“日の沈まない国”――かつて、スペインがそう呼ばれた時代がありました。スペイン本国はもとより、「布教という侵略から発展する大航海時代」(倉山満『歴史問題は解決しない』PHP研究所、2014年)をいち早く先取りし、「新大陸」やフィリピンにまで版図を広げていったからです。同時に、メキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国を滅ぼしたのもスペインでした。
16世紀、スペイン黄金期の礎(いしずえ)と「負の遺産」をも築いたのが、スペイン国王カルロス1世。“中世最後の皇帝”として知られる神聖ローマ皇帝カール5世です。
1500年、カールはヨーロッパの名門中の名門ハプスブルク家に生まれました。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を祖父に持ち、その息子フィリップ美公が父、スペイン王女フアナが母です。母方の祖父母は、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世でした。この2人は結婚してスペイン王国を誕生させ(カトリック両王と呼ばれます)、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しています。ちなみに、日本までやってきたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1505年生~1552年没)は、カールの同時代人です。
カールはフランドル(英語名はフランダース、現ベルギーの地方)の町ガンに生まれ育ち、17歳でスペイン王国を継承すべくスペインに赴きますが、スペイン語を読むことはおろか、話すこともできなかったといいます。カールに対する地元スペイン人からの最低限の要求の一つが「スペイン語で話すこと」でした。カールは熱心にスペイン語を習得します。
カールと同様の例は後世のヨーロッパでも、ドイツ生まれで英語のできない英国王ジョージ1世やフランス語がずっと苦手だったフランス王妃マリー・アントワネットなどに見られます。
新スペイン王カルロス1世の誕生で、ハプスブルク家はスペインに分家ができ、勢力圏を拡大します。
祖父マクシミリアン1世が崩御し、19歳のカルロス1世は神聖ローマ皇帝に就き、カール5世を名乗ります。しかし、カールの皇帝即位は肝心の地元スペイン人にはまったく歓迎されません。スペイン人は自分たちとは無関係の、神聖ローマ帝国の戦争のために税金を搾り取られる日が必ずくるとにらんでいたからです。
スペイン人のイヤな予感は的中しました。カール5世は戦いに次ぐ戦いであちらこちらに遠征します。生涯、戦いでの移動距離とその範囲たるや本人が「私はドイツへは9度、スペインへは6度、フランスへは4度、アフリカとイギリスへは2度ずつ渡り、また去った」(江村洋『カール五世』東京書籍、1992年)と回顧するぐらい広範囲にわたるものでしたが、彼自身は新大陸には行っていません。
皇帝として多くの問題を抱えていたカール5世が、多くの労力を費やしたのが宗教問題でした。
時は折しも、ルターの宗教改革(1517年)を発端に、ドイツ農民戦争(1524年)、異端禁止令(1530年)、カルヴァンの宗教改革(1541年)と、キリスト教内での争いが鮮明になっていった時期でした。
カトリック教徒であるカール5世は、1521年、ローマ教皇に破門されたルターをヴォルムスの国会に召喚し、自説を撤回するよう求めますが、ルターはこれを拒否。以降、カトリックとプロテスタントの対立は年を追うごとに激しくなっていきました。
当時のヨーロッパには常に異教徒の大帝国、オスマン・トルコ帝国の脅威がありました。オスマン・トルコ帝国はヨーロッパが束になってかかっていってもかなわない相手です。異教徒との戦いに備えるために、キリスト教徒が内輪もめをしている暇はありません。カール5世はなんとかプロテスタントの離反を食い止めようとします。
1530年、今度はアウグスブルクに国会を召集しますが、宗教問題はいっこうに決着しません。1541年、再び宗教問題決着を試み、レーゲンスブルクに議会を招集するも、またしても失敗。プロテスタントはどんどん離れていくばかりです。
やっとのこと、1547年に妥協案「宗教問題の仮協定(インテリウム)」が成立しますが、ルター派の要求は一部が認められただけで、だいたいはカトリックの儀式にのっとることとなりました。こうなると、カトリックとプロテスタントの両陣営から不満噴出です。
そんな状況のもとで、1555年9月、とにもかくにもアウグスブルクの和議にこぎつけました。プロテスタント(ルター派)の信仰が認められ、領主はカトリックかプロテスタントかが選べるようになりました。しかし、領民は領主の信仰に従わなければなりません。その不満はくすぶり続け、1618年のヨーロッパ史上最大にして最後の宗教戦争といわれる三十年戦争の勃発を招いてしまうのですが、それはカール5世の死後のことです。
カール5世は若いときから大食漢で、二十代から長く痛風を患っていました。なにしろ、朝から鰻(うなぎ)パイを腹一杯食べ、ビールをこれまた大量に飲むのを好んだそうですから。また、痛風にはストレスも大敵だといわれますが……。とりわけ晩年は痛風の激痛に悩まされていたといわれます。
肉体的にも精神的にも限界でした。アウグスブルクの和議のあと、1556年、ついに神聖ローマ皇帝を辞任します。ブリュッセルでの退位式で、カール5世は「私が帝冠を得ようとしたのは、もっと広い領土を支配するためではなかった。それはドイツと私に属する国々に安寧を与えるためであり、キリスト教世界全体に平和と融和をもたらすためだった」(前掲、江村)と、生涯を振り返っています。
退位式を終え、カール5世は残された時間をスペインで過ごしました。そして、1558年9月21日、愛妻の肖像画に見守られながら眠るように最期のときを迎えたといいます。享年58でした。(雨宮美佐)
参考文献:
倉山満『歴史問題は解決しない』(PHP研究所、2014年)
倉山満『誰も教えてくれない真実の世界史講義 中世篇』(PHP研究所、2018年)
江村洋『カール5世』東京書籍、1992年
16世紀、スペイン黄金期の礎(いしずえ)と「負の遺産」をも築いたのが、スペイン国王カルロス1世。“中世最後の皇帝”として知られる神聖ローマ皇帝カール5世です。
◆名門中の名門のすごい血筋に生まれる
1500年、カールはヨーロッパの名門中の名門ハプスブルク家に生まれました。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を祖父に持ち、その息子フィリップ美公が父、スペイン王女フアナが母です。母方の祖父母は、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世でした。この2人は結婚してスペイン王国を誕生させ(カトリック両王と呼ばれます)、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しています。ちなみに、日本までやってきたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1505年生~1552年没)は、カールの同時代人です。
カールはフランドル(英語名はフランダース、現ベルギーの地方)の町ガンに生まれ育ち、17歳でスペイン王国を継承すべくスペインに赴きますが、スペイン語を読むことはおろか、話すこともできなかったといいます。カールに対する地元スペイン人からの最低限の要求の一つが「スペイン語で話すこと」でした。カールは熱心にスペイン語を習得します。
カールと同様の例は後世のヨーロッパでも、ドイツ生まれで英語のできない英国王ジョージ1世やフランス語がずっと苦手だったフランス王妃マリー・アントワネットなどに見られます。
新スペイン王カルロス1世の誕生で、ハプスブルク家はスペインに分家ができ、勢力圏を拡大します。
祖父マクシミリアン1世が崩御し、19歳のカルロス1世は神聖ローマ皇帝に就き、カール5世を名乗ります。しかし、カールの皇帝即位は肝心の地元スペイン人にはまったく歓迎されません。スペイン人は自分たちとは無関係の、神聖ローマ帝国の戦争のために税金を搾り取られる日が必ずくるとにらんでいたからです。
スペイン人のイヤな予感は的中しました。カール5世は戦いに次ぐ戦いであちらこちらに遠征します。生涯、戦いでの移動距離とその範囲たるや本人が「私はドイツへは9度、スペインへは6度、フランスへは4度、アフリカとイギリスへは2度ずつ渡り、また去った」(江村洋『カール五世』東京書籍、1992年)と回顧するぐらい広範囲にわたるものでしたが、彼自身は新大陸には行っていません。
◆カトリックとプロテスタントの和解を図るが…
皇帝として多くの問題を抱えていたカール5世が、多くの労力を費やしたのが宗教問題でした。
時は折しも、ルターの宗教改革(1517年)を発端に、ドイツ農民戦争(1524年)、異端禁止令(1530年)、カルヴァンの宗教改革(1541年)と、キリスト教内での争いが鮮明になっていった時期でした。
カトリック教徒であるカール5世は、1521年、ローマ教皇に破門されたルターをヴォルムスの国会に召喚し、自説を撤回するよう求めますが、ルターはこれを拒否。以降、カトリックとプロテスタントの対立は年を追うごとに激しくなっていきました。
当時のヨーロッパには常に異教徒の大帝国、オスマン・トルコ帝国の脅威がありました。オスマン・トルコ帝国はヨーロッパが束になってかかっていってもかなわない相手です。異教徒との戦いに備えるために、キリスト教徒が内輪もめをしている暇はありません。カール5世はなんとかプロテスタントの離反を食い止めようとします。
1530年、今度はアウグスブルクに国会を召集しますが、宗教問題はいっこうに決着しません。1541年、再び宗教問題決着を試み、レーゲンスブルクに議会を招集するも、またしても失敗。プロテスタントはどんどん離れていくばかりです。
やっとのこと、1547年に妥協案「宗教問題の仮協定(インテリウム)」が成立しますが、ルター派の要求は一部が認められただけで、だいたいはカトリックの儀式にのっとることとなりました。こうなると、カトリックとプロテスタントの両陣営から不満噴出です。
そんな状況のもとで、1555年9月、とにもかくにもアウグスブルクの和議にこぎつけました。プロテスタント(ルター派)の信仰が認められ、領主はカトリックかプロテスタントかが選べるようになりました。しかし、領民は領主の信仰に従わなければなりません。その不満はくすぶり続け、1618年のヨーロッパ史上最大にして最後の宗教戦争といわれる三十年戦争の勃発を招いてしまうのですが、それはカール5世の死後のことです。
カール5世は若いときから大食漢で、二十代から長く痛風を患っていました。なにしろ、朝から鰻(うなぎ)パイを腹一杯食べ、ビールをこれまた大量に飲むのを好んだそうですから。また、痛風にはストレスも大敵だといわれますが……。とりわけ晩年は痛風の激痛に悩まされていたといわれます。
肉体的にも精神的にも限界でした。アウグスブルクの和議のあと、1556年、ついに神聖ローマ皇帝を辞任します。ブリュッセルでの退位式で、カール5世は「私が帝冠を得ようとしたのは、もっと広い領土を支配するためではなかった。それはドイツと私に属する国々に安寧を与えるためであり、キリスト教世界全体に平和と融和をもたらすためだった」(前掲、江村)と、生涯を振り返っています。
退位式を終え、カール5世は残された時間をスペインで過ごしました。そして、1558年9月21日、愛妻の肖像画に見守られながら眠るように最期のときを迎えたといいます。享年58でした。(雨宮美佐)
参考文献:
倉山満『歴史問題は解決しない』(PHP研究所、2014年)
倉山満『誰も教えてくれない真実の世界史講義 中世篇』(PHP研究所、2018年)
江村洋『カール5世』東京書籍、1992年