【47都道府県名将伝4】広島県/小早川隆景~慎重かつ果断に危機に克つ

2020.8.4 戦国時代
「此人、常に危うき戦ひを慎み、謀を以て敵を屈せしむる手段を宗とし給ふ」(『陰徳太平記』)。

 戦国時代にこううたわれ、中国地方を席捲(せっけん)した毛利家を見事に支えた男こそ、小早川隆景であった。この記述からもわかるように、隆景の座右の銘は「慎重」だったという。

 隆景に関しては、豊臣秀吉を天下人に押し上げた黒田如水(官兵衛)に対して、「私はそなたほど頭が切れぬ。それゆえに、考えに考えて物事を決める。だからこそ、失敗も少ない」と語った逸話も知られている。

 とはいえ、この場合の「慎重」は「臆病」とは異なるだろう。局面を打開するには、ギリギリまで考え抜いて、最善の一手を選択する。そして時には、その一手が大胆極まることもいとわない――。そんな男だからこそ、隆景は「機略縦横」とうたわれた。

◆兵力5倍の陶晴賢軍を撃滅した厳島合戦の主役


 その人物像は、育った環境抜きには語れない。隆景が生まれた当時の毛利家は、大内と尼子に挟まれ、隆景の父・毛利元就(もうり・もとなり)が奔走していた時期であった。元就は後年、領土を広げるよりも家を堅くするよう息子たちに説くが、家を守る苦難を思い起こしての言葉であろう。隆景はそんな父の姿を見ながら成長し、薫陶(くんとう)を受けた。

 12歳で小早川家に入った隆景は、その後も父から「他家を相続しても、毛利を粗略にしてはならない」と諭されたという。小早川家当主として毛利をどう守るか。隆景はそんな命題と向き合う。そして13歳のとき、人質として大内家にいた隆景は、帰国後、元就に「大内家はじきに滅びます」と断言している。弱冠にして冷静な眼を養っていたのだ。

 初陣は天文16年(1546)、15歳のときであった。山名理興(やまな・ただおき)の神辺城の支城・龍王山城攻めだ。2年半後には神辺城を攻略。そして弘治元年(1555)、運命の厳島合戦に挑むのである。

 厳島合戦といえば、元就の「鬼謀」が喧伝(けんでん)される戦である。しかし、影の殊勲者というべきは隆景だ。

 このとき、隆景は元就に「戦の勝敗は兵数ではない」と決起を促し、次いで来島村上水軍(くるしまむらかみすいぐん)との交渉にあたる。彼らを味方に引き入れることが、勝利への鍵だったからだ。そして隆景は見事に来島村上水軍を説得して、決戦当日には厳島神社大鳥居正面から島へ向かうもっとも危険な役割を担って敵軍を引きつける。加えて、混乱した陶晴賢(すえ・はるかた)軍を追撃し、毛利軍を勝利に導いたのである。

 慎重に戦の準備を整え、いざ決戦となれば果敢に攻める――。慎重、そして果断に勝利を手繰り寄せる隆景の人物像が、厳島合戦には凝縮されていた。こうして隆景は、毛利軍が5倍を擁する陶晴賢軍撃滅の主役を担ったのだ。

◆あくまでも毛利家を守る「楯」となり続けて


 隆景の生涯を支えたもの。それはやはり、「毛利を守る」という思いだったのではないか。だからこそ、羽柴秀吉の中国大返しの際の決断など、曇りのない眼差しをもって、随所随所で迷うことなく判断を下すことができたのだ。そして――。毛利家が豊臣政権下で東の徳川と並び称される繁栄を誇っても、隆景の戦いは終わってはいなかった。

 秀吉は朝鮮出兵を控え、隆景に対し伊予一国を召し上げ、筑前一国など30万石を与えようとした。隆景を九州の大名たちの取りまとめ役にし、さらに小早川と伊予の水軍衆との関係を断ち切ろうと図ったのだ。しかし、隆景はこれを固辞。すると秀吉は、代わりに毛利の領国を九州に移そうともくろむ。

「ならば、自分が代わりに封じられよう」。結果、隆景は毛利を守るために筑前に移るのであった。そして文禄元年(1592)に朝鮮出兵が始まると、60歳の隆景も出陣。秀吉は隆景に絶対の信頼を置き、「隆景の注進だけを自分は信用する」と述べている。取りまとめ役としてだけでなく、戦場でも隆景は存在感を発揮。碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、立花宗茂(たちばな・むねしげ)とともに戦線の伸びた明軍を三方から撃つ采配で打ち破る軍略の冴え(さえ)を見せている。

 その後、体調を崩した隆景は帰国後、隠居しようと考えた。しかし、隆景に再び難題が降りかかる。秀吉の外甥・秀秋の毛利家への養子問題である。秀吉は、秀秋を実子のいない輝元の養子とし、毛利家を豊臣の血筋で塗り変えようと図った。関ケ原の裏切りで有名な秀秋だが、当時から気位が高く神経質な少年だったともいわれる。

 毛利家の血筋が危ういばかりか、毛利存亡の危機――。そう危惧した隆景は、窮余の一手を打つ。「毛利にはすでに養子がいます」といって、秀秋を自らの養子に迎えたのである。実は小早川家は、すでに秀包(ひでかね、元就の末子)を養子にしていた。しかし自家を犠牲に、毛利家の楯(たて)となったのだ。かくして毛利家はその後も命脈を保ち続けるのである。

 幕末の世、毛利家が藩主を務める長州藩は、維新の立役者となった。その背景には、毛利を守るため、「楯」となり続けた隆景の存在があった。(池島友就)