「異端の者だって、殺さなくてもいいじゃない」。1648年、ヨーロッパを近代へと導くきっかけとなる一言をつぶやいたのが、スウェーデンの女王、クリスティーナです。
キリスト教徒にとって、異教徒も異端者も同じく「殺さなければならない」存在だった中世ヨーロッパで、それは画期的をはるかに超える、奇跡のような発想でした。憲政史家・倉山満氏が「文明人」といい、愛情をもって「不思議ちゃん」と呼ぶクリスティーナ女王は幼少期から、かなりの変わり種だったようです。
クリスティーナ女王は、あの「北方の獅子」ことスウェーデン国王グスタフ・アドルフ2世の娘です。クリスティーナが生まれたのは1626年。1618年に始まり1648年に終結をみる、ヨーロッパ史上最後にして最大の宗教戦争、三十年戦争の真っただ中でした。ちなみに、日本では江戸幕府第3代将軍・徳川家光がカトリックであるスペインの船の来航を禁じたころです(1624年)。
父王グスタフ・アドルフはクリスティーナを男の子のように育てました。それもあってなのか、クリスティーナは服装から遊びに至るまで好みも振る舞いも、まるで男の子でした。
父王が11言語を話せたといわれる語学の才の持ち主だったのに似て、クリスティーナもドイツ語をはじめ、フランス語、イタリア語、スペイン語のみならず、ギリシャ語やラテン語まで習得していたと伝えられます。
そんなクリスティーナが生涯にわたって、何よりも愛したのが学問です。6歳で父王の跡を継ぎ、女王になってからももちろんのこと、63歳の生涯を終えるまで学問に対する情熱は変わりませんでした。
クリスティーナは絶えることなく学問を続けます。クリスティーナが何より楽しみにしていたのは、宮廷に招いた当時の有名な学者たちが議論するのを聞き、自分もその輪に参加することでした。
学者たちのなかにはパスカルやデカルトなど、21世紀の日本でもその名をよく知られている学者たちもいました。なかでも、デカルトはクリスティーナ女王にとって特別な存在だったようです。
クリスティーナ女王はデカルトに招聘状を3度も送り、デカルトが応じるや、迎えに海軍提督を軍艦で差し向ける厚遇ぶりです。そんなクリスティーナのひとかたならぬ熱心さが、結果してデカルトを死に追いやった原因となってしまったのは皮肉です。
デカルトがストックホルムに到着したのが1649年10月。北欧はすでに冬でした。クリスティーナは週3回、朝5時からデカルトの講義を受けています。女王としての公務が始まる前の、朝練ならぬ朝勉です。デカルトから1回何時間の講義を受けたのかはわかりませんが、クリスティーナは1日12時間の勉強に、文字通り寝食を忘れて没頭するような人でした。
デカルトは当時54歳。慣れない極寒の地で、暖房もろくにない部屋での早朝からの講義です。朝が苦手なデカルトには、よほどこたえたのでしょう。デカルトは肺炎にかかって亡くなります。
しかし、デカルトはその後のクリスティーナ女王に多大な影響を与えたといわれています。その影響がどのよう形で現れたのかは後述します。
時をさかのぼること、デカルトがストックホルムに到着する約1年前の1648年10月。ウェストファリア条約が調印されました。ウェストファリア条約とは、三十年戦争の講和会議で結ばれた条約です。
ウェストファリア会議は激戦のさなかに開催が決められてから調印されるまで、6年もの歳月を要した会議でした。その会議にあって、クリスティーナ女王がプロテスタント側として、条約締結のために果たした役割の大きさは計り知れません。
大役を果たしたクリスティーナ女王は、そのあともまた「不思議ちゃん」ぶりを大いに発揮します。1654年、28歳のクリスティーナ女王はスウェーデン女王を退位し、王位を従兄に譲り、ローマへと渡っていきました。
ローマへ向かう途中のインスブルック(チロル地方)で、あろうことか、プロテスタントからカトリックに正式に改宗します。
キリスト教徒のプロテスタントとカトリックが血で血を洗う戦いを繰り広げ、30年にも及んだ宗教戦争が三十年戦争です。その戦いで、勝ったプロテスタント側の女王が、よりにもよってカトリックに改宗したわけですから、「不思議ちゃん」としかいいようがありません。
クリスティーナの退位も、改宗のためだったとの見方があるくらいです。クリスティーナ自身は改宗の動機などは記していません。永遠に不明のままです。しかし、改宗はクリスティーナの内面に関わる問題であり、そこにデカルトの影響があったと指摘されています。
カトリック教徒となったクリスティーナは、ローマ教皇のお膝元のローマに入り滞在します。改宗したクリスティーナは最初、ローマ教皇にも歓迎を受けます。しかし、カトリックに改宗したとはいえ、宗教的にもあくまで自由に振る舞うクリスティーナは、しだいにローマ教皇にとって“お荷物”になっていったようです。
ローマ滞在期間30年以上。人生の半分以上を外国で暮らし、最期もそこで迎えました。今なお、クリスティーナはヴァチカンにあるカトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂に眠っています。(雨宮美佐)
参考文献:
下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ』中公文庫、1992年
倉山満『歴史問題は解決しない』PHP研究所、2014年
倉山満『ウェストファリア体制』PHP新書、2019年
武田龍夫『物語北欧の歴史』中公新書、1993年
武田龍夫『物語スウェーデン史』新評論、2003年
武田龍夫『北欧悲史』明石書店、2006年
大江一道『新物語世界史への旅Ⅱ』山川出版社、2003年
キリスト教徒にとって、異教徒も異端者も同じく「殺さなければならない」存在だった中世ヨーロッパで、それは画期的をはるかに超える、奇跡のような発想でした。憲政史家・倉山満氏が「文明人」といい、愛情をもって「不思議ちゃん」と呼ぶクリスティーナ女王は幼少期から、かなりの変わり種だったようです。
◆学問を愛し、デカルトやパスカルと交流する
クリスティーナ女王は、あの「北方の獅子」ことスウェーデン国王グスタフ・アドルフ2世の娘です。クリスティーナが生まれたのは1626年。1618年に始まり1648年に終結をみる、ヨーロッパ史上最後にして最大の宗教戦争、三十年戦争の真っただ中でした。ちなみに、日本では江戸幕府第3代将軍・徳川家光がカトリックであるスペインの船の来航を禁じたころです(1624年)。
父王グスタフ・アドルフはクリスティーナを男の子のように育てました。それもあってなのか、クリスティーナは服装から遊びに至るまで好みも振る舞いも、まるで男の子でした。
父王が11言語を話せたといわれる語学の才の持ち主だったのに似て、クリスティーナもドイツ語をはじめ、フランス語、イタリア語、スペイン語のみならず、ギリシャ語やラテン語まで習得していたと伝えられます。
そんなクリスティーナが生涯にわたって、何よりも愛したのが学問です。6歳で父王の跡を継ぎ、女王になってからももちろんのこと、63歳の生涯を終えるまで学問に対する情熱は変わりませんでした。
クリスティーナは絶えることなく学問を続けます。クリスティーナが何より楽しみにしていたのは、宮廷に招いた当時の有名な学者たちが議論するのを聞き、自分もその輪に参加することでした。
学者たちのなかにはパスカルやデカルトなど、21世紀の日本でもその名をよく知られている学者たちもいました。なかでも、デカルトはクリスティーナ女王にとって特別な存在だったようです。
クリスティーナ女王はデカルトに招聘状を3度も送り、デカルトが応じるや、迎えに海軍提督を軍艦で差し向ける厚遇ぶりです。そんなクリスティーナのひとかたならぬ熱心さが、結果してデカルトを死に追いやった原因となってしまったのは皮肉です。
デカルトがストックホルムに到着したのが1649年10月。北欧はすでに冬でした。クリスティーナは週3回、朝5時からデカルトの講義を受けています。女王としての公務が始まる前の、朝練ならぬ朝勉です。デカルトから1回何時間の講義を受けたのかはわかりませんが、クリスティーナは1日12時間の勉強に、文字通り寝食を忘れて没頭するような人でした。
デカルトは当時54歳。慣れない極寒の地で、暖房もろくにない部屋での早朝からの講義です。朝が苦手なデカルトには、よほどこたえたのでしょう。デカルトは肺炎にかかって亡くなります。
しかし、デカルトはその後のクリスティーナ女王に多大な影響を与えたといわれています。その影響がどのよう形で現れたのかは後述します。
◆「カトリックへの改宗」の不思議
時をさかのぼること、デカルトがストックホルムに到着する約1年前の1648年10月。ウェストファリア条約が調印されました。ウェストファリア条約とは、三十年戦争の講和会議で結ばれた条約です。
ウェストファリア会議は激戦のさなかに開催が決められてから調印されるまで、6年もの歳月を要した会議でした。その会議にあって、クリスティーナ女王がプロテスタント側として、条約締結のために果たした役割の大きさは計り知れません。
大役を果たしたクリスティーナ女王は、そのあともまた「不思議ちゃん」ぶりを大いに発揮します。1654年、28歳のクリスティーナ女王はスウェーデン女王を退位し、王位を従兄に譲り、ローマへと渡っていきました。
ローマへ向かう途中のインスブルック(チロル地方)で、あろうことか、プロテスタントからカトリックに正式に改宗します。
キリスト教徒のプロテスタントとカトリックが血で血を洗う戦いを繰り広げ、30年にも及んだ宗教戦争が三十年戦争です。その戦いで、勝ったプロテスタント側の女王が、よりにもよってカトリックに改宗したわけですから、「不思議ちゃん」としかいいようがありません。
クリスティーナの退位も、改宗のためだったとの見方があるくらいです。クリスティーナ自身は改宗の動機などは記していません。永遠に不明のままです。しかし、改宗はクリスティーナの内面に関わる問題であり、そこにデカルトの影響があったと指摘されています。
カトリック教徒となったクリスティーナは、ローマ教皇のお膝元のローマに入り滞在します。改宗したクリスティーナは最初、ローマ教皇にも歓迎を受けます。しかし、カトリックに改宗したとはいえ、宗教的にもあくまで自由に振る舞うクリスティーナは、しだいにローマ教皇にとって“お荷物”になっていったようです。
ローマ滞在期間30年以上。人生の半分以上を外国で暮らし、最期もそこで迎えました。今なお、クリスティーナはヴァチカンにあるカトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂に眠っています。(雨宮美佐)
参考文献:
下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ』中公文庫、1992年
倉山満『歴史問題は解決しない』PHP研究所、2014年
倉山満『ウェストファリア体制』PHP新書、2019年
武田龍夫『物語北欧の歴史』中公新書、1993年
武田龍夫『物語スウェーデン史』新評論、2003年
武田龍夫『北欧悲史』明石書店、2006年
大江一道『新物語世界史への旅Ⅱ』山川出版社、2003年