相馬氏は、その祖が、かの平将門という伝承も残る名門である。代を重ねて千葉常胤(ちば・つねたね)の時代に、源頼朝を支えて源平合戦や奥州征討で功をあげ、各地に所領を賜ったが、その一つに南奥州の浜通りの一帯の所領があった。

 その後、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した相馬重胤(そうま・しげたね)が、郎党83騎を引き連れて、本領である下総国相馬郡から行方郡(現在の福島県)小高の地に移住し、以後、陸奥相馬氏は現在の福島県の浜通りを本拠とするようになった。

 一方、同じように頼朝から所領を贈られながらも、相馬氏とは対照的な行動をとった家がある。それが、ほかならぬ伊達家であった。当時の当主・朝宗は常陸真壁郡から新たに所領した伊達郡(福島県)へ早速に移住している。

 その後、相馬家と伊達家の運命を分かつ決定的な出来事が訪れる。義胤の曾祖父・盛胤(もりたね)の時代、伊達家の当主・稙宗は積極的に近隣諸国と婚姻関係を結んだ。相馬家もその例外でなく、花婿・盛胤に娶らせる(めとらせる)娘の化粧料として伊達郡の一部を贈った。しかし伊達家中において、これを「稙宗の独断専横」とする勢力が現れる。嫡男・晴宗とその息子である輝宗だ。なお、輝宗の息子にあたるのが政宗である。

 晴宗・輝宗は相馬家に対して攻撃を仕掛ける。ここに、義胤の代にまで続く相馬家と伊達家の抗争が幕を開けた。

●「この命に代えても、この地を守る」


 両家は各地で戦いを繰り広げたが、相馬家にとって存亡の危機となったのが、天正18年(1590)の駒ケ峰城を巡る戦いであった。

 駒ケ峰城はもともと相馬家の城だったが、伊達家がこれを陥とした。城代の黒木中務は相馬家から伊達家に奔った(はしった)人物だ。相馬家は駒ケ峰城奪還を試みたが、しかし政宗の返り討ちにあい、義胤の弟・隆胤が命を落とす悲劇に見舞われる。

 報せが小高城に届けられたのちに、相馬家は伊達家の家臣から降伏するように勧められた。政宗は大軍を率いて近く相馬に攻め入る準備を整えている。「名門・相馬」を残したいのであれば、矛を収めるように――そういわれたのだ。

 義胤は、これに対して頑として首を縦に振らなかった。確かにいまや、政宗の武威は盛んである。しかし、それに従うことはできない。今後、伊達の旗本として生き永らえるくらいならば、将門公以来の誇り高き相馬の家ともども滅び去るべきである――。義胤は、まさしく「討死覚悟」で大軍を迎え撃とうとしたのである。

 降伏勧告を退けたのち、義胤は家臣を集めて次のように語り掛けた。

「わしに賛同する者は、明朝、妙見堂の前に集合してくれ。たとえ反対して、姿を見せなくとも決して恨みに思うことはない」

 北斗七星をまつる妙見堂は、相馬家の守護神である。翌朝、広場には家臣はおろか、城下の郷士や町人、百姓までもが集まったとも伝わる。誰もが「この命に代えても、この地を守る」という義胤の覚悟に心を動かされたのであろう。

 こうして相馬家は伊達家との決戦に備えたのだが、しかし、ついに政宗の大軍は来襲しなかった。なぜならば、時を同じくして行なわれていた豊臣秀吉の小田原征伐の参陣命令に対して、政宗が重い腰をあげたというのだ。

 義胤は、ここが勝負どころだと察知した。急いで自身も小田原に急行し、秀吉と謁見(えっけん)。いきさつには諸説あるが、結果的に本領安堵(ほんりょうあんど)の朱印状を手にするのである。義胤はこうして相馬家滅亡の危機を切り抜けたのである。なお、政宗は遅参の科によって会津領を没収されて、米沢へと去っている。

●窮地にある相手を騙し討ちするのは武門の誉れにならぬ!


 相馬家と伊達家の因縁は以降も続いている。関ヶ原の合戦の直前、伊達政宗は、徳川家康による上杉景勝征伐に呼応すべく、大坂から仙台に帰還しようとしていた。だが当然、上杉領内は通れない。そこで政宗は相馬義胤に領内通過を依頼してきたのである。

 義胤は家臣に諮った。「この機会に仇敵政宗を討つべし」という意見も数多く出されたが、義胤はそれを是とせず、家臣・水谷胤重の「寡兵で窮地に陥っている政宗を騙し討ちにするのは、武門の誉れにならぬ」という意見を採用。政宗の領内通過を許し、政宗を丁重に扱ったという。もちろん、家康の上杉征伐への対応という深謀もあってのことだろうが、武士の誇りを重んじる相馬家の家風が伝わる逸話である。

 徳川の治世になっても、義胤の戦いは終わらない。寛永2年(1625)には、すでに家督を譲った利胤(としたね)が先立ち、遺された孫の虎之助(のち義胤)は当時わずか6歳。すると、義胤が78歳の老体に鞭(むち)をうって後見を務めた。それから10年後の寛永12年(1635)、虎之助の婚儀を見届けてから世を去った。

 遺言により、義胤の亡骸(なきがら)は甲冑(かっちゅう)をまとい、政宗の居城・仙台城を睨む(にらむ)かのように北向きに埋葬されたという。死してもなお、伊達家から相馬家を守ろうとした気魄(きはく)をみてとることができよう。

 そうした相馬の魂は、いまにも着実に受け継がれている。千年以上の伝統がある神事「相馬野馬追(そうまのまおい)」は、相馬一族が妙見神に駿馬(しゅんめ)を捕らえて奉納するものであり、平将門が野生馬を放ち、これを敵兵に見立てて武術を練ったことに由来するという。

 絶体絶命の苦境に立たされようとも、その闘志で死中に活路を見出し、断乎として家と父祖の地を守り抜く。そんな相馬の心を象徴する相馬野馬追は、いまも東北を代表する行事として継承されている。(池島友就)