2019.4.23
「天下分け目の戦い」といわれる関ヶ原合戦。徳川家康が天下を取ったのは、この戦いで勝利を収めたからだといわれています。
もちろん、結果論からすれば、その見方は間違いではありません。しかし、よくよく見てみると、実は関ヶ原合戦は、徳川家康にとっては、きわめて不本意な戦いであることが見えてきます。戦いを望んだのは誰だったのか? 家康にとって何が想定外だったか? そもそも、「天下分け目」といわれるほどの大合戦だったのか?
関ヶ原合戦の真実に迫ります。
慶長5年(1600)9月15日、美濃国(岐阜県南部)南西部の伊吹山のふもとに広がる盆地、関ヶ原の地で、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が、「天下分け目の戦い」を繰り広げた。戦いに勝利を収めた徳川家康は、これによって「天下人」の座を獲得し、その3年後に征夷大将軍の就任。徳川幕府を開いた――とされている。
「されている」としたのには、理由がある。どうもこの戦、実態としては、天下の行く末を決するほどの大戦ではなかったらしいのだ。戦いの経過を、以下、ざっと、おさらいしてみよう。
さかのぼること2年。慶長3年に足軽から一代にして関白太政大臣にまで上り詰めた豊臣秀吉が亡くなった。遺児・秀頼はまだ5歳にすぎなかった。秀吉の晩年に五大老、五奉行と呼ばれるシステムを作りはしたが、急ごしらえのもので「政治機構」と呼べるほどの実態はなかったものと思われる。
そうなると、豊臣政権を実質的に担ってきた有力大名たちが、次の覇権をめぐって争いを始めるのは自明のことだった。大身の大名は、もともと秀吉の家臣ではなく、独立した地域権力だったのだから。
なかでも、格段の大勢力だったのは、「内府=内大臣」の位にあった徳川家康だ。関東の大半を治め、その石高は200万石を超えていたとされる。秀頼がまだ幼少だったこともあり、秀吉の死の段階で、次の「天下人」は家康だと考える人も少なくなかったらしい。
家康は秀吉が禁じていた大名同士の勝手な婚姻を推し進めるなど、政権内における自らの権力伸長に努め、「天下」への野心をあらわにする。これに反発したのが、石田三成をはじめとする秀吉子飼いの官僚派勢力だった。
しかし、秀吉子飼いといっても一枚岩ではない。加藤清正や福島正則に代表される「武断派」と呼ばれる勢力は、秀吉が行った朝鮮出兵の折に、石田三成と対立したこともあってか、むしろ、次の天下人の呼び声も高い家康に接近した。
これは豊臣政権が2つに分裂したことを示している。そして、五大老の1人である上杉景勝が本国に帰ったまま、豊臣政権のナンバーワンで、実質的には「首相代理」的立場にあった家康の上京命令を無視するという事態が起きる。家康は豊臣政権の部将たちを引き連れて東北に向かう。この機会をとらえて家康を政権から排除しようと企んだ石田三成ら反家康勢力は、家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻め落とすなど、家康との対決姿勢を明確にする。
ここで注意しなければならないのは、この反家康連合とも言うべき勢力、総大将は三成ではなく中国地方の太守・毛利輝元だったのだ。わずか19万石の所領しか持たない三成では、あまりに軽い。
いずれにせよ、まず火の手を挙げたのは、反家康サイドだった。家康は上杉攻めに同行していた秀吉政権の部将たちに去就を迫る。彼らはみな、これから起きる戦いを、豊臣政権の首班である家康に対して、石田三成ら反対派が起こした「謀反」であると位置づけた。もちろん、石田三成らは自分たちこそが豊臣政権の正当な担い手であるという意識でいたから、家康こそが謀反人であると糾弾する「内府違いの条々」と呼ばれるアジ文書を公開し、家康を激怒させたという。
すぐに畿内に取って返し、毛利輝元や石田三成と決戦に及ぶかと思われた家康。しかし、家康は慎重だった。豊臣政権におけるナンバーワンとはいえ、その他の大名すべてを敵に回して勝利できるわけがない。家康サイドについた武将たちは、この豊臣政権内の戦いでは、家康に着いたほうが有利だと見ているだけ。いったん家康が不利と見れば、いともたやすく毛利輝元の側に寝返るだろう。
家康はしばらく本拠地である江戸から動かず、各地の大名に手紙を書きまくった。勝利の暁には新たな所領を保証しよう。この戦いは石田三成が豊臣政権に仕掛けた謀反だ。これを打倒することこそ、豊臣政権のため。亡き太閤秀吉の遺志にもかなうことだ。家康は自己宣伝と正当化に腐心し、味方を増やしていった。
その1人が、小早川秀秋だ。秀秋は、秀吉の妻「おね」の甥で、一時は秀吉の養子となり後継者候補にも擬せられた人物だった。しかし、のちに毛利家の親族である小早川家の養子に出され、朝鮮出兵での不始末などもあり、政権の中枢からは外され、豊臣一族との間にも距離があった。つまり、秀秋は不遇だったのだ。家康はこの秀秋を持ち上げて、自らに味方するよう説得した。証拠は残っていないが、おそらくかなりのボーナスを約束していたはずだ。
そして、家康方についたとはいえ、家康から疑念を持たれていた福島正則、池田輝政、黒田長政らは、疑いを晴らすかのように岐阜城を攻め落とすなどの攻撃を始める。ここにおいて、家康もようやく重い腰をあげる。江戸城を発った家康は、東海道を西に進み、岡崎、熱田、岐阜を経て美濃国の赤坂に布陣した。
このとき、家康の息子・秀忠は中山道を西に進み、西軍に着いた真田昌幸がこもる上田城攻めに失敗。急ぎ西に向かっていたが、遅れを取り戻すことができず、関ヶ原の戦いには間に合わなかった。秀忠が率いていた軍勢の顔ぶれを見ると、徳川軍の主力と言ってもよいほどの陣容だった。
徳川家はかつて、上田城を攻めて手痛い打撃を受けたことがあった。家康はこの機会に真田を討ち果たし、敗戦の汚名をはらそうと考えたのだろう。しかし、この目論見は裏目に出た。
いよいよ西軍との戦いが始まるが、東軍の総大将である徳川家康の手勢は思いのほか少なかった。主力が間に合わなかっただから当然と言えば当然。しかし、そうなると、もし勝利を収めたとしても、徳川家、あるいは家康の勝利ではなく、「豊臣政権・徳川派」の勝利ということになってしまう。
天下分け目の戦いと呼ばれるこの戦い。実態としてはあくまでも豊臣政権の首相代理(家康)と、その反対派の派閥争いであり、しかも、家康にとってはいささか不本意な戦いだったのだ。(安田清人)
もちろん、結果論からすれば、その見方は間違いではありません。しかし、よくよく見てみると、実は関ヶ原合戦は、徳川家康にとっては、きわめて不本意な戦いであることが見えてきます。戦いを望んだのは誰だったのか? 家康にとって何が想定外だったか? そもそも、「天下分け目」といわれるほどの大合戦だったのか?
関ヶ原合戦の真実に迫ります。
◆家康の「野望」か、三成の「謀反」か
慶長5年(1600)9月15日、美濃国(岐阜県南部)南西部の伊吹山のふもとに広がる盆地、関ヶ原の地で、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が、「天下分け目の戦い」を繰り広げた。戦いに勝利を収めた徳川家康は、これによって「天下人」の座を獲得し、その3年後に征夷大将軍の就任。徳川幕府を開いた――とされている。
「されている」としたのには、理由がある。どうもこの戦、実態としては、天下の行く末を決するほどの大戦ではなかったらしいのだ。戦いの経過を、以下、ざっと、おさらいしてみよう。
さかのぼること2年。慶長3年に足軽から一代にして関白太政大臣にまで上り詰めた豊臣秀吉が亡くなった。遺児・秀頼はまだ5歳にすぎなかった。秀吉の晩年に五大老、五奉行と呼ばれるシステムを作りはしたが、急ごしらえのもので「政治機構」と呼べるほどの実態はなかったものと思われる。
そうなると、豊臣政権を実質的に担ってきた有力大名たちが、次の覇権をめぐって争いを始めるのは自明のことだった。大身の大名は、もともと秀吉の家臣ではなく、独立した地域権力だったのだから。
なかでも、格段の大勢力だったのは、「内府=内大臣」の位にあった徳川家康だ。関東の大半を治め、その石高は200万石を超えていたとされる。秀頼がまだ幼少だったこともあり、秀吉の死の段階で、次の「天下人」は家康だと考える人も少なくなかったらしい。
家康は秀吉が禁じていた大名同士の勝手な婚姻を推し進めるなど、政権内における自らの権力伸長に努め、「天下」への野心をあらわにする。これに反発したのが、石田三成をはじめとする秀吉子飼いの官僚派勢力だった。
しかし、秀吉子飼いといっても一枚岩ではない。加藤清正や福島正則に代表される「武断派」と呼ばれる勢力は、秀吉が行った朝鮮出兵の折に、石田三成と対立したこともあってか、むしろ、次の天下人の呼び声も高い家康に接近した。
これは豊臣政権が2つに分裂したことを示している。そして、五大老の1人である上杉景勝が本国に帰ったまま、豊臣政権のナンバーワンで、実質的には「首相代理」的立場にあった家康の上京命令を無視するという事態が起きる。家康は豊臣政権の部将たちを引き連れて東北に向かう。この機会をとらえて家康を政権から排除しようと企んだ石田三成ら反家康勢力は、家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻め落とすなど、家康との対決姿勢を明確にする。
ここで注意しなければならないのは、この反家康連合とも言うべき勢力、総大将は三成ではなく中国地方の太守・毛利輝元だったのだ。わずか19万石の所領しか持たない三成では、あまりに軽い。
いずれにせよ、まず火の手を挙げたのは、反家康サイドだった。家康は上杉攻めに同行していた秀吉政権の部将たちに去就を迫る。彼らはみな、これから起きる戦いを、豊臣政権の首班である家康に対して、石田三成ら反対派が起こした「謀反」であると位置づけた。もちろん、石田三成らは自分たちこそが豊臣政権の正当な担い手であるという意識でいたから、家康こそが謀反人であると糾弾する「内府違いの条々」と呼ばれるアジ文書を公開し、家康を激怒させたという。
◆慎重だった家康の「大誤算」
すぐに畿内に取って返し、毛利輝元や石田三成と決戦に及ぶかと思われた家康。しかし、家康は慎重だった。豊臣政権におけるナンバーワンとはいえ、その他の大名すべてを敵に回して勝利できるわけがない。家康サイドについた武将たちは、この豊臣政権内の戦いでは、家康に着いたほうが有利だと見ているだけ。いったん家康が不利と見れば、いともたやすく毛利輝元の側に寝返るだろう。
家康はしばらく本拠地である江戸から動かず、各地の大名に手紙を書きまくった。勝利の暁には新たな所領を保証しよう。この戦いは石田三成が豊臣政権に仕掛けた謀反だ。これを打倒することこそ、豊臣政権のため。亡き太閤秀吉の遺志にもかなうことだ。家康は自己宣伝と正当化に腐心し、味方を増やしていった。
その1人が、小早川秀秋だ。秀秋は、秀吉の妻「おね」の甥で、一時は秀吉の養子となり後継者候補にも擬せられた人物だった。しかし、のちに毛利家の親族である小早川家の養子に出され、朝鮮出兵での不始末などもあり、政権の中枢からは外され、豊臣一族との間にも距離があった。つまり、秀秋は不遇だったのだ。家康はこの秀秋を持ち上げて、自らに味方するよう説得した。証拠は残っていないが、おそらくかなりのボーナスを約束していたはずだ。
そして、家康方についたとはいえ、家康から疑念を持たれていた福島正則、池田輝政、黒田長政らは、疑いを晴らすかのように岐阜城を攻め落とすなどの攻撃を始める。ここにおいて、家康もようやく重い腰をあげる。江戸城を発った家康は、東海道を西に進み、岡崎、熱田、岐阜を経て美濃国の赤坂に布陣した。
このとき、家康の息子・秀忠は中山道を西に進み、西軍に着いた真田昌幸がこもる上田城攻めに失敗。急ぎ西に向かっていたが、遅れを取り戻すことができず、関ヶ原の戦いには間に合わなかった。秀忠が率いていた軍勢の顔ぶれを見ると、徳川軍の主力と言ってもよいほどの陣容だった。
徳川家はかつて、上田城を攻めて手痛い打撃を受けたことがあった。家康はこの機会に真田を討ち果たし、敗戦の汚名をはらそうと考えたのだろう。しかし、この目論見は裏目に出た。
いよいよ西軍との戦いが始まるが、東軍の総大将である徳川家康の手勢は思いのほか少なかった。主力が間に合わなかっただから当然と言えば当然。しかし、そうなると、もし勝利を収めたとしても、徳川家、あるいは家康の勝利ではなく、「豊臣政権・徳川派」の勝利ということになってしまう。
天下分け目の戦いと呼ばれるこの戦い。実態としてはあくまでも豊臣政権の首相代理(家康)と、その反対派の派閥争いであり、しかも、家康にとってはいささか不本意な戦いだったのだ。(安田清人)