2019.8.9 ミッドウェー海戦
大東亜戦争(太平洋戦争)の敗因については、いまなお、さまざまな議論が戦わされている。そのなかでも、勝敗をわける「分水嶺」の一つとして語られるのが、昭和17年(1942)のミッドウェー海戦だ。
前年12月の真珠湾攻撃以来、破竹の進撃をつづけた日本軍。しかし、戦力的には勝っていたミッドウェー海戦で惨敗を喫して以降、敗戦への道を歩むこととなる。このとき、日本海軍の機動部隊は出撃した4空母をすべて失ったが、その4隻のうち、最後まで残って奮戦した1隻が空母飛龍(ひりゅう)であった。果たして飛龍は、いかなる戦いを繰り広げたのか。
昭和14年(1939)7月、飛龍(ひりゅう)は蒼龍(そうりゅう)とともに、日本海軍初の本格的な艦隊型空母として誕生した。当初は蒼龍の2番艦となる予定だったが、近代化改装がなされた加賀や、先に完成した蒼龍の使用実績から、設計を含めて別の艦として完成した。
まず飛龍がどのような空母であったかを説明しよう。船体は蒼龍よりもやや大きく、排水量は1,400t増えた。これはすなわち、飛龍は蒼龍よりも小型駆逐艦1隻分ほど排水量が増加していることを意味する。船体強度もアップしているが、そのほかの基本性能は蒼龍と変わりない。そして飛龍最大の特徴として挙げられるのは、艦橋が左舷に配置されていることである。これは空母では他には赤城(あかぎ)のみの仕様であった。
なお、空母には敵機の攻撃から守り、味方の攻撃隊を護衛する艦上戦闘機と、敵基地や敵艦隊を攻撃する艦上爆撃機や艦上攻撃機が搭載される。飛龍は2層の格納庫をもち、総搭載機数は57機であった。
そんな飛龍は蒼龍とともに、第二航空戦隊の第一航空艦隊として、開戦後は昭和16年12月の真珠湾攻撃に参加している。しかし、じつは飛龍などが出撃するまでには、水面下で一悶着(ひともんちゃく)があった。
昭和16年9月下旬、機動部隊司令部より、航続力不足を理由に飛龍と蒼龍は真珠湾攻撃不参加を打診された。このとき烈火の如く怒り、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)司令長官と草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)参謀長に詰め寄ったのが、第二航空戦隊司令官の山口多聞(やまぐち・たもん)であった。
「荒れ模様の海で燃料補給が無理というのなら、片道だけで結構だ。燃料切れで漂流しても一向に構わん」
今頃になって不参加など、これまで部下たちは何のために日々血のにじむ猛訓練をつづけてきたのか……。多聞からすればそんな思いもあったろう。だが、そればかりではなく、いざアメリカと事を構えるのならば、中途半端な攻撃は逆効果となり、相手が二度と立ち上がれないほどのダメージを与えなければ国力で数倍も勝るアメリカには勝てるはずがなく、6隻の正規空母投入はそのためには絶対に不可欠である――とも考えていたのではないか。
結果、真珠湾攻撃は成功。しかし多聞の願いも空しく、敵基地を徹底的に叩くまでには至らなかった。これが連合艦隊にとっては痛恨事であったと後世に語る識者は多い。飛龍はといえば、翌17年のインド洋作戦にも参加し、セイロン沖海戦で大戦果を挙げている。
そして、運命のミッドウェー海戦が訪れる。出撃は同年5月27日。この日は海軍記念日であり、飛龍の乗組員には食事に赤飯が出たという。ここまで連戦連勝だったので、艦内のムードは最高潮であった。
「現装備ノママ攻撃隊直チニ発進セシムルヲ至当ト認ム」
山口多聞が座乗する飛龍より、赤城の機動部隊司令部に向けて信号を送ったのは昭和17年6月5日、索敵機からの敵艦発見の報を受けてのことである。
このとき、南雲機動部隊はミッドウェー島攻略のための攻撃を仕掛けている最中であった。しかし、敵空母が現われる可能性は十分にあり、多聞は念入りに索敵(さくてき)を行なうべきと進言していた。ところが南雲司令部はそれを重くは受け止めず、結果、ミッドウェー島に第2次攻撃をかける直前での敵艦発見となったのだ。
攻撃機に搭載しているのは陸用爆弾であり、攻撃機を掩護(えんご)すべき零戦の準備も整ってはいない。しかし、多聞はたとえ現装備のままでも、少しでも早く攻撃に向かうことを意見具申する。零戦の掩護がなく、たとえ味方の被害が大きくなったとしても、ここが勝負どころだと判断したからだ。しかし南雲司令部はそれを黙殺、魚雷への兵装転換を命じた。
結果、加賀、赤城、蒼龍の主力空母3隻が次々と被弾炎上。南雲機動部隊は文字どおり、茫然自失となる。このとき、即座に指揮権継承を表明したのが、唯一健在の飛龍に座乗する多聞であった。
直ちに多聞は「本艦は今より全力をあげ敵空母攻撃に向かう」と通報、敵に向かって飛龍を驀進(ばくしん)させるとともに、出撃を命じる。艦爆18機、零戦6機は米空母ヨークタウンに襲い掛かり、爆弾6発を命中させて炎上させる。
しかし、飛龍1隻では頽勢(たいせい)を覆すには至らず、やがて敵爆撃機24機による攻撃を受けて大破炎上。総員退艦が告げられるなか、多聞は加来止男(かく・とめお)艦長と乗組員の奮闘に感謝し、艦と運命を共にするのであった。(池島友就)
前年12月の真珠湾攻撃以来、破竹の進撃をつづけた日本軍。しかし、戦力的には勝っていたミッドウェー海戦で惨敗を喫して以降、敗戦への道を歩むこととなる。このとき、日本海軍の機動部隊は出撃した4空母をすべて失ったが、その4隻のうち、最後まで残って奮戦した1隻が空母飛龍(ひりゅう)であった。果たして飛龍は、いかなる戦いを繰り広げたのか。
●「荒れ模様の海で燃料補給が無理というのなら、片道だけで結構だ」
昭和14年(1939)7月、飛龍(ひりゅう)は蒼龍(そうりゅう)とともに、日本海軍初の本格的な艦隊型空母として誕生した。当初は蒼龍の2番艦となる予定だったが、近代化改装がなされた加賀や、先に完成した蒼龍の使用実績から、設計を含めて別の艦として完成した。
まず飛龍がどのような空母であったかを説明しよう。船体は蒼龍よりもやや大きく、排水量は1,400t増えた。これはすなわち、飛龍は蒼龍よりも小型駆逐艦1隻分ほど排水量が増加していることを意味する。船体強度もアップしているが、そのほかの基本性能は蒼龍と変わりない。そして飛龍最大の特徴として挙げられるのは、艦橋が左舷に配置されていることである。これは空母では他には赤城(あかぎ)のみの仕様であった。
なお、空母には敵機の攻撃から守り、味方の攻撃隊を護衛する艦上戦闘機と、敵基地や敵艦隊を攻撃する艦上爆撃機や艦上攻撃機が搭載される。飛龍は2層の格納庫をもち、総搭載機数は57機であった。
そんな飛龍は蒼龍とともに、第二航空戦隊の第一航空艦隊として、開戦後は昭和16年12月の真珠湾攻撃に参加している。しかし、じつは飛龍などが出撃するまでには、水面下で一悶着(ひともんちゃく)があった。
昭和16年9月下旬、機動部隊司令部より、航続力不足を理由に飛龍と蒼龍は真珠湾攻撃不参加を打診された。このとき烈火の如く怒り、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)司令長官と草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)参謀長に詰め寄ったのが、第二航空戦隊司令官の山口多聞(やまぐち・たもん)であった。
「荒れ模様の海で燃料補給が無理というのなら、片道だけで結構だ。燃料切れで漂流しても一向に構わん」
今頃になって不参加など、これまで部下たちは何のために日々血のにじむ猛訓練をつづけてきたのか……。多聞からすればそんな思いもあったろう。だが、そればかりではなく、いざアメリカと事を構えるのならば、中途半端な攻撃は逆効果となり、相手が二度と立ち上がれないほどのダメージを与えなければ国力で数倍も勝るアメリカには勝てるはずがなく、6隻の正規空母投入はそのためには絶対に不可欠である――とも考えていたのではないか。
結果、真珠湾攻撃は成功。しかし多聞の願いも空しく、敵基地を徹底的に叩くまでには至らなかった。これが連合艦隊にとっては痛恨事であったと後世に語る識者は多い。飛龍はといえば、翌17年のインド洋作戦にも参加し、セイロン沖海戦で大戦果を挙げている。
●「本艦は今より全力をあげ敵空母攻撃に向かう」
そして、運命のミッドウェー海戦が訪れる。出撃は同年5月27日。この日は海軍記念日であり、飛龍の乗組員には食事に赤飯が出たという。ここまで連戦連勝だったので、艦内のムードは最高潮であった。
「現装備ノママ攻撃隊直チニ発進セシムルヲ至当ト認ム」
山口多聞が座乗する飛龍より、赤城の機動部隊司令部に向けて信号を送ったのは昭和17年6月5日、索敵機からの敵艦発見の報を受けてのことである。
このとき、南雲機動部隊はミッドウェー島攻略のための攻撃を仕掛けている最中であった。しかし、敵空母が現われる可能性は十分にあり、多聞は念入りに索敵(さくてき)を行なうべきと進言していた。ところが南雲司令部はそれを重くは受け止めず、結果、ミッドウェー島に第2次攻撃をかける直前での敵艦発見となったのだ。
攻撃機に搭載しているのは陸用爆弾であり、攻撃機を掩護(えんご)すべき零戦の準備も整ってはいない。しかし、多聞はたとえ現装備のままでも、少しでも早く攻撃に向かうことを意見具申する。零戦の掩護がなく、たとえ味方の被害が大きくなったとしても、ここが勝負どころだと判断したからだ。しかし南雲司令部はそれを黙殺、魚雷への兵装転換を命じた。
結果、加賀、赤城、蒼龍の主力空母3隻が次々と被弾炎上。南雲機動部隊は文字どおり、茫然自失となる。このとき、即座に指揮権継承を表明したのが、唯一健在の飛龍に座乗する多聞であった。
直ちに多聞は「本艦は今より全力をあげ敵空母攻撃に向かう」と通報、敵に向かって飛龍を驀進(ばくしん)させるとともに、出撃を命じる。艦爆18機、零戦6機は米空母ヨークタウンに襲い掛かり、爆弾6発を命中させて炎上させる。
しかし、飛龍1隻では頽勢(たいせい)を覆すには至らず、やがて敵爆撃機24機による攻撃を受けて大破炎上。総員退艦が告げられるなか、多聞は加来止男(かく・とめお)艦長と乗組員の奮闘に感謝し、艦と運命を共にするのであった。(池島友就)