2020.8.14 ミッドウェー海戦
戦艦大和、武蔵。あらためて語るまでもない、昭和日本海軍を代表する戦艦である。その大和、武蔵に次ぐ「三番艦」として建造計画が進められていたのが、信濃であった。しかし、「戦艦信濃」は実現しなかった。途中で航空母艦(以下、空母)へと設計が変更されたからである。「空母信濃」の誕生である。
信濃の建造が開始されたのは、昭和15年(1940)のことであった(ちなみに戦艦大和の建造がスタートしたのは昭和12年である)。横須賀海軍工廠で始められた工事は順調に進んでいたが、やがて一時中断される。昭和16年12月に太平洋戦争が勃発し、海軍が戦艦と空母のいずれを重視すべきか、逡巡(しゅんじゅん)したのだ。
その迷いを晴らしたのが、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦であった。日本海軍は大敗北を喫し、虎の子の空母6隻のうち4隻を失う。かくして、同月末には信濃は空母に設計変更されることとなった。
その後、信濃は昭和19年(1944)11月に竣工する。ミッドウェー海戦からはすでに2年半ほどが経っており、これはアメリカなどの空母建造と比べると半年ほど遅いスピードである。純粋な造船能力の差というほかない。
スペックに目を向けると、全長266メートルは大和・武蔵を凌ぐ。15万馬力、速力27ノットも大和型に劣らない。飛行甲板の幅がアメリカの空母よりも狭いなどの問題点もあったが、何よりも強調すべきは、当時最強ともうたわれた装甲防御力であった。
大和級戦艦がベースである信濃は、飛行甲板は長く広大で、着艦時の安心感はそれまでの空母と段違いだった。しかも、それだけではない。当時の米艦載機が多用していた1000ポンド(454キログラム)爆弾までなら貫通されることなく耐えることも可能だったという。
その表面は工事簡略化のため、オガクズ入りセメントでコーティングされていた。当時の標準である木甲板より延焼しにくく、爆撃にせよ水上砲戦にせよ、ちょっとやそっとの命中弾では戦闘不能にならないと考えられていた空母だった。
そんな信濃には、新鋭機の搭載が予定されていた。烈風18機、爆撃・雷撃機では流星18機、偵察機では彩雲などである。しかし、信濃竣工時には烈風はまだ完成されていなかった。まさしく画に描いた餅となったのは悔やまれる。艦載機さえも満足に揃わず。これが昭和19年11月という時代であった。
竣工したのちの11月28日、信濃は横須賀を出発して、呉軍港へと向かった。瀬戸内海の呉海軍工廠で残工事を実施することとなったからだ。つまり、この時点で信濃は未だ「未完成」であった。史料によれば、むしろまだ多くの追加工事が残っていたという。
しかし、信濃はその就役前後、B29の偵察によりアメリカに存在を察知された疑いが強まる。実際には、アメリカは信濃を写真で収めたにもかかわらず、最新鋭型大型空母とは認識していなかったという。しかし、情報戦で煮え湯を飲まされ続けていた日本海軍は用心し、信濃を防備能力の高い呉軍港に送ることとした。
皮肉なことに、その呉軍港に向かう途次、信濃は敵襲を受けるのである。信濃には駆逐艦3隻(浜風、磯風、雪風)が護衛につけられた。ここで問題が、信濃はまだ全速力を発揮できる状態ではなく、20ノットが限度。加えて、各駆逐艦はレイテ開戦帰りであり、損傷や乗員の損耗、疲労によって全力戦闘など不可能な状況であった。
そして――。信濃が和歌山県の潮岬沖合を通ったとき、アメリカの潜水艦アーチャーフィッシュがこれを発見した。信濃は雷撃を受けて4発が命中、そして6~7時間後に水没してしまう。このとき、乗組員の半数以上が命を落とした。排水や反対舷への注水による浸水回復、護衛の駆逐艦や曳船の派遣による曳航などが行なわれたが、信濃の最期を救うことはできなかった。
当時の信濃は艦載機を載せておらず、敵襲に対してもはや為す術もなかった。惜しむらくは、未完成のまま生涯を閉じたことである。最後の瞬間、その威容を見せつけた大和や武蔵と比べると、あまりにも寂しい結末だった。(池島友就)
◆米艦載機の1000ポンド爆弾に耐える最強の装甲防御力
信濃の建造が開始されたのは、昭和15年(1940)のことであった(ちなみに戦艦大和の建造がスタートしたのは昭和12年である)。横須賀海軍工廠で始められた工事は順調に進んでいたが、やがて一時中断される。昭和16年12月に太平洋戦争が勃発し、海軍が戦艦と空母のいずれを重視すべきか、逡巡(しゅんじゅん)したのだ。
その迷いを晴らしたのが、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦であった。日本海軍は大敗北を喫し、虎の子の空母6隻のうち4隻を失う。かくして、同月末には信濃は空母に設計変更されることとなった。
その後、信濃は昭和19年(1944)11月に竣工する。ミッドウェー海戦からはすでに2年半ほどが経っており、これはアメリカなどの空母建造と比べると半年ほど遅いスピードである。純粋な造船能力の差というほかない。
スペックに目を向けると、全長266メートルは大和・武蔵を凌ぐ。15万馬力、速力27ノットも大和型に劣らない。飛行甲板の幅がアメリカの空母よりも狭いなどの問題点もあったが、何よりも強調すべきは、当時最強ともうたわれた装甲防御力であった。
大和級戦艦がベースである信濃は、飛行甲板は長く広大で、着艦時の安心感はそれまでの空母と段違いだった。しかも、それだけではない。当時の米艦載機が多用していた1000ポンド(454キログラム)爆弾までなら貫通されることなく耐えることも可能だったという。
その表面は工事簡略化のため、オガクズ入りセメントでコーティングされていた。当時の標準である木甲板より延焼しにくく、爆撃にせよ水上砲戦にせよ、ちょっとやそっとの命中弾では戦闘不能にならないと考えられていた空母だった。
そんな信濃には、新鋭機の搭載が予定されていた。烈風18機、爆撃・雷撃機では流星18機、偵察機では彩雲などである。しかし、信濃竣工時には烈風はまだ完成されていなかった。まさしく画に描いた餅となったのは悔やまれる。艦載機さえも満足に揃わず。これが昭和19年11月という時代であった。
◆未完成のままに迎えた悲劇的な最期
竣工したのちの11月28日、信濃は横須賀を出発して、呉軍港へと向かった。瀬戸内海の呉海軍工廠で残工事を実施することとなったからだ。つまり、この時点で信濃は未だ「未完成」であった。史料によれば、むしろまだ多くの追加工事が残っていたという。
しかし、信濃はその就役前後、B29の偵察によりアメリカに存在を察知された疑いが強まる。実際には、アメリカは信濃を写真で収めたにもかかわらず、最新鋭型大型空母とは認識していなかったという。しかし、情報戦で煮え湯を飲まされ続けていた日本海軍は用心し、信濃を防備能力の高い呉軍港に送ることとした。
皮肉なことに、その呉軍港に向かう途次、信濃は敵襲を受けるのである。信濃には駆逐艦3隻(浜風、磯風、雪風)が護衛につけられた。ここで問題が、信濃はまだ全速力を発揮できる状態ではなく、20ノットが限度。加えて、各駆逐艦はレイテ開戦帰りであり、損傷や乗員の損耗、疲労によって全力戦闘など不可能な状況であった。
そして――。信濃が和歌山県の潮岬沖合を通ったとき、アメリカの潜水艦アーチャーフィッシュがこれを発見した。信濃は雷撃を受けて4発が命中、そして6~7時間後に水没してしまう。このとき、乗組員の半数以上が命を落とした。排水や反対舷への注水による浸水回復、護衛の駆逐艦や曳船の派遣による曳航などが行なわれたが、信濃の最期を救うことはできなかった。
当時の信濃は艦載機を載せておらず、敵襲に対してもはや為す術もなかった。惜しむらくは、未完成のまま生涯を閉じたことである。最後の瞬間、その威容を見せつけた大和や武蔵と比べると、あまりにも寂しい結末だった。(池島友就)