【日本海軍艦艇列伝5】駆逐艦島風

2020.6.16 駆逐艦
 ゲームなどの影響で、大いに知名度と人気が上がったのが駆逐艦島風である。もちろん、島風がもとより名を馳せる駆逐艦であったことは間違いない。それは、島風の「速力」による。なんと島風は、40.9ノットという、とんでもない速さを備えた艦だったのである。競艇(ボートレース)の最高速度に匹敵する値だが、駆逐艦とはいえ全長約130メートル、基準排水量約2500トンの艦がこれだけの速力をたたき出すのだから、まさに驚愕すべきことであった。しかも、島風の魅力は速力ばかりではなかった。

◆アメリカ海軍に負けない速度と兵装を


 島風の建造が計画されたのは、太平洋戦争が始まる前の昭和14年(1939)のことである。当時のアメリカ海軍の駆逐艦には、37ノットを出す艦があった。そこで、アメリカ海軍に負けない速度、39ノットの駆逐艦を造ろうと計画が進められたのだ。

 島風に関しては、陽炎(かげろう)型駆逐艦と似た形が考案された。実際、陽炎型を2割ほど大きくした船体で、出力は52,000馬力から75,000馬力にアップ。艦本式ボイラーも改良をしており、その結果、島風は40.9ノットを記録することとなる。

 また、あまり知られていないが、五連装魚雷発射管を装備した唯一の艦でもある(これは、アメリカ海軍などでは採用されていた)。

 島風が完成する1年前には、同型艦を16隻建造するとの計画も持ち上がった。しかし速力を上げるには大馬力のエンジンが必要で、それには手間も金もかかる。アメリカを仮想敵国として、1隻でも多くの駆逐艦が必要な時代だ。結果、2番艦以降の建造は見送られた。その意味でも、島風は同型艦がなく、特殊であるといえる。

 島風は昭和16年8月に起工。竣工は昭和18年(1943)5月10日のことであった。先の大戦に詳しい方ならばご存じのように、すでに「分水嶺」であるミッドウェー海戦から1年が経ち、日本軍が苦境に立たされている時期である。

 触れておかなければならないのが、島風がこの世に生まれたときには、すでに高速重雷装という能力を活かせる時代ではなかったという点であろう。ガダルカナル島攻防戦以降、水雷戦はほとんど行われなくなり、そもそもレーダーを擁するアメリカ軍に先手をとられるのが常であった。

 だが島風は、竣工時から二二号レーダーをつけた最初の艦でもあった。当時の日本の駆逐艦は、損傷して帰投した際にレーダーをつけてもらうのが普通であった。そのため、島風が第五艦隊に配備されたときには、「レーダーを最初からつけた高速艦が応援にきたぞ!」と話題を呼んだという。

◆求められて「奇跡のキスカ撤退作戦」に参加


 昭和18年に竣工した島風は、護衛任務を主とすることとなった。参加した有名な作戦が、映画にもなったキスカ撤退作戦である。

 アリューシャン方面で窮地に立たされていた日本軍は、キスカ島からの撤退を決定。しかし、潜水艦撤退作戦は失敗し、その結果、第五艦隊の水上部隊による撤収作戦が採られることとなる。

 同水雷戦隊の司令官は、木村昌福少将。その木村が作戦協議の際、派遣を求めたのが島風であった。その理由は、島風がレーダーを装備する新鋭艦だからである。キスカ撤退作戦において、島風はキスカ島到着直前にレーダーに艦影を捉えて魚雷を発射している。結局、この「艦影」とは岩礁であったが、島風にとってはその生涯で唯一の「『敵』への魚雷発射」であった。

 そして、キスカ撤退作戦はといえば、「パーフェクト・ゲーム」と呼ばれる奇跡の成功を収めるのである。

◆しかし、最期までその高速力を活かすことなく…


 その後、島風は戦艦大和をはじめ多くの艦と同じように、その能力を存分に発揮することなく、その生涯を終えることとなる。惜しかったのはサマール沖海戦で、米護送空母が南に逃げた際、大和などの艦は全速力でこれを追撃したが、第二艦隊司令官の栗田健男中将は無線電話で「ゆっくりと後からついてこい」と下命した。理由は、魚雷は逃げる敵の後ろから撃っても命中する確率が低いからだ。その結果、島風はその速度を活かして、自分だけが敵護送空母を追いかけることは叶わなかった。

 昭和19年(1944)11月、島風はレイテ島オルモック湾への船団護衛を命じられる。護衛する5隻の商船のうち、1隻は7.5ノットしか出なかったという。結果、米第38機動部隊機に狙い撃ちされる。

 このとき、347機もの艦載機がオルモック湾に攻め寄せたといわれる。そして、島風はその速度を活かして魚雷などを交わすものの、至近爆弾3発をくらい、やがて航行不能に陥り、艦首から沈んでいった。最後まで、本当の意味でその高速力を活かすことはできなかったのである。

 そんな島風がニュースになったのは、2017年12月のことであった。フィリピン中部の海底で、島風のものと思われる残骸が発見されたのだ。そこには、島風の特徴であった五連装魚雷発射管も確認できるという。(池島友就)