【幕末史のキーワード】(3) 水野忠邦と「幕藩体制の壁」

2019.7.28 幕末
 何らかの大きな問題に直面していると、時の政権は大きな改革を行って対処しようとします。現代でも、行政改革や税制改革といった言葉がよく聞かれます。

 外国の脅威が日本に迫って来た江戸時代後期から末期にかけての政権も、何度も改革をしようとします。幕末に行われた一連の幕政改革のさきがけとなったのが、水野忠邦です。なぜ改革はうまくいかなかったのか、見てみましょう。

◆幕末に続く改革ラッシュの最初


 水野忠邦は、寛政6年(1794)、肥前国唐津藩(佐賀県)の藩主の家に生まれました。19歳で父の後を継ぎ、藩主となります。

 水野は幕府での地位を上げることにも積極的でした。江戸幕府の行政は、主として譜代藩を治める藩主が登用されて統治事務を行い、そこから昇進して幕閣(幕府の首脳)へ上り詰めていく仕組みです。

 藩主を継いでわずか5年後、文化14年(1817)に遠江国浜松藩(静岡県)へ転封(所領を替えること)までして、出世コースに乗ります。九州近傍の藩は長崎警固の軍役があり、中央政府で出世するための要職に就くことができないからです。唐津藩のときは25万石あまりでしたが、浜松藩は15万石。当然、家臣たちからは反対の声も上がりましたが、忠邦は押し切っています。大坂城代、京都所司代を経て、西ノ丸老中から本丸老中と地位を上げ、老中首座に昇りつめたのは天保10年(1839)、45歳のときです。

 時の将軍は第12代・徳川家慶ですが、実権を握っていたのは先代の家斉です。将軍職を退いた後も、大御所となった家斉の側近が権勢を振るう大御所時代です。前将軍の居所である江戸城西ノ丸にちなんで「西丸御政事」とも呼ばれています。

 水野が老中首座となってのち、天保12年(1841)のはじめに家斉が死去すると、家斉側近の影響を一掃し、5月には改革を宣言しました。「天保の改革」が始まります。

「天保の改革」は、江戸時代中期の「享保の改革」、水野よりもおよそ50年前に松平定信政権が行った「寛政の改革」とともに、「江戸の三大改革」と呼ばれます。大御所家斉が将軍在任の頃から蓄積された先例を抑えて改革するため、水野が「享保・寛政の時代に立ち戻って改革する」といったことで、「三大」と数えられるようになったといいます。

 憲政史家の倉山満氏は、天保の改革は三大改革の最後というよりも、幕末期に何度も行われる「安政」「文久」「慶應」の諸改革の最初と位置付けています(倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年)。

 天保の改革が松平定信までの改革と大きく異なるのは、水野が対外情勢の変化に対応しようとしたことです。

◆「危機」よりも「改革」を嫌がる周囲に疎まれ


 大御所時代の末期には、異国船打払い令が出され、沿岸部に近づいた外国船を攻撃して追い払う方針となっていました。ところが、沿岸から大砲を撃っても、民間船すら沈めることができません。

 天保13年(1842)には、隣の大国、清がイギリスに負けてしまいます。アヘン戦争です。幕府は、交易のあるオランダや清国を通じて、戦争の情報を入手していました。清国に圧勝したイギリス艦隊が日本に来るとの情報も入ります。水野は外国船への対応方針を変更します。攻撃して退去させるのではなく、燃料や水などの補給は許し、穏便に退去させる方針です。かの清国を火の海にしたイギリスの戦艦に大砲を撃ちかけようものなら、何が起こるか分かりません。

 同時にオランダから西洋砲を買い、将軍直轄の御家人を改組して、江戸湾の防備を固めます。万一の際の物資補給路として印旛沼(いんばぬま)の開拓を計画するなど、とにかく将軍と江戸を守る態勢を作ろうとしました。

 民間への統制も行います。書物の出版を許可制とし、庶民の娯楽も規制します。本や歌舞伎、落語などを通じて不安な情勢が広く知られ、人心が動揺する原因となることを抑えようとしたのです。ほとんど戦時下の対応です。

 水野の改革は、大名からの土地収用に及びます。天保14年(1843)6月に出された上知令(じょうちれい/あげちれい)です。江戸城や大坂城の周辺地域を整理し、大名には代替地を与えて幕府直轄領にしようとしたのです。これで、水野は幕閣からも強い反発を受けてしまいます。

 大名は先祖伝来の土地だと主張して抵抗し、民間でも富裕な町人が大反対です。厳しい藩財政の補填(ほてん)を富裕町人からの借り入れで賄うことが常態化していたからです。上知令は、大名に貸した金を体よく踏み倒される理由になると考えたのです。

 猛反発を受けた上知令は3カ月で撤回することになり、水野は老中を罷免(ひめん)されてしまいました。迫りくる外国という危機を共有していたはずの幕閣も、大きな改革が自分の身にふりかかるとなると、強硬な反対に回ります。水野の改革は、「やりすぎ」の烙印(らくいん)を押されたようなものです。

◆財政も軍事も「藩ごとにバラバラ」であるがゆえに……


 この頃までの対外情勢に対する考え方の基本は、幕府は将軍と江戸を守り、各藩は自分の殿様と所領を守るというものです。政治だけでなく、経済や防衛という施策でも同様です。そのうえで、幕府は各藩に軍役を課すことができます。各藩の殿様は、幕府から許可された領域とはいえ、藩内の統治は自分が全権を持っています。そして、幕閣もそれぞれの藩を治める殿様です。

 幕閣による水野の罷免は、財政や軍事の権限が藩ごとに独立した江戸時代の仕組みを、あらためて明らかにしたといえるでしょう。

 薩摩藩や水戸藩といった、幕末に雄藩と呼ばれる藩は、独自に対応を始めていました。薩摩藩は、琉球への外国船渡来と交易の要求があり、他藩や幕府にさきがけて外交の問題に直面していました。水戸藩は、文政7年(1824)、藩領の大津浜にイギリス船が来航し、12人の武装した船員が勝手に上陸する事件(大津浜事件)に直面していました。これにより、水戸藩での攘夷運動も盛り上がることになります。

 この財政的にも軍事的にも、日本中でバラバラな状態が幕末維新の原因でもあり、原動力ともなるのです。(細野千春)

参考文献:
『国民が知らない 上皇の日本史』倉山満(祥伝社、2018年)
『日本史上最高の英雄 大久保利通』倉山満(徳間書店、2018年)
『日本史リブレット 近世の三大改革』藤田覚(山川出版社、2017年)