「令和」という元号が決まりましたが、実は幻の元号に「令徳」というものがあったことを、ご存知でしょうか。
元号の漢字は、縁起の良い字を組み合わせて選ばれますが、漢字の組み合わせによって色々な意味を読み取ることができます。「令徳」という元号案が候補に上がったのは幕末のことでしたが、漢字の組み合わせから連想される意味によって、候補から外されたのです。
この背景には、江戸時代末期の江戸幕府と、京都の朝廷との関係という事情がありました。なぜ「令徳」では好ましくなかったのか、その背景を見てみましょう。
「令徳」が元号の候補に挙がったのは、江戸時代末期、孝明天皇の御代のことです。幕末は外国船が頻繁に訪れ、日本に対する開港要求に応じるかどうかで国論が割れ、動乱となった時代でした。開港要求といっても、けっして平和一方の交渉ではなく、相手の外国船は軍艦や武装商船です。鎖国政策を掲げる幕府が苦慮するなかで、水戸藩(茨城県)や薩摩藩(鹿児島県)などで、沿岸部から勝手に上陸した外国の武装船員と小競り合いとなる事件も起こっていました。
孝明天皇は、異国船を災異として嫌い、災いを祓(はら)うための祈祷(きとう)や改元を行っています。そのため、孝明天皇の御代には、慣例の「辛酉革命・甲子革令(この「干支」のときには災異や大変革が起こるとされ、それを祓うために改元する)」を含めて、20年余で6回もの改元が行われました。
「令徳」は、最後の甲子革令改元となった「文久」から「元治」への改元のとき、朝廷から幕府に提示された新元号案のうちの1つでした。旧越前藩の資料をもとに編纂された『続再夢紀事』には、そのときに武家伝奏が伝えた書面が採録されています。
この折、朝廷が挙げた元号の候補は「令徳」「天静」「文寛」「政化」「大応」「元治」「寧治」の7つです。文面は「天皇からの勅問により、元号案を2、3の候補に絞ってもらいたい。特に「令徳」が叡慮(天皇のお考え)に叶っているので、このほかに1つ2つ選ぶように」という内容です。
「令徳」の典拠に付されているのは『詩経』の「假楽君子顕顕令徳宜民宜人受禄于天」という漢詩です。漢学者の白川静による解説では、もとは祭事の後の祝頌(いわいうた)で、和訳を「たのしき君は/ほまれも高し/人々に好かれ/天の幸受く」としています(白川静『詩経雅頌 2』平凡社、1998年)。
君子を称える、めでたい歌から取られた語なのですが、『続再夢紀事』では字面から「徳川に令する」と捉えた幕府側が、これを「殊の外(ことのほか)忌み(いみ)元治の号に決せらるる事を望んだ」といいます。
『続再夢紀事』の編纂は明治23年(1890)になってからのことですが、このときの幕府の評議の模様が描かれています。松平慶永(春嶽)は、一橋(徳川)慶喜らに「令徳」を嫌う理由を聞き、それをいうなら「元治」も「元に治る」、つまり王政復古という意味には違いないと笑います。さらに「天下の政権は徳川家のものではなく朝廷のものなのだから」と、大政委任論を述べたうえで、「令」の字は過去の元号で使われた先例がないから「元治」がいいのではないかという知恵を授け、新元号案が元治に定まったというのです。
江戸時代は「禁中並公家中諸法度」によって、天皇が史上初めて臣下の法の下に置かれた時代です(倉山満『国民が知らない 上皇の日本史』祥伝社新書、2018年)。改元も将軍の代始や不幸があったときに行われる慣例が定着し、朝廷は元号案を作成するだけで、最終案を示すのは幕府でした。天皇による公布は、あくまでも形式です。
ところが「元治改元」は、いきなり最終候補案が「叡慮」として示される形で幕府に渡されています。幕府には形式的に候補案を挙げさせるといった趣です。これには、数年来の政治的な事情が関係していました。
文久2年(1862)年、外様雄藩の薩摩藩から島津久光が兵を率いて上京し、勅使を奉じて江戸にやって来ます。勅使が要求したのは、幕政の大改革案でした。一橋慶喜を将軍後見職に、越前福井藩主の松平慶永を大老に任じよというものです。外様大名が兵を率いて江戸に入府するなど前代未聞、しかもその兵力を背景に、幕閣の人事に朝廷が介入して動かしてしまったのです。
こうして成立した政権が幕府の首班となったうえに、改元の準備が始まった文久3年(1863)には、将軍家茂が、上洛し攘夷決行の言質(げんち)を取られています。孝明天皇の攘夷祈願の行幸に将軍が供奉(ぐぶ)し、天皇と朝廷の権威を上げることにも利用されました(倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年)。
将軍上洛の数カ月後には、孝明天皇の周囲を取り巻く過激な攘夷派が政変で京都を追われますし、討幕の動きが始まるのはまだ数年先のことです。しかし、幕政改革でも参勤交代を緩和して、江戸に住まわせる決まりだった大名の妻子の帰国を許したり、外交は相変わらず打開策が見つからなかったりと、幕府の権威は下がりつづけています。こうした情勢のなかで出てきたのが「令徳」という元号案だったのです。
しかも「令徳」の「令」は、上下関係にある役所同士の命令通達文書でも、よく使われている文字です(佐藤進一『古文書学入門』法政大学出版局、1997年)。
幕政の中心となっていたような人々が、典拠とされた漢詩の元の意味を知らなかったとは考えにくいですが、このような状況や過去の使われ方を背景に、「『令徳』とは、朝廷が、徳川家に令しようと考えているのではないか」と考えたのでしょう。「令徳」の案を見た時の幕府首脳の衝撃が思い浮かびますね。(細野千春)
元号の漢字は、縁起の良い字を組み合わせて選ばれますが、漢字の組み合わせによって色々な意味を読み取ることができます。「令徳」という元号案が候補に上がったのは幕末のことでしたが、漢字の組み合わせから連想される意味によって、候補から外されたのです。
この背景には、江戸時代末期の江戸幕府と、京都の朝廷との関係という事情がありました。なぜ「令徳」では好ましくなかったのか、その背景を見てみましょう。
◆「令徳」=「徳川に令する」?
「令徳」が元号の候補に挙がったのは、江戸時代末期、孝明天皇の御代のことです。幕末は外国船が頻繁に訪れ、日本に対する開港要求に応じるかどうかで国論が割れ、動乱となった時代でした。開港要求といっても、けっして平和一方の交渉ではなく、相手の外国船は軍艦や武装商船です。鎖国政策を掲げる幕府が苦慮するなかで、水戸藩(茨城県)や薩摩藩(鹿児島県)などで、沿岸部から勝手に上陸した外国の武装船員と小競り合いとなる事件も起こっていました。
孝明天皇は、異国船を災異として嫌い、災いを祓(はら)うための祈祷(きとう)や改元を行っています。そのため、孝明天皇の御代には、慣例の「辛酉革命・甲子革令(この「干支」のときには災異や大変革が起こるとされ、それを祓うために改元する)」を含めて、20年余で6回もの改元が行われました。
「令徳」は、最後の甲子革令改元となった「文久」から「元治」への改元のとき、朝廷から幕府に提示された新元号案のうちの1つでした。旧越前藩の資料をもとに編纂された『続再夢紀事』には、そのときに武家伝奏が伝えた書面が採録されています。
この折、朝廷が挙げた元号の候補は「令徳」「天静」「文寛」「政化」「大応」「元治」「寧治」の7つです。文面は「天皇からの勅問により、元号案を2、3の候補に絞ってもらいたい。特に「令徳」が叡慮(天皇のお考え)に叶っているので、このほかに1つ2つ選ぶように」という内容です。
「令徳」の典拠に付されているのは『詩経』の「假楽君子顕顕令徳宜民宜人受禄于天」という漢詩です。漢学者の白川静による解説では、もとは祭事の後の祝頌(いわいうた)で、和訳を「たのしき君は/ほまれも高し/人々に好かれ/天の幸受く」としています(白川静『詩経雅頌 2』平凡社、1998年)。
君子を称える、めでたい歌から取られた語なのですが、『続再夢紀事』では字面から「徳川に令する」と捉えた幕府側が、これを「殊の外(ことのほか)忌み(いみ)元治の号に決せらるる事を望んだ」といいます。
『続再夢紀事』の編纂は明治23年(1890)になってからのことですが、このときの幕府の評議の模様が描かれています。松平慶永(春嶽)は、一橋(徳川)慶喜らに「令徳」を嫌う理由を聞き、それをいうなら「元治」も「元に治る」、つまり王政復古という意味には違いないと笑います。さらに「天下の政権は徳川家のものではなく朝廷のものなのだから」と、大政委任論を述べたうえで、「令」の字は過去の元号で使われた先例がないから「元治」がいいのではないかという知恵を授け、新元号案が元治に定まったというのです。
◆幕府の権威が下がりつづけるなかで
江戸時代は「禁中並公家中諸法度」によって、天皇が史上初めて臣下の法の下に置かれた時代です(倉山満『国民が知らない 上皇の日本史』祥伝社新書、2018年)。改元も将軍の代始や不幸があったときに行われる慣例が定着し、朝廷は元号案を作成するだけで、最終案を示すのは幕府でした。天皇による公布は、あくまでも形式です。
ところが「元治改元」は、いきなり最終候補案が「叡慮」として示される形で幕府に渡されています。幕府には形式的に候補案を挙げさせるといった趣です。これには、数年来の政治的な事情が関係していました。
文久2年(1862)年、外様雄藩の薩摩藩から島津久光が兵を率いて上京し、勅使を奉じて江戸にやって来ます。勅使が要求したのは、幕政の大改革案でした。一橋慶喜を将軍後見職に、越前福井藩主の松平慶永を大老に任じよというものです。外様大名が兵を率いて江戸に入府するなど前代未聞、しかもその兵力を背景に、幕閣の人事に朝廷が介入して動かしてしまったのです。
こうして成立した政権が幕府の首班となったうえに、改元の準備が始まった文久3年(1863)には、将軍家茂が、上洛し攘夷決行の言質(げんち)を取られています。孝明天皇の攘夷祈願の行幸に将軍が供奉(ぐぶ)し、天皇と朝廷の権威を上げることにも利用されました(倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年)。
将軍上洛の数カ月後には、孝明天皇の周囲を取り巻く過激な攘夷派が政変で京都を追われますし、討幕の動きが始まるのはまだ数年先のことです。しかし、幕政改革でも参勤交代を緩和して、江戸に住まわせる決まりだった大名の妻子の帰国を許したり、外交は相変わらず打開策が見つからなかったりと、幕府の権威は下がりつづけています。こうした情勢のなかで出てきたのが「令徳」という元号案だったのです。
しかも「令徳」の「令」は、上下関係にある役所同士の命令通達文書でも、よく使われている文字です(佐藤進一『古文書学入門』法政大学出版局、1997年)。
幕政の中心となっていたような人々が、典拠とされた漢詩の元の意味を知らなかったとは考えにくいですが、このような状況や過去の使われ方を背景に、「『令徳』とは、朝廷が、徳川家に令しようと考えているのではないか」と考えたのでしょう。「令徳」の案を見た時の幕府首脳の衝撃が思い浮かびますね。(細野千春)