【世界の君主列伝6】アンリ4世~5回の改宗と「ナントの王令」

 フランスでナポレオンよりも英雄視されているのが、国王アンリ4世です。アンリ4世はフランス最後の王朝、ブルボン王朝の初代国王。彼の人生には、宗教戦争と王位継承争いが深く関わっています。悲惨で混乱した時代とともにあった、彼の生涯をご紹介します。なお、この稿では一貫して、アンリ4世と記します。

◆王家の波乱と宗教戦争の真っ只中で

 1553年、アンリ4世は王家ではなく、王家に一番近い、第1親王家に生まれました。アンリ4世の王位継承順位は5番目。順調ならば、王位に就くのは望み薄です。時の国王アンリ2世(ヴァロワ朝)には王子が4人もいたうえに、宗教上の問題もありました。フランス王家はカトリック、それに対して、アンリ4世はプロテスタントだったからです。

 しかし、人生はまさに神のみぞ知る。何が起こるかわかりません。1559年、国王アンリ2世が騎乗槍試合で負傷し死亡。その跡を継いだ息子のフランソワ2世も、さらにその後のシャルル9世も若くして病死します。末子アンジュー公に至っては王位に就くことなく病死しました。ヴァロア朝最後の国王となったアンリ3世は世継ぎがないまま、暗殺されてしまいます。

 国王をはじめ、4人もいた跡継ぎが亡くなり、「望み薄」だったアンリ4世が1589年にフランス国王になったわけです。

 しかし、アンリ4世の国王への道には陰惨な宗教戦争が待っていました。時間をさかのぼること、アンリ4世の幼少期から追っていきましょう。アンリ4世の父が、幼い国王シャルル9世の側近となり、アンリ4世をパリの宮廷に呼び寄せます。アンリ4世は王家の子女とともに幼少期を過ごしました。

 前王フランソワ2世の死で、影響力を失っていたカトリックの盟主ギーズ家が権勢を回復します。このとき、アンリ4世の父はカトリックに改宗し、カトリック側につきました。アンリ4世も強制的にカトリックに改宗させられます。アンリ4世、人生最初の改宗です。

 アンリ4世は生涯、計5回の改宗を経験します。あるときは強制的に、あるときは自分の意思で。中世ヨーロッパで、改宗は文字通りの「命懸け」でした。「異端の罪は、異教の罪よりも重い」と考えられていた時代だったからです。

 プロテスタント派が拡大するなか、1562年3月1日の日曜日、カトリック側がプロテスタント信者を虐殺する「ヴァシィーの虐殺」が起きました。「ユグノー戦争」と呼ばれる、フランスの宗教戦争の始まりです。ユグノーとは、カトリック側が使った、フランスのプロテスタントの呼称です。

「ヴァシィーの虐殺」で、ブルボン家もギーズ家もともに当主が死に、ブルボン家はアンリ4世が、ギーズ家はアンリがそれぞれ跡を継ぎました。
 
 ユグノー戦争は勃発しては和を結びを繰り返し、この後7回、計8回にわたって戦われます。

 1567年、第2次ユグノー戦争。プロテスタント側がカトリックを虐殺。

 1568年、国王シャルル9世のプロテスタント禁止をきっかけに、プロテスタントが武装蜂起。この第3次ユグノー戦争にアンリ4世も参戦しています。

 プロテスタントのリーダーになったアンリ4世は、実質上2回目の改宗をし、プロテスタントに戻ります。

◆結婚式が「サン・バルテルミーの大虐殺」


 1572年8月18日は、王妹マルグリットとアンリ4世の婚礼の日です。カトリックとプロテスタントの融和を図るために仕組まれた結婚でしたが、マルグリットはプロテスタントへの改宗を拒み続けたままでした。

 婚礼を祝うためパリにプロテスタントも大勢集まっていました。

 24日、ギーズ公アンリらが、プロテスタント側の重要人物を殺害したのをきっかけに、カトリック教徒がプロテスタント教徒を大虐殺。「サン・バルテルミーの大虐殺」です。虐殺は8月30日まで続きました。

 アンリ4世はこの難を逃れたものの、カトリック側に囚われの身となり、プロテスタントを捨てます。3回目の改宗です。

 同年10月の第4次ユグノー戦争で、アンリ4世はカトリックの国王側として戦う羽目になりました

 1574年、第5次ユグノー戦争が始まると、国王シャルル9世が結核で死去。代わって、王弟がアンリ3世として即位します。

 1576年、アンリ4世、4回目の改宗。またもやプロテスタントです。

 1577年の第6次、1579年の第7次ユグノー戦争の後は束の間の小康状態でした。

 1584年、王弟アンジュー公が結核で亡くなるや、国王アンリ3世を継ぐ存在はアンリ4世だけとなりました。国王に世継ぎがいなかったからです。

 そして、1585年、第8次ユグノー戦争勃発。最後のユグノー戦争、別名「三アンリ戦争」。国王アンリ3世、王位を狙うギーズ公アンリ、そしてプロテスタントのアンリ4世。かつてパリの宮廷で一緒だった幼なじみの3人のアンリが戦いました。

 ギーズ公アンリが国王に殺され、国王アンリ3世も暗殺され、結果、王位に就いたのはアンリ4世でした。そして、アンリ4世は自分の意思でカトリックに改宗。生涯5度目にして、最後の改宗です。

 国王アンリ4世は1598年に「ナントの王令」を出し、プロテスタントの自由を認めたのも災いとなり、1610年、カトリック教徒によって暗殺されてしまいます。

 アンリ4世の死から約180年後。フランス革命によって、ブルボン王朝第5代国王ルイ16世がギロチンにかけられ、フランスの王制が廃止されたのはよく知られるところです。(雨宮美佐)


参考文献:
長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社選書メチエ、2002年
倉山満『ウェストファリア体制』PHP新書、2019年