「韓国障がい児の母」と呼ばれた皇太子妃・方子さま

2020.6.23
 朝鮮王朝最後の皇太子妃は日本人女性でした。しかも、昭和天皇のお妃候補の一人でもありました。梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃殿下です。

  国のため たふれし人の いさをこそ のちのよてらす 光なりけり

 これは方子妃殿下が昭和19年(1944)に、靖国神社献詠祭にて詠んだ和歌です。晩年は方子妃自身が、韓国の障がい児の未来を照らす偉大な光となりました。彼女は晩年、韓国障がい児のための福祉事業に大きく貢献し、「韓国障がい児の母」と呼ばれたのです。複雑な国際関係に人生を翻弄されながらも、なぜ韓国の福祉事業に貢献しようとしたのでしょうか。

◆ご自身の結婚を新聞報道で知る


 方子女王殿下は明治34年(1901)に、梨本宮守正王殿下と伊都子妃殿下の長女として誕生します。伊都子妃殿下の実家がある旧佐賀藩は日本赤十字社との縁が深く、伊都子妃殿下は日本赤十字社の篤志看護婦人会の活動をしていました。日本赤十字社は明治10年(1877)に西南戦争での傷病者を救護するために設立された博愛社を母体としており、初代社長も旧佐賀藩士です。母親の福祉活動にいそしむ姿を見て育ったことが、方子女王殿下の晩年の福祉事業に繋がります。

 明治41年(1908)に方子女王殿下は学習院女学部に入学しますが、学習院に通う裕仁皇太子殿下(後の昭和天皇)と同い年でした。学習院女子部に通う皇族・上流華族の女子は将来の皇后となるべく教育を受けます。当時の学習院長は乃木希典(のぎ・まれすけ)。「質素」に関する訓示を度々行っています。方子女王殿下は裕仁皇太子殿下の有力なお妃候補となりますが、結局は1つ下の学年の久邇宮良子(くにのみや・ながこ)女王殿下(のちの昭和天皇の皇后、香淳皇后)に婚約が決まりました。

 方子女王殿下がご自身の婚約を知ったのは大正5年(1916)。なんと新聞の一面報道で知らされます。朝鮮王朝の皇太子・李垠殿下との結婚です。あまりの衝撃にとめどなく涙があふれ出ます。当時は国際結婚が非常に少なく、華族が欧米人と結婚する事例がわずかにあったものの、方子女王殿下のような上流階級女子がアジア人と国際結婚することは皆無だったので、不安も大きかったでしょう。

 母の伊都子妃殿下は「お国のために」と説得しました。明治43年(1910)に行われた日韓併合後によって、日本人と朝鮮人の「同化」を促し、「国民に率先垂範を示す」ために、方子女王殿下に白羽の矢が立てられたのでした。

 方子女王殿下の夫となる李垠(りぎん)殿下は、明治40年(1907)年の満10歳の時に、留学の名目で伊藤博文に日本に連れて来られました。朝鮮王族として日本の皇族に準じる待遇を受け、大正天皇に大変可愛がられました。学習院、陸軍士官学校などで教育を受け、後に帝国陸軍中将となります。

◆幸せな結婚生活と悲劇


 さて、このような経緯での結婚ではありましたが、方子妃殿下と李垠殿下は仲睦まじい夫婦となります。自伝『流れのままに』の中で方子妃はこう綴っています。

「夢のようにしあわせな日々……月並みなことばかもしれませんが、そのとおりの、そうとしかいいようのない新婚生活がすぎてゆきました」

 結婚2年目には第一子の李晋(りしん)殿下を出産します。けれど翌年、朝鮮に渡り、2週間の儀式や晩餐会を終えて帰国する前日に、悲劇が訪れます。機嫌が良く何事もなかった李晋殿下が、急に容体悪化したのです。息遣いも苦しげに、青緑色のものを吐き続け、急逝しました。方子妃殿下も周囲の人も、「真相はわからないけれど、毒殺に違いない」と感じていました。

 李晋殿下の死から9年後、2度の流産を挟んで第二子の李玖(りきゅう)殿下が誕生します。やっと幸せが訪れたかと思いましたが昭和20年(1945)の日本の敗戦によって、方子妃たちは朝鮮王族の身分を失います。さらに、土地や別邸などの財産に多額の税金を課せられ、高利貸にだまされ、邸宅も売却することになり、小さな家を買って暮らすことになりました。

 その後、韓国の大統領が満洲国陸軍軍官学校を卒業している朴正煕(ぼく・せいき)となり、韓国への帰国を勧められます。昭和38年(1962)に帰国。帰国前に脳梗塞で倒れていた李垠殿下は韓国で7年間ほど方子妃に介護され、亡くなりました。

◆たとえ「おたあさまは乞食です」といわれても


 未亡人となった方子妃は、福祉事業に打ち込みます。李垠殿下の遺言があったことに加えて、韓国で障がい者への差別を目の当たりにしたからです。日本でも韓国でも、李一家は外国人として扱われ、少なからず差別を経験していたからこそ、救ってあげたいと考えたのでしょう。

 知的障がい児のための慈恵(じけい)学校や障がい者の職業訓練施設である明暉園(めいきえん)を設立し、資金繰りに奔走します。寄付を募ったり、自ら焼いた七宝焼を売ったり、バザーを開いたり、海外で宮廷衣装ショーを行ったり。粉骨砕身で取り組みます。

 寄付を頼まれるのが嫌で方子妃と距離を置くようになる人や、悪口を叩く人も次第に増えていきました。息子の玖さえも「おたあさまは乞食です」といって資金集めを止めます。けれど方子妃は障がいを持った子供たちのために、邁進し続けます。方子妃は毎朝、「和」という字を真心を込めて二十枚ほど色紙に書き、寄付して下さる方に贈りました。日本人であることの誇りを胸に抱いていたからこそ、使命感の炎を燃やし続けられたのではないでしょうか。(平井仁子)

参考・引用文献:
小田部雄次『李 方子』ミネルヴァ書房、2007年
大高未貴『日韓〝円満″断交はいかが? ~女性キャスターが見た慰安婦問題の真実~』ワニブックス、2014年
新城道彦『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』中公新書、2015年