朝鮮戦争~極東情勢を激変させた戦い

2020.7.24 中国 韓国
 朝鮮半島は、日本にとって、とかくゆかりの深い土地です。歴史的にも「白村江の戦い、元寇、応永の外寇、日清戦争、日露戦争」など、朝鮮半島の北緯39度線以南が日本の敵対勢力となった場合は、日本の安全保障が危機にさらされました。現在その地には、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)という明確な敵対勢力がいます。日本の安全保障上望ましくないこの状況の発端となったのは朝鮮戦争でした。

◆金日成も李承晩も、目指すは朝鮮統一


 1945年の日本降伏により、日本領だった朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連社会主義人民共和国(以下、ソ連)、南部をアメリカ合衆国(以下、米国)で分割統治をされました。しかし、1946年5月8日には早くも米ソ会談が無期延期となるなど、対立が深まっていきます。

 朝鮮内部では、北部も南部も日本統治時代に抗日運動を行っていた勢力が主導権を握りました。北部では1945年10月14日に平壌市民の前に、抗日パルチザンでソ連軍大尉でもあった金成柱が、正体不明の「抗日の英雄」金日成将軍として登場します。南部では米国とのパイプのあった李承晩が主導権を握ります。

 1948年に大韓民国(以下、韓国)が樹立し李承晩が大統領、次いで北朝鮮が樹立し金日成が首相となりました。どちらも目指すは朝鮮統一です。一足早く準備を整えたのは金日成でした。1948年末にはソ連軍から軍事顧問団が派遣され、北朝鮮はソ連軍撤退の際に、多くの武器や弾薬を譲渡されます。韓国では1948年に済州島の暴動や麗水、順天の反乱など左翼の暴動がおこり、国力増強が遅れます。

 朝鮮統一を目指す金日成は、ソ連の指導者スターリンに対して支援を要請しますが、1949年時点では、スターリンは借款やソ連軍人による北朝鮮軍人の訓練を行うのみで武力行使には否定的でした。金日成は「1949年の南朝鮮の暴動、北朝鮮軍の増強、米軍の撤退」により、統一に自信を持っており、しきりに韓国を挑発して国境紛争を多発させています。

◆ソ連と中国の化かしあい


 1950年初頭に、スターリンが北朝鮮を支援する意図を金日成に伝えます。方針転換の理由を「国際情勢の変化」とし、1949年8月のソ連核実験成功や、同年10月の中華人民共和国(以下、中国)の誕生、1950年1月のアチソン演説などをあげました。

 アチソン演説とは米国の国務長官アチソンが、対共産勢力に対する「防衛線」を示した演説のことです。アチソンは、「アメリカの防衛線はアリューシャンから日本を通ってフィリピンにいたる線である」と述べました。この線の内側には朝鮮半島も台湾も入っていません。そのため、米国の朝鮮半島介入なしに朝鮮統一が可能と判断した、ということです。

 しかし、スターリンは本気で「米国の介入がない」とは思っていなかったようです。それゆえスターリンは、しきりに「南北統一の問題は最終的には朝鮮と中国の同志が共同で決定すべき」として、毛沢東に軍事介入を行わせようとします。毛沢東の力を殺ぐ気満々です。上記の方針転換の理由も、毛沢東に参戦を促すための方便でした。

 それに対して毛沢東も、参戦に対するソ連から支援を最大限引き出すべく交渉をし、朝鮮戦争が開戦した後も、化かしあいが続きます。

◆奇襲攻撃に打って出た北朝鮮


 1950年6月25日4時、10万を超える北朝鮮軍が、ソ連の顧問団が作成した計画に基づき、38度線全域で攻撃を開始します。韓国軍は国境紛争の警戒が解かれた休暇外出の兵が多い、実にタイミングの良い奇襲攻撃でした。3日後にはソウルが陥落します。

 ここで北朝鮮軍はソウルに3日間停止しました。どうやら作戦終了という認識だったようで、この時間が米軍を主力とする「国連軍」に猶予(ゆうよ)を与えます。

 米軍は日本占領軍を朝鮮半島に送り、本隊が来るまでの時間稼ぎをします。当初はT34戦車などのソ連製兵器に苦戦し、釜山周辺まで追い込まれました。なお、北朝鮮が快進撃を続けているこのときにも、裏ではスターリンと毛沢東が、来るべき米軍反撃時の軍事介入についての駆け引きを繰り広げていました。

◆中国共産党の介入と「人海戦術」の恐怖


 1950年9月15日の仁川上陸作戦で反撃をした米軍を主体とする「国連軍」は、10月1日に北緯38度線を越えて中国との国境にある鴨緑江まで進撃をします。

 しかし、そこで中国人民解放軍が介入するのです。表向きはあくまで志願兵と位置づけて「中国人民志願兵」としていましたが、指揮を執るのは彭徳懐はじめ人民解放軍の精鋭将官たちでした。

 チャルメラやドラを打ち鳴らし、地雷原にも機関銃陣地にも雲霞(うんか)のごとき兵士を突撃させて、倒れた兵士を後ろの兵士が踏み越えて進撃していく「人海戦術」により、中国軍は国連軍を恐怖に落とし込み、1951年1月にはソウルを超えて北緯37度線まで押し返します。

 一時期は米国のトルーマンやマッカーサーが原爆使用を検討するほどの状況でしたが、国連軍は攻勢限界を迎えた中国軍を押し返し、同年7月10日にケソンで休戦会談が行われ、現在に至る軍事境界線が「固定」されます。南北朝鮮合わせて400万人~500万人もが死亡する凄まじい戦争でした(中国軍の戦死者も数十万~100万人といわれます)。

◆日本にとっての朝鮮戦争


 日本では、一時期、山口県に韓国の亡命政権構想が出ており、九州では空襲警報が鳴りました。また朝鮮半島に在日米軍が派遣されたため、自衛隊の前身の前身である警察予備隊が創設され、掃海艇などによる「戦死者」も出ています。また竹島を韓国に占領されたのも朝鮮戦争の折のことです(1952年1月に李承晩ラインを設定、1953年4月より実効支配)。日本周辺の狡猾な指導者が相手を出し抜きながら行ったこの戦争は、その後の極東アジアにさまざまな影響を与えているのです。(宮澤駿平)