【日本海軍艦艇列伝1】戦艦扶桑

 先の大戦において、日本のみならず、戦艦が活躍した場面は、さほど多くはありませんでした。日本が誇る戦艦大和も、ミッドウェー海戦やマリアナ沖海戦など日本海軍の命運を決した戦いには参戦せず(ミッドウェー海戦では、空母機動部隊の500km後方にあり、ついに戦闘に加わらなかった)、また、レイテ沖海戦でも「謎の反転」を行っています。その実力を十分に発揮する機会を与えられなかったことを惜しむ人たちが数多くいるのも、うなずけます。

 その一方で、建艦当初は世界最大の戦艦であったにもかかわらず、第二次大戦時には旧型化し、速力が遅いことなどから、出撃の機会に恵まれなかった艦もありました。大正4年(1915)生まれの「扶桑(ふそう)」も、そのような戦艦のうちの1隻です。

◆建艦当時「世界最大」の戦艦、近代化改装で生まれ変わる


 戦艦扶桑は、明治45年(1912)3月、呉海軍工廠で起工された。竣工は、大正4年(1915)11月である。

 日本の戦艦の名前は、大和、武蔵、長門など、日本のなかの旧国名(たとえば「武蔵国」は現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)から付けられることが多かった。だが、「扶桑」というのは、日本の国そのものの別名である。

 なぜ、このような名前が付けられたか。一つの理由としては、「扶桑」が、日本が独自に設計した戦艦としては初の「超弩級戦艦」であったこともあるのだろう。

 イギリスが「ドレッドノート」という巨大戦艦を完成(1906年)させると、世界各国がそれに並び、さらにそれを超える戦艦を建造すべく、建艦競争に拍車がかかった。「超弩級戦艦」とは、「弩級(=ドレッドノート級)を超える戦艦」という意味である。

「扶桑」は、超弩級戦艦であるとともに、建艦当時は世界最大の戦艦でもあった。3万t級の巨艦がドッグで建造されたのは、世界初ともされている。以後、同ドッグで長門、赤城、そして大和などが建造された。

 扶桑が注目を集めたのは、改装を終えた昭和8年(1933)5月のことである。3年にわたる大工事によって、日本における戦艦の「近代化改装の嚆矢(こうし)」と評されるほど、その艦容が一変されたのだ。

 たとえば、3番主砲搭上に飛行機出射機が据えられ、3、4番高角砲の装備位置は世界の軍艦史上の最高記録とも謳われた。当時の海軍雑誌の誌面では、まさしく「スター級」の扱いで迎えられている。

 そして訪れた、昭和16年(1941)の開戦。扶桑は、真珠湾攻撃には山本五十六連合艦隊司令長官率いる第一戦隊とともに出撃したが、攻撃には参加せず。柱島泊地に戻った後は、呉方面で訓練に従事していた。昭和17年(1942)4月18日には本土を空襲した敵機動部隊を攻撃するために出撃しているが、結局は発見できずに帰投している。

 同年のミッドウェー海戦では、アリューシャン諸島へ向かったためにアメリカ軍と交戦することはなく、帰投後は「柱島艦隊」として訓練に従事するほか、海軍兵学校の練習艦として使用された。その後はトラック泊地、続いて昭和19年(1944)2月にリンガ泊地へと進出している。この間、大きな戦闘には従事していない。

◆レイテ作戦における悲劇的な最期


 その後も、扶桑には活躍の場は訪れない。同年5月にはタウイタウイに進出。同月、アメリカ軍がピアク島(ニューギニア北西部)に上陸を開始したことにより、連合艦隊は陸軍海上機動第二旅団をピアクに輸送する作戦を発令。すなわち「渾作戦」であり、扶桑は間接護衛隊として6月2日にダバオを出撃。しかし、翌3日にダバオの南東330カイリでB24の触接を受けたことにより、渾作戦は中止になってしまった。扶桑も反転して5日にダバオに入港している。

 同年のマリアナ沖海戦にも参加していない扶桑にとって、最初にして最後の「大舞台」となったのが、レイテ作戦におけるスリガオ海峡夜戦であった。

 当時、発令された捷一号作戦においては、西村祥治第二戦隊司令官が率いる南方部隊(山城、扶桑、最上、駆逐艦4隻)は、10月25日の夜明け前、レイテ湾のタクロバン沖で栗田艦隊と呼応して、アメリカ上陸部隊を叩くのが任務であった。まさしく、この協同攻撃こそが作戦の鍵とされていたのだ。

 一方のアメリカ側は、レイテ上陸作戦の支援部隊では、日本の南方部隊がスリガオ海峡を通過してレイテ湾に突入するものとして、強力な戦艦部隊を配備していた。先の大戦を通じていわれることだが、ここでもアメリカの情報力が威力を発揮していたのだ。

 西村艦隊は、夜明け前にレイテ湾に突入して敵の航空攻撃を避けようと考えたのか、自隊のみで進撃していく。栗田部隊がシブヤン海の戦でレイテ着が遅れることも見越していたのかもしれない。10月25日午前2時、西村中将は栗田中将に「午前1時半、スリガオ水道の南口を経てレイテ湾に突入せり。若干の魚雷艇を視認した外に敵兵力を視認し得ず」との電報を打っている。

 しかし、実際には前方には戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻という大部隊が待ち構えていた。西村部隊は扶桑を含む戦艦4隻と駆逐艦4隻。多勢に無勢であることは間違いなく、しかも敵影を発見するのもアメリカのほうが早かった。

 2時55分、駆逐艦・時雨(しぐれ)が敵艦影を認める。山城に座上する西村中将は急ぎ、戦闘序列をつくろうとしたが、この運動の途中で米駆逐艦の魚雷攻撃を受けてしまう。この時、2本を命中させられたのが扶桑である。真っ先に戦列を落伍したのが、扶桑であった(最初に魚雷攻撃を受けたのは扶桑ではなく山城であり、山城落伍後は扶桑が部隊を指揮したとの記録も残る)。

 西村艦隊はなおも進撃を続ける。山城も魚雷攻撃を受けると、西村中将は残存部隊に「われ魚雷攻撃を受く。貴艦は進撃して敵艦を残らず攻撃せよ」と最後の命令を下した。西村中将は1300名を超える将兵、そして山城と運命を共にした。扶桑も、すでに船体は二つに切断されており、艦首前半部分は4時20分~30分に沈没、後半部分は5時20分ごろにアメリカ艦隊の砲撃で沈没させられたという。

 かくして、近代化改装を終えた当時は「スター」として期待を集めた扶桑は、多くの将兵と共にスリガオ海峡に散ったのであった。(池島友就)